鳴条の戦い(めいじょうのたたかい)は、約紀元前1600年中国で起こった戦い。が鳴条(現在の山西省運城市夏県の西[3])から軍を起こし、中国最古の王朝であるに向けて進軍した。結果、夏は滅亡し湯がを興した。

鳴条の戦い
戦争:鳴条の戦い
年月日:約紀元前1600年[1]
場所:鳴条[2]
結果の勝利で夏王朝の滅亡。
交戦勢力
指導者・指揮官
伊尹
戦力
戦車70機、歩兵6000人(湯) 方国連合は不明。 不明

概要編集

事前の経緯編集

 
夏の桀。 西暦150年、山東省嘉祥県の神社

王位に渡った際、夏は以前と比べてもはや強くはなかった。桀は普段は不正を働き、また無責任であった。桀は自身の宮殿が素朴すぎると感じ、新たな宮殿の建造を命じた。これには7年もの月日を費やし、数万人もの奴隷を働かせ、また、多額の資金を使い切った。農民は憤慨した[1]

 

そうしている間に、黄河の下流の近くにあるは、近くの部族からの支援を得ることに成功した。彼らの祖先である后稷は、の為に働き、殷の領地を与えられた。殷はの治世中、農業の発展により、ますます力を得ていた。湯は近くの部族と同盟を結び、また、その配下を丁重に扱った[4]。湯は伊尹によっても支えられた。伊はもともと湯の義父の奴隷であったが、湯が結婚したとき、湯の料理人となった。伊はまた、当時の情勢を分析し単なる料理人ではなく、湯の右腕になった[1]。湯は夏を終わらせる決心をした。湯は桀に従うことに同意したが、ひそかに夏王朝を転覆する準備をした。最初に、湯はその国民を亳という名の場所に移させた。 亳から夏の首都までの地域は平坦であり、進路をさえぎる丘や川はほとんど無かった。湯は自分の配下にも寛容だったので、彼らの支持を受けていた[1]。ほとんどの貴族が幽霊を信じていたように、彼らは神とその先祖を崇拝することが非常に重要であると信じていた。地理的に殷に近い葛にいた部族は、定期的に祖先を祭祀せず、湯が犠牲のためにと与えた家畜と羊を食べてしまい、また、動物を送った湯の子供を殺した。 湯はこの部族を征服し、さらにいくつかの周辺部族を滅ぼした。しかし桀は湯が彼の王位に対する脅威であることを認識していなかった[1]

関連項目編集

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e 戴, 逸; 龔, 書鐸 (Chinese). 中國通史(學生彩圖版). Hong Kong. pp. 50,51; 60–63. ISBN 978-962-8792-80-1 
  2. ^ 現在の山西省運城市夏県の西、一説によると現在の河南省洛陽市付近とも言われている。
  3. ^ 一説によると現在の河南省洛陽市付近とも言われている
  4. ^ Yi Yin the Wise Counselor”. www.shme.com. 2019年8月11日閲覧。