黄変米(おうへんまい)とは、人体に有害な毒素を生成するカビが繁殖して黄色橙色に変色したを指す。穀粒が着色するため、これらの変質米を黄変米と呼ぶ[1]

黄変米を試食してアピールする草葉隆圓厚生大臣

主としてペニシリウム属 (Penicillium) のカビが原因となる。カビ自体は有害なわけではないが、カビが作り出す生成物が肝機能障害や腎臓障害を引き起こす毒素となる。カビ毒をマイコトキシンと総称するが、総じて高温に強く分解が困難なため加熱殺菌によりカビ自体を死滅させても毒素は無毒化されずに残存してしまう。黄変米はカビの拡散を防ぐためと毒素分解の必要性から高温で焼却して廃棄するのが最善の処理方法である。

日本では昔からまれに、食すると衝心性脚気に類似した症状を呈する、「在来黄変米」の存在が知られていたが、第二次世界大戦後の食糧難時代に、輸入米の一部から有害のペニシリウム菌が発見され、1954-1955年を中心に大きな話題となった[1]

原因真菌 編集

  • ペニシリウム・シトレオビライデ(Penicillium citreo-viride、シトレオビリデと表記される事もある、当初はペニシリウム・トキシカリウムと名付けられていた)
    • 毒素としてシトレオビリジンという神経毒を生成し、呼吸困難・痙攣を引き起こす。
  • ペニシリウム・シトリヌム(Penicillium citrinum、シトリナムと表記される事もある)
    • 毒素としてシトリニンを生成し、腎機能障害・腎臓癌を引き起こす。
  • ペニシリウム・イスランディクム(Penicillium islandicum、イスランジウム、イスランジクム、イスランジカムと表記される事もある)
    • 毒素としてシクロクロロチン(イスランジトキシン)、ルテオスカイリン、を生成し、肝機能障害・肝硬変・肝臓癌を引き起こす。

以上の3種が黄変米の原因となる主要なカビである。この他にも黄変米には必ずしも直結しないが、マイコトキシンを生成するペニシリウム属のカビとして以下のカビが知られている。

  • ペニシリウム・イクパンザム(Penicillium expansum)
  • ペニシリウム・シクロピウム(Penicillium cyclopium)
  • ペニシリウム・パツルム(Penicillium patulum)
  • ペニシリウム・ルグローザム(Penicillium rugulosum)
  • ペニシリウム・ビリディカータム(Penicillium viridicatum)

黄変米事件 編集

概要 編集

日本では戦後の食糧難の時代に外国から大量の米が輸入され、国民への配給が行われていた。1951年12月にビルマ(現 ミャンマー)より輸入された6,700トンの米を横浜検疫所が調査したところ、1952年1月13日に約1/3が黄変米である事が判明し、倉庫からの移動禁止処分が取られた。

すぐに厚生省(現 厚生労働省)の食品衛生調査会で審議され、黄変米が1%以上混入している輸入米は配給には回さない事が決められた。基準を超えた米はやむを得ず倉庫内に保管されたが、その後も輸入米から続々と黄変米が見つかり在庫が増え続けた。配給米の管理を行っていた農林省(現 農林水産省)は処分に困り、黄変米の危険性は科学的に解明されていないという詭弁を用いて、当初の1%未満という基準を3%未満に緩和し配給に回す計画を立てた。この計画が外部に漏れ、朝日新聞1954年7月にスクープしたことで世論の批判がおき、黄変米の配給停止を求める市民運動などが活発化することになる。在野の研究者も黄変米の危険性を指摘したが、政府は配給を強行し、配給に回されなかった米についても味噌醤油煎餅などの加工材料として倉庫から出荷しようとした。

この直後に厚生省の主導で黄変米特別研究会が組織され、農林省食料研究所の角田廣博士、東京大学医学部の浦口健二助教授などが黄変米の研究を開始した。研究会では、角田や浦口などの努力により極めて短期間に黄変米の高い毒性が解明される事になった。

研究会の成果と、世論の強い反発のため黄変米の配給は継続できなくなり、同年の10月には黄変米の配給が断念された。このため、黄変米の在庫は増え続ける一方となり、窮地に陥った政府は1956年2月に明確な安全性の根拠が無いまま、黄変米を再精米し、表面のカビを削り落として配給を行う政策を再度発表する。

だが、黄変米の在庫は減る事が無く長期にわたって倉庫に保管され続けることになり、結局は再精米の上で家畜の飼料など食用以外の用途として10年間にわたり処分されたといわれている。

なお、特別研究会に参加した角田は黄変米が発見された当初より職を辞する覚悟で農林省に強硬に抗議した事が知られており、はじめの時点で1%基準が策定されたのも彼の尽力によるものが大きい。彼の努力が無ければ黄変米の配給問題は誰にも知られずに闇に葬られていた可能性が高いと言われている。

背景 編集

第二次世界大戦の影響で若い男性はすべて戦争に駆り出され農村の労働力は枯渇していた。また、肥料をはじめとする農業資材も極度に不足していた。この状況で、復員兵や満州などからの帰還者が大量に日本国内に流入したため未曾有の食糧不足が発生した。当時の状況においては外国からの輸入物資に頼るほかに道は無かったが、肝心の外貨は底を尽き、度重なる空襲によって生産設備は灰燼に帰していたので外貨の獲得手段も無かった。

政府は少ない外貨を効率的に使用し、食料と復興のための必要物資を調達しなければならなかった。このため、外国で米を調達する際には価格優先で低品質のものを選択する以外なく、輸送船も荷物を安く運べさえすれば良いという選択肢を取らざるを得なかった。結果的に、輸送中に米にカビが生え黄変米となってしまった。貴重な外貨で手に入れた物資だっただけに捨てる事もできず、新たに輸入するにはまた外貨が必要となるので、何とかして当初の目的どおりに使用しようと考えた為に発生した事件である。

握り寿司の赤酢を白酢へ 編集

江戸前握り寿司の材料として欠かせないは、発祥時は初代中野又左衛門により粕酢(赤酢)が米酢として使用され[2]、赤酢と塩のみで合わせ酢を作り砂糖を使用しないのが伝統的な江戸前寿司の製法であった[3]。ところが、現在では白酢を使い、塩のほかに砂糖を混ぜて合わせ酢にするのが一般的になっている。黄変米事件がこの変化の原因の一つとなっている。

赤酢を使うと寿司飯には酢の色が移りほんのり赤みを帯びる[3]。ところが黄変米事件で神経質になっていた客が寿司飯の色から黄変米混入の疑念を持ち、寿司店への苦情が相次いだ。寿司店では対応に苦慮した結果、多くの店が酢の種類を赤酢から白酢に切り替えた。しかし、コクがある赤酢に比べ白酢はあっさりしすぎていたため、寿司飯とネタのバランスが上手く取れなくなってしまった。コクを補うために砂糖を合わせ酢に入れる事が一般的になり現在の寿司飯の製法になったと言われている。

ただし、赤酢から白酢への変換は黄変米のみが原因ではなく、戦後の物資難のために赤酢自体の供給が不足した為でもある。

参考文献 編集

  • 辰野高司『カビがつくる毒 ―日本人をマイコトキシンの害から守った人々―』東京化学同人、1998年9月3日 ISBN 4807912704

関連項目 編集

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  1. ^ a b 日本大百科全書(ニッポニカ)「黄変米」の解説”. コトバンク. 2022年11月17日閲覧。
  2. ^ 江戸の握りずしブームと粕酢
  3. ^ a b 寿司と合わせ酢のいまむかし~食酢業界における砂糖類の利用と動向4.すしとすし用合わせ酢 (1)昔のすし、今のすし

外部リンク 編集