高田商会
沿革編集
明治初期における日本の貿易は外商と称されていた商館による独占状態にあり、こうした状況を改めるべく1880年(明治13年)、三条実美太政大臣により、政府機関が外国製品を調達する際には邦人による貿易会社(内商)を優遇するよう内達が出された。これによって1877年(明治10年)にドイツ人マルティン・ミカエル・ベア(Martin Michael Behr)により設立され、兵器商社として主に政府機関を取引先としていたベア商会も廃業に追い込まれた。そのため同商会の番頭であった高田慎蔵、同商会のイギリス人ジェームス・スコット、アーレンス商会の主H・アーレンス3者の出資により、内商であることを明確にするため高田慎蔵を名義人とした上、1881年(明治14年)高田商会として銀座三丁目18番地に店を構え、ベア商会の商権も同商会に買い取られた。
欧米より輸入した機械・船舶・武器・軍需品などを中心に取り扱っていた高田商会にとって、富国強兵を掲げ近代化を推し進めていた当時の状勢は追い風となり、1894年(明治27年)の日清戦争で巨額の利益を上げ、ウェスティングハウス社、アームストロング・ホイットワース社の日本総代理店に指定されたことなどを契機に発展し、1897年(明治30年)の八幡製鉄所建設の際には設備を納入、1903年(明治36年)に開催された内国勧業博覧会に自動車部品を出品、その後自動車や自動車部品の輸入・販売を手がけるなど、次第に総合商社として業容を拡大していく。1907年(明治40年)合資会社高田商会へ改組。創業者の高田慎蔵は汽車製造や細倉鉱山への資本参加も行い、同鉱山は1911年(明治44年)には高田鉱山と改称、1918年(大正7年)には高田鉱山株式会社を設立している。
1918年、製鉄所社員への贈賄事件により副社長と理事が収監され、1921年には創設者の高田慎蔵が病死、さらに、1923年(大正12年)の関東大震災により社屋が倒壊し商品を焼失した損害に加え、為替差損などもあいまって1925年(大正14年)2月経営破綻、整理会社となる[1][2][3][4]。
その後同社の整理案が策定され、同年8月1日には新会社の株式会社高田商会が設立され営業を開始。それは同社の関係者に第2次高田商会と呼ばれていた。それも1963年(昭和38年)日綿実業に吸収されたものの、同年高田商会関係者により第3次の株式会社高田商会が設立され、現在も機械専門商社としてその名は存続している。
タレント、高田万由子は高田慎蔵の末裔。
社屋編集
関東大震災により倒壊した本店の概要を列記するならば以下のとおり。
在籍者編集
脚注編集
- ^ 明治・大正期の代表的機械商社高田商会(上) 白鷗大学論集 9(2)、51-108頁、1995年3月 白鷗大学
- ^ 明治・大正期の代表的機械商社高田商会(下) 白鷗大学論集 10(1)、139-191頁、1995年12月 白鷗大学
- ^ 高田商会とウエスチングハウス社 : 1920年代「泰平組合」体制,その破綻(試論) 商学論集 59(4)、183-210頁、1991年3月20日 福島大学経済学会
- ^ *高田商会の瓦解『明治大正実話全集. 第5巻』伊藤痴遊、平凡社、1930
参考文献編集
- 建築學會、大正3年(1914年)7月 『建築雑誌 第二十八輯 第三百三十一號』[リンク切れ]
- 「三菱二十一號館と高田商會本社の新築落成」『建築雑誌』第331号、日本建築学会、1914年、 388-391頁、 NAID 200000121453。
外部リンク編集
- 株式会社高田商会
- 「高田商会広告」電気協会編『鉄道電化調査報告』大正13年(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- 高田商会の瓦解『明治大正実話全集. 第5巻』(平凡社, 1930)