高田事件 (法学)

日本の公安事件
高田派出所襲撃事件から転送)

高田事件(たかだじけん)とは、1952年5月25日から5月26日にかけて、愛知県名古屋市瑞穂区で発生した公安事件。名古屋市瑞穂警察署高田巡査派出所を襲撃した事件と、その直前に起きた同時多発事件の総称である。裁判において、日本国憲法第37条1項に定める迅速な裁判を受ける権利が問題となった。

最高裁判所判例
事件名 住居侵入、暴力行為等処罰に関する法律違反等
事件番号 昭和45年(あ)第1700号
1972年(昭和47年)12月20日
判例集 刑集26巻10号631頁
裁判要旨

 一 憲法三七条一項は、単に迅速な裁判を一般的に保障するために必要な立法上および司法行政上の措置をとるべきことを要請するにとどまらず、さらに個々の刑事事件について、現実に右の保障に明らかに反し、審理の著しい遅延の結果、迅速な裁判をうける被告人の権利が害せられたと認められる異常な事態が生じた場合には、その審理を打ち切るという非常救済手段がとられるべきことをも認めている趣旨の規定である。
二 具体的刑事事件における審理の遅延が迅速な裁判の保障条項に反する事態に至つているか否かは、遅延の期間のみによつて一律に判断されるべきではなく、遅延の原因と理由などを勘案して、その遅延がやむをえないものと認められないかどうか、これにより右の保障条項がまもろうとしている諸利益がどの程度実際に害せられているかなど諸般の情況を総合的に判断して決せられなければならず、事件が複雑なために、結果として審理に長年月を要した場合はもちろん、被告人の逃亡、出廷拒否または審理引延しなど遅延の主たる原因が被告人側にあつた場合には、たとえその審理に長年月を要したとしても、迅速な裁判をうける被告人の権利が侵害されたということはできない。

三 刑事事件が裁判所に係属している間に、迅速な裁判の保障条項に反する事態が生じた場合においては、判決で免訴の言渡をするのが相当である。
大法廷
裁判長 石田和外
陪席裁判官 田中二郎 岩田誠 色川幸太郎 大隅健一郎 村上朝一 関根小郷 藤林益三 岡原昌男 小川信雄 下田武三 岸盛一 天野武一 坂本吉勝
意見
多数意見 石田和外 田中二郎 岩田誠 色川幸太郎 大隅健一郎 村上朝一 関根小郷 藤林益三 岡原昌男 小川信雄 下田武三 岸盛一 坂本吉勝
意見 なし
反対意見 天野武一
参照法条
憲法37条1項、刑訴法337条
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焼き討ちにあった高田派出所

事件の発端 編集

1952年頃から、民団愛知県本部の顧問は、韓国籍に変更していない在日朝鮮人脅迫を受け続けてきた。同年3月には自宅を襲撃されたり、殺害予告のビラが貼られたりしていた。

事件の概要 編集

1952年5月26日午前5時40分頃、北朝鮮系朝鮮人数十人が顧問宅に侵入、ドアやガラスを破壊したりするなどの狼藉を働いた。

顧問は何とか逃げ出し、名古屋市瑞穂警察署高田巡査派出所に助けを求めてきた。まもなく顧問を追跡してきた一団が高田派出所に押しかけ、備品を破壊したり火炎瓶を投入したりして焼き討ちした。顧問は警察官の誘導で裏口から退避し、道を隔てた高田小学校正門より用務員室に向かったが、追いつかれ暴行により全治10日の傷を負った。

事件の捜査と犯人の検挙 編集

その後、北朝鮮系朝鮮人がらみの大須事件が発生し、中警察署特別捜査本部が設置された。本事件もこの特別捜査本部のもとで捜査が行なわれ、多くの朝鮮人が検挙された。

事件の裁判 編集

一・二審判決 編集

31名の被告人らは起訴されたが、うち20名はやはり同時期に起こった大須事件の被告人でもあった。そのため、高田事件の審理は1954年を最後に中断され、1969年5月の大須事件の結審を待って再開されるまで15年にわたって放置され続け、この間に1名の被告人が死亡して公訴棄却となっていた。中断までに行われた証拠調べは民団本部、高田事件の被害者宅の被害状況を写した写真、若干の証人などだけで、事件に被告が関与したかどうかや共謀の事実、各被告の具体的な行動などは明らかにされておらず、町が復興ですっかり変わり共謀場所や犯行現場は無くなっている中で今後の審理で被告及び証人から16年以上前のことを聞き出して事実を確定するのは極めて難しいという問題が浮上していた[1]

一審は公訴時効が完成した場合に準じ刑訴法337条4号により被告人らを免訴すべきもの[2]免訴判決をし、被告人の救済を図った(名古屋地方裁判所昭和44年[1969年]9月18日判決)。これに対して二審は、憲法第37条1項の規定はプログラム規定に過ぎなく、また刑事訴訟法には訴訟遅延を免訴とする事由とされていないとして一審を破棄した(名古屋高等裁判所昭和45年[1970年]7月16日判決)。被告人が上告

最高裁判所判決 編集

最高裁判所1972年12月20日大法廷判決[2]では、免訴の判決をした第一審を支持し、第二審を破棄し、検察官の控訴を棄却した。

1964年頃に被告人団長および弁護人から大須事件の進行とは別に本件の審理を再び開くことに異議がない旨の意思表明が裁判所側に対してなされたこと、検察官から積極的に審理促進の申出がなされた形跡が見あたらないこと[3]、名古屋地裁が長期間、審理を再開できなかった合理的理由がないことなどを挙げた上で以下のように判断した。

「審理の著しい遅延の結果、迅速な裁判の保障条項によつて憲法がまもろうとしている被告人の諸利益が著しく害せられると認められる異常な事態が生ずるに至つた場合には、さらに審理をすすめても真実の発見ははなはだしく困難で、もはや公正な裁判を期待することはできず、いたずらに被告人らの個人的および社会的不利益を増大させる結果となるばかりであつて、これ以上実体的審理を進めることは適当でないから、その手続をこの段階において打ち切るという非常の救済手段を用いることが憲法上要請されるものと解すべきである。」

天野武一裁判官は「審理遅延の主たる原因とその遅延から受ける被告の不利益の有無やその程度に関する事実関係についてもっと調べるために高裁に差し戻すべき」とする反対意見を出した。

迅速な裁判を受ける権利 編集

本判決は、憲法37条1項の性質について具体的権利説をとった例と見られるが、必ずしもそのように明言しているわけではない。また、現在までのところ、憲法違反により訴訟を打ち切られたケースはこの1件だけであり、本件は憲法に触れた例外的ケースと見ることも可能である。

この権利を適用するには被告人が積極的な裁判の推進を求めなければならない、とする説がある(要求法理)。学説は要求法理を否定するが、本判決及び後の判決では要求法理を求めたため、以後の同様な事件で同様の救済を求めることが難しくなった。

なお、2003年に「裁判の迅速化に関する法律」(平成15年法律第107号)が制定され、第一審は2年以内に終結させることなどが目標とされることとなった。

脚注 編集

  1. ^ 田中二郎、佐藤功、野村二郎『戦後政治裁判史録2』(第一法規)239頁
  2. ^ a b 最高裁判所大法廷判決 1972年12月20日 、昭和45(あ)1700、『住居侵入、暴力行為等処罰に関する法律違反等』。
  3. ^ 田中二郎、佐藤功、野村二郎『戦後政治裁判史録2』(第一法規)249頁では、『当時の検察関係者の話として一審審理中断中に、検察側は何度か審理促進を裁判所に申し入れたが、被告・弁護側が反対、口答による申し入れだったため、訴訟記録に残らなかった』と書かれている。

参考文献 編集

  • 『名古屋市警察史』名古屋市総務局調査課編、1960年
  • 『愛知県警察史 第3巻』愛知県警察史編集委員会編、1975年
  • 李瑜煥『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』1980年
  • 『戦後政治裁判史録 2』田中二郎他編、1980年

関連項目 編集