鶴慶府(かくけいふ)は、中国にかつて存在した明代から清代にかけて、現在の雲南省大理ペー族自治州北部に設置された。

概要 編集

南詔により謀統郡が置かれた。大理国においても引き続き謀統府とされた。

1253年憲宗3年)、モンゴル帝国により義督𧸘に鶴州が置かれた。1286年至元23年)、により鶴州は鶴慶路に昇格した。鶴慶路は雲南等処行中書省に属し、剣川県1県を管轄した[1]

1382年洪武15年)、明により鶴慶路は鶴慶府と改められた。1397年(洪武30年)、鶴慶府は鶴慶軍民府と改められた。鶴慶軍民府は雲南省に属し、剣川州順州の2州を管轄した[2]。高氏が土司として知府を世襲した。1437年正統2年)、鶴慶土知府の高倫が非行を理由に沐昂に逮捕された。1443年(正統8年)、高倫は処刑され、改土帰流により林遒節が鶴慶府知府とされた。以後、鶴慶府は流官の統治するところとなった[3]

1770年乾隆35年)、清により鶴慶府は鶴慶州に降格し、鶴慶州は麗江府に属した[4]

1913年中華民国により鶴慶州は廃止され、鶴慶県と改められた。

脚注 編集

  1. ^ 元史』地理志四
  2. ^ 明史』地理志七
  3. ^ 『明史』土司伝五
  4. ^ 清史稿』地理志二十一