魏 益三(ぎ えきさん / ウェイ・イーサン)は中華民国の軍人。安徽派奉天派国民軍直隷派と渡り歩き、最後は国民革命軍に加わった人物である。友仁。最終階級は中将

魏益三
プロフィール
出生: 1884年光緒10年)
死去: 1964年1月26日[1]
中華人民共和国北京市
出身地: 直隷省正定府藁城県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 魏益三
簡体字 魏益三
拼音 Wèi Yìsān
ラテン字 Wei I-san
和名表記: ぎ えきさん
発音転記: ウェイ イーサン
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事跡 編集

1914年民国3年)11月、保定陸軍軍官学校第1期砲兵科を卒業。第1師(長:蔡成勲)連長を経て[2]1917年(民国6年)、北京陸軍大学第5期に入学する。その後、保定陸軍軍官学校で教官となり、1920年には徐樹錚の西北辺防軍第3混成旅(長:褚其祥中国語版)騎兵第4団団長として庫倫に駐屯[1][3]安直戦争後の1921年(民国10年)、東北に赴いて奉天派に転じ、東北陸軍第39団団長[3]、第3混成旅(長:張学良)参謀長に任ぜられる。1923年、東三省教導隊隊長兼任、東北陸軍講武堂教官[1]1924年(民国13年)、張学良が師団長を務める第27師参謀長となった[4][5]。第2次奉直戦争では、姜登選の第1軍と張学良の第3軍を合併させた鎮威軍第1、3聯軍の参謀長として張学良をサポートし[1]、熱河、直隷に展開。翌1925年春、第1、3聯軍は京楡駐軍司令部に改編され天津に駐留、ほどなくして東北陸軍砲兵第2旅旅長に転じ、10月に東北陸軍第3方面軍第10軍(長:郭松齢)参謀長兼砲兵司令[1]

奉天派から国民軍、直隷派へ 編集

1925年(民国14年)11月、軍長の郭松齢張作霖打倒の兵をあげ、自身の軍を東北国民軍と称し5個軍に再編。魏益三もこれに従って東北国民軍第5軍軍長兼砲兵司令となり、3個旅団、騎兵、砲兵各1団を擁して山海関を占領。翌月、郭松齢が敗死すると、ほかの4個軍は武装解除されるが、魏益三はそれを拒み、部下の郝夢齢中国語版を介して馮玉祥率いる国民軍に合流[6]鹿鍾麟の助けで灤河西岸へ逃れ、1926年(民国15年)1月3日、国民軍第4軍軍長兼灤河防守司令部副司令に任ぜられた[1][7]。2月に保定に移駐[7]。しかし3月に国民軍が敗北すると、魏益三は国民軍を離れて山西省閻錫山に降り、3月25日、自軍を「正義軍」と自称する[8][7]。5月、閻錫山により正義軍は討国民聯軍第4軍第1路に改編され、魏益三は第4軍副司令兼第1路司令に任ぜられる。その後、閻錫山と連携していた呉佩孚の十四省討賊聯軍に移籍し、第4軍副総司令、6月より第3路総司令に任ぜられた[3]1927年(民国16年)初めに、靳雲鶚率いる河南保衛軍に加わり、副司令兼第2方面軍軍長[9][5](第8軍とも[10])となる。

国民政府への易幟 編集

同年5月、魏益三は靳雲鶚に従い武漢国民政府側に易幟。1927年3月、魏益三は唐生智率いる国民革命軍第4集団軍隷下の第30軍軍長となり、4月より北伐に参加、左翼軍に隷属[10]。郝夢齢率いる第2師は第一線で交戦し遂平包囲戦に参加したが、主力は信陽、広水、応山中国語版一帯で後方の治安維持に努めた[10]。7月、湖北北部の武勝関、広水、黄陂一帯に展開[11]。 8月、部隊で内紛が起こり、一部の隷下部隊を率いて蔣介石の南京国民政府に帰順、国民革命軍第4集団軍(司令官:白崇禧)による再編を受け入れ、安徽省六安に駐屯[10][12]

寧漢戦争勃発後の1928年(民国17年)1月、湖南省の唐生智軍残党への総攻撃が開始されると、李宗仁率いる西征軍西路に属し、魯滌平の第2軍、李燊の第43軍とともに、津市澧県安郷県などで唐生智軍の第35軍(長:何鍵)、第18軍(長:葉琪中国語版)と交戦。2月25日、隷下第1師~第3師が第103師、第104師、第105師に、6月12日、騎兵旅が教導師(長:劉鳳池)に再編[12]。3月、唐生智軍は降伏した。元の第30軍は彭振国が代理軍長を務めていたが、接収し軍長に就任[12]。第32軍軍長に任命されている。同年5月、軍事委員会委員にも任ぜられた。同年11月24日、第30軍は蘇蔭森の部隊と合併縮小して第4集団軍第11師となり師長[13]。翌1929年(民国18年)1月20日、中央番号の順序に従い第54師に改称されると、王沢民と代わって第4集団軍総司令部総参議に任ぜられた[12][13]

1930年(民国19年)3月、軍事参議院参議となる。第8軍軍長兼第2方面軍副総司令、第2路代総指揮、軍事委員会北平分会委員、廬山軍官訓練団中国語版教官、武昌行営陸軍整理処研究委員会主任委員を歴任[1]1935年(民国24年)4月、陸軍中将。1936年10月、欧米に軍事視察に赴く。

1937年、中央傷兵管理処処長。1938年(民国27年)3月、軍事参議院諮議となる。1944年(民国33年)(1940年5月とも[1])、軍政部栄誉軍人総管理処処長に任ぜられた[9][5]。のち、軍政部特別党部執行委員兼任。1945年5月、軍政部中将参議。このほか、第11戦区中国語版(長官:孫連仲)長官部顧問も務めた[14]

1946年8月に退役し、北平に赴く。1947年より東北保安司令長官部中国語版(長官:杜聿明)顧問、1948年初より国防部部員、11月より国防部栄誉軍人総管理処処長などを歴任している[1]

国共内戦末期に、魏益三は雲南省で何らかの職務に就いていた模様である。しかし1949年(民国38年)12月、雲南省政府主席盧漢が起義(反国民党蜂起)を決行した際に、魏益三は盧漢に捕縛されてしまった。[5]その後釈放され、中華人民共和国北京市人民委員会専員などを歴任した。1964年、死去。享年81。[14]

著作 編集

  • 郭松齡和奉軍的矛盾 

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i 魏益三” (中国語). 石家庄市藁城区人民政府. 2020年4月29日閲覧。
  2. ^ 田子渝 劉徳軍 (1989). 中国近代軍閥史詞典. 档案出版. p. 592 
  3. ^ a b c 杨 2001, p. 1000.
  4. ^ 徐主編(2007)、2689-2690頁。
  5. ^ a b c d 劉主編(2005)、2463頁。
  6. ^ 杨 2001, p. 789.
  7. ^ a b c 戚 2001, p. 31.
  8. ^ 郭主編(1990)、408頁
  9. ^ a b 徐主編(2007)、2690頁。
  10. ^ a b c d 戚 2001, p. 82.
  11. ^ 戚 2001, p. 32.
  12. ^ a b c d 戚 2001, p. 109.
  13. ^ a b 戚 2001, p. 189.
  14. ^ a b 北京市人民政府参事室ホームページ。

参考文献 編集

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 参事紹介「魏益三」北京市人民政府参事室ホームページ  ※2012年6月現在リンク切れ
  • 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4 
  • 戚厚杰編『国民革命軍沿革実録』河北人民出版社、2001年。ISBN 978-7202028148 
  • 杨保森『西北军人物志』中国文史出版社、2001年。ISBN 9787503453564https://books.google.co.jp/books/about/%E8%A5%BF%E5%8C%97%E5%86%9B%E4%BA%BA%E7%89%A9%E5%BF%97.html?id=Kb-pDwAAQBAJ&redir_esc=y