高田 博久(たかだ ひろひさ、1961年7月16日 - )は、千葉県市原市[1]出身の元プロ野球選手投手)。

高田 博久
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県市原市
生年月日 (1961-07-16) 1961年7月16日(62歳)
身長
体重
172 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1985年 ドラフト外
初出場 1986年4月9日
最終出場 1992年10月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴・人物 編集

千葉商業高では、1979年夏の甲子園千葉県予選準々決勝に進出[1]。エース銚子利夫を擁する市立銚子高と対戦するが、延長16回の熱戦の末、銚子にサヨナラ本塁打を喫し敗退。

高校卒業後は、青山学院大学に進学。しかし東都大学野球リーグでは、1981年春季リーグでチームが二部リーグに降格。以後も低迷が続き、一部昇格はならなかった。1983年秋季リーグで二部優勝に貢献、MVP、最優秀投手を受賞した[1]。1年下に小川博がいる。

大学卒業後は、社会人野球日本楽器に入団。1984年都市対抗野球ではエースとして2勝をあげ準決勝に進出するが、日本鋼管に逆転負けを喫した。1985年第13回アジア野球選手権大会日本代表に選出される[1]。同年の日本選手権でも順調に勝ち進み、決勝で本田技研と対戦。伊東昭光投手と投げ合い1-7で敗退、準優勝にとどまるが同大会の敢闘賞を受賞した。

1985年オフに、ドラフト外日本ハムファイターズに入団[1]。プロ入りする際に読売ジャイアンツからも誘いを受けていたが、拒否して日本ハムに入団し話題になった。

シュートスライダーカーブを武器に、1年目の1986年オープン戦から絶好調で、新人ながら開幕一軍を勝ち取った。アンダースローでありながら本格派のような投球スタイルで、「山田(久志)二世」と呼ばれ期待された。ところが、プロ初登板で1死も奪えず8失点と打ち込まれて以降は、別人のように精彩を欠くことになる。

1990年オフに自由契約となり、横浜大洋ホエールズにテスト入団[1]

プロ7年目の1992年は、二軍で10勝2敗4S(13SP)、防御率1.12で最多勝と最優秀防御率と最高勝率と最優秀救援投手の四冠を達成。一軍でも7月5日、中日ドラゴンズ戦にてプロ初勝利を挙げ、ヒーローインタビューで涙を流したことから「涙の1勝」と脚光を浴びた[2]

1993年限りで現役を引退[1]し、その後は会社員に転身。

詳細情報 編集

年度別投手成績 編集





















































W
H
I
P
1986 日本ハム 15 3 0 0 0 0 1 0 -- .000 101 21.2 26 8 11 0 2 16 0 0 24 19 7.89 1.71
1987 6 2 0 0 0 0 2 0 -- .000 53 11.2 14 3 4 0 0 5 0 0 9 6 4.63 1.54
1988 3 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 19 4.1 7 2 1 0 0 3 0 0 5 5 10.38 1.85
1989 5 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 28 6.2 6 0 1 0 1 7 0 0 4 4 5.40 1.05
1991 大洋 3 1 0 0 0 0 2 0 -- .000 26 5.0 11 1 2 0 0 3 0 0 6 6 10.80 2.60
1992 15 3 0 0 0 1 2 0 -- .333 105 25.0 25 4 8 0 0 18 0 0 14 9 3.24 1.32
通算:6年 47 9 0 0 0 1 7 0 -- .125 332 74.1 89 18 27 0 3 52 0 0 62 49 5.93 1.56

タイトル 編集

  • イースタンリーグ最多勝(1992年)
  • イースタンリーグ最優秀防御率(1992年)
  • イースタンリーグ最高勝率(1992年)
  • イースタンリーグ最優秀救援投手(1992年)

記録 編集

背番号 編集

  • 16 (1986年 - 1990年)
  • 47 (1991年 - 1993年)

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、316ページ
  2. ^ 4時間55分の死闘に勝利し横浜大洋・高田博久が涙(1992年7月5日)”. 週刊ベースボールONLINE (2018年7月5日). 2022年5月26日閲覧。

関連項目 編集

外部リンク 編集