麻績御厨(おみのみくりや)は信濃国筑摩郡(現在の長野県麻績村筑北村)にあった伊勢神宮御厨筑北盆地(麻績盆地)一帯の麻績川流域にあたる。

歴史編集

平安時代に伊勢神宮内宮の御厨として立荘され、嘉承年間の「皇大神宮建久巳下古文書」に記載がある。その後は本家伊勢平氏本所が内宮という状態にあったが[1]、『兵範記保元2年(1157年)3月29日条の太政官符に「信濃国 肆箇所 麻続(麻績)御厨」とあり、保元の乱で謀反人となった平正弘から没官領として収公され、後院領となったことがわかる。

鎌倉時代には、『吾妻鏡文治2年3月12日1186年4月3日)条に後白河法皇から源頼朝に示された「関東御知行国々内乃具未済庄々注文」では再び伊勢神宮内宮の所領となる一方で、後白河上皇領家分が納入された。貞応3年(1224年)には伊賀氏の変に敗れた伊賀光宗が配流され、永仁2年(1294年)には伊賀頼泰から光貞に所領として荘内の矢倉村が、室の藤原氏に大吉郷が相伝されている[2]。また伊賀氏一族の藤原時盛が永仁4年(1296年)に書いた願文が福満寺に残存している[3]

南北朝時代建武3年(1336年)には、北条氏残党勢力と小笠原氏らが大吉郷の十日市場で交戦し(『市河家文書』)、同4年(1337年)には、伊賀盛光の代官として土着した麻績盛清が、伊勢氏の所領陸奥国好嶋荘周辺の戦闘で活躍し、関東にも転戦している[4]室町時代には口入神主の荒木田氏の私領化し、寛正5年(1464年)には内宮禰宜荒木田永量から、永尚、永家の二子に折半され、この時期に御厨としては退転した[4]戦国時代には武田氏の支配の下、青柳頼長の所領となっており、天正9年(1581年)には内宮御師の宇治久家が訪問している(『信濃国道者之御祓くばり日記』)。

神鳳鈔』には「麻績御厨八ケ条」とあり、本家の内宮への神貢(供祭上分料)として、「鮭150隻、同児1桶、搗栗1斗、干棗1斗」等を納入し、領家の内宮禰宜荒木田元雅には口入料として、「六丈布60端、四丈布16疋、鮭30隻、同児1桶」を負担していたことがわかる。

御厨の鎮守は麻績神明宮であり、御厨の退転後も八ケ条(8か村)で祭祀や造営を負担している[5]。十日市場は神明宮の門前に形成された市場町とみられる[6]

脚注編集

  1. ^ 「国史大辞典」p.915
  2. ^ 「長野県史」p.314
  3. ^ 「長野県の地名」p.562
  4. ^ a b 「日本史大事典」p.1260
  5. ^ 「角川日本地名大辞典」p.293
  6. ^ 「長野県史」p.389

参考文献編集

  • 『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』(平凡社、1979年)
  • 『国史大辞典 2』(吉川弘文館、1989年)
  • 角川日本地名大辞典 20 長野県』(角川書店、1990年)
  • 『日本史大事典 1』(平凡社、1992年)
  • 『長野県史 通史編 第3巻 中世2』