高輪原の戦い(たかなわはらのたたかい)は、大永4年1月13日1524年2月17日)に武蔵高輪原で行なわれた相模北条氏綱軍と武蔵の扇谷上杉朝興合戦である。

高輪原の戦い
戦争戦国時代
年月日大永4年1月13日1524年2月17日
場所:武蔵高輪原(現在の東京都港区高輪
結果:北条軍の勝利
交戦勢力
北条 上杉
指導者・指揮官
北条氏綱 上杉朝興

合戦の経緯編集

北条家では北条早雲の死後、第2代当主となった氏綱が父の遺志を継いで相模小田原城を中心にして武蔵方面への勢力拡大を狙い始めた。武蔵に勢力を張る扇谷上杉朝興との対決である。氏綱は扇谷上杉家の家臣に対する調略を進め、大永4年(1524年)1月、扇谷上杉家の家臣で江戸城代であった太田資高を寝返らせた[1]

氏綱はこの機に乗じて武蔵侵攻を開始。対する朝興も氏綱を迎撃するために大軍で高輪原に進出し、北条軍と上杉軍は1月13日に同地で衝突した。この戦いは両軍共に激しく一進一退を繰り返し、両軍揉み合う事7、8度という死闘であった。だが最終的に上杉軍は北条軍に押されて後退し、江戸城に撤退する[1]。しかし氏綱は朝興を猛追して江戸城に殺到し、朝興は江戸城を支える事もできなくなる。朝興は江戸城を放棄して河越城に逃走し[2]、この合戦は北条軍の勝利に終わった。

その後編集

この戦いで北条家は武蔵進出の足掛かりを掴む事になった[2]。しかし扇谷上杉家の武蔵における勢力はなおも根強く、また山内上杉憲房も北条家の武蔵進出を食い止めるために朝興を支援したため、しばらくは北条家と扇谷上杉家の一進一退の状況が続く事になる。

大永5年(1525年)2月には扇谷上杉家の家臣・太田資頼を破って岩槻城を奪取するが(岩槻城の戦い[2]、扇谷上杉家の抵抗はなおも激しく続き、北条家が武蔵を領国化していく事はまだまだ先の事であった[3]

脚注編集

  1. ^ a b 小和田 1996, p. 77.
  2. ^ a b c 小和田 1996, p. 78.
  3. ^ 小和田 1996, p. 79.

参考文献編集