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あらすじ編集

安兵衛は女房に先立たれ、一粒だねの清吉と暮らしているが家主の好意で後添えの女房おまさを貰う。親子三人貧しくとも平和な日々を送っていた。そんな両親の悩みの種は、清吉が継母になつかないことであった。

ある日、清吉は「芝居に行きたいさかい、小づかい呉れ」とおまさにねだるが、すげなく断られ、腹立ちまぎれに、わざと自宅の前の水たまりにころび、帰ってきた安兵衛に「お母んにやられたんや」と泣きつく。事情を知らない安兵衛は子供可愛さのあまり一方的におまさをなじり、家の中は大もめになるが、駆け付けた家主から、清吉が札付きの不良であり、「お前はんは何も知らんから、このさい言うとくけどな。清吉は、このままではとんでもない悪党になりよる。いっそ、どこかしっかりした店に奉公に出した方がええで」と諭される。驚いた安兵衛はおまさに謝罪し、寝ている清吉を包丁で殺そうとするが、情が移ってできず夫婦ともども泣き伏してしまう。こうして家主の世話で清吉を奉公に出す。

それから十年後の夏、すっかり成人した清吉が安兵衛夫婦のもとに帰ってくる。「清吉か。すっかり大きゅうなりよって」と喜ぶ安兵衛に、「お父さん、お母さんも御健在でなによりです」と清吉は物腰から言葉遣いまで立派になっていた。「おい。おまさ、何してるねん。清吉が帰ってきよったんや。」「まあ、清吉」とおまさも大喜び、「暑かったやろ。風呂は入っといで。服はそこに脱いで、お父さんの浴衣着て行き。」「それではそうさしてもらいます」と清吉は服と財布を置いて風呂屋に行く。

だが、おまさは清吉の財布に不相応な大金がある事に不審を抱く。よもやと思った安兵衛が、帰ってきた清吉に「清吉、おのれはなあ」と涙ながらに問い糺すと、清吉は悪びれる様子もなく、「こうなったら仕方がねえ。実は、奉公先は一年ももたず、関東の方に流れ着いた揚句、鬼あざみと呼ばれる盗賊の頭となった。今日来たのも、こんたに別れを言いにきたのだ」とすごんで去って行くのであった。

概略編集

講釈ネタで、上方落語には珍しい人情噺である。前半部の清吉が引き起こす家庭内騒動の件は、東京の六代目三遊亭圓生が演じた長編人情噺『双蝶々』の発端部と同じであり、何らかの関連性が見られる。後半部の安兵衛と清吉との会話は、はめものが入り芝居がかった演出がとられている。

なお、清吉が親の元を去ったあと、「このあと、おまさは気に病んで死んでしまいます。三年後、世をはかなんだ安兵衛が橋から身を投げようとしたのを、清吉が助けるという因果となり、清吉は金持ちの家に入り貧しい者には入らず盗んだ金子を与えるという、義賊のようなもので。『武蔵野に はびこるほどの 鬼あざみ 今日の暑さに 枝葉しおるる』という辞世の句を詠んで、三十一歳を一期として刑場の露と消える、鬼あざみの発端の一席…」と講釈風の説明を入れてこの噺は終わる。

四代目桂文紅は師の文團治から直接この噺を伝授してもらったが、晩年は訥々と語るいぶし銀のような芸で親子の情愛を演じ、高レベルの上方人情噺を観客に満喫させていた。

上方落語の人情噺編集

上方落語には、東京落語と比べ人情噺が少ないが、それでも『ざこ八』『立ちきれ線香』『大丸屋騒動』『しじみ売り』などの秀作が見られる。また『一文笛』(三代目桂米朝作)などの創作や東京から『淀五郎』を移植するなど人情噺を上方落語に根付かせる動きが見られる。

実在した清吉編集

鬼薊清吉は、文化二年 (1805) 年に小塚原刑場打ち首獄門となった実在の盗賊・鬼坊主清吉をモデルとしている。墓所は東京都豊島区雑司ヶ谷霊園にあり参詣客が絶えない。安政六年 (1859) には二代目河竹新七(黙阿弥)四代目市川小團次主演で劇化したのが全六幕の『小袖曾我薊色縫』である。これも講釈から脚色しているが、御家騒動や江戸城御金蔵破りの事件を絡ませており、落語よりも複雑な構成となっている。現在ではこのうち清吉とその情婦・十六夜にかかわる部分のみが全四幕の『花街模様薊色縫』(十六夜清心)としてよく上演されている。

後編の復活口演編集

平成元年 (1989) 10月13日京都安井金毘羅神社での「第138回桂米朝落語研究会」において、三代目桂南光(当時桂べかこ)が現行の演目を『鬼あざみ 上』、米朝が『鬼あざみ 下』を演じた。下は清吉の島抜けを主題としたもので、米朝自身が学生時代東京の講釈場で聞いたものをもとに復活した。

関連項目編集

参考文献編集