黒シール事件(くろシールじけん)とは、1983年第37回衆議院議員総選挙が公示される前に、立候補予定者の新井将敬の政治広報版に掲載された選挙ポスターに対して石原慎太郎の陣営がシールを貼付した事件である。

事件のあらまし 編集

1968年7月7日第8回参議院議員通常選挙全国区自由民主党公認で立候補して初当選した石原慎太郎は、「本道を歩みたい」との理由から1972年に任期を2年残して辞任。その年の12月10日執行の第33回衆議院議員総選挙で、当時の自宅のある東京都大田区を地盤とする東京2区から立候補して、鞍替え初当選。1975年東京都知事選挙に立候補するため辞職するが、落選。その後、1976年12月5日執行の第34回衆議院議員総選挙で復活当選し、以降3回連続でトップ当選。

このとき、石原慎太郎と同じ選挙区に同党公認で新井将敬が立候補したが落選した。そして、1983年の第37回衆議院議員総選挙が公示される前、何者かによって新井の政治広報版に掲載された選挙ポスターに1966年北朝鮮から帰化」というシールが貼られるという事件が起こり、これに石原の公設第一秘書・栗原俊記が関与していたことが判明した。栗原は大手ゼネコン鹿島建設の社員であったが、休職扱いで出向してきていた。第一公設秘書が指揮したとあれば、当然公職立候補者である石原の指示があったかどうかが疑われる。結果として、これは石原陣営による対立候補に対する刑事事件として、世間に知れ渡ることとなった。

新井将敬が黒シールを貼られた理由 編集

同じ選挙区に立候補していた新井は、東京大学を卒業後、新日本製鐵勤務を経て大蔵省に入省。キャリアとして出世街道を驀進していたが、渡辺美智雄の誘いを受ける形で、大蔵省を辞職し第37回衆議院議員総選挙に立候補した。新井は元々は在日朝鮮人[1]で、日韓基本条約大韓民国と関係を結んだ翌年、1966年日本国籍を取得している。この年に日本へ帰化した事は紛れもない事実である。しかし、黒シールには「北朝鮮国籍」と書かれていた。だが、正確には朝鮮籍である。朝鮮籍は便宜上の籍であり、正確には外国人登録法外国人登録制度上の記号と見るべきものであり、また朝鮮半島ではなく、日本国内(大阪市)出身であることから、黒シールにあるような『北朝鮮からの帰化』ではない。

社会的批判 編集

新井が黒シールを貼られた事にいち早く抗議したのは勧誘した渡辺である[2]。発覚後は「彼は日本人だ! 日本人が立候補して何が悪い!」とインタビュアーの前で怒りをぶちまけた。また、民族派右翼の大物として知られた野村秋介も、この件で石原の事務所に乗り込み抗議した。

石原は「秘書が勝手にやった事」と正当性を主張したが、保守系メディアも『週刊新潮』を別にして、器物損壊罪という犯罪であることもあり、明確な擁護論を展開しなかった。さらに、当時石原が派閥の領袖であったことから党内の信用も失墜するなど社会的非難を浴びることとなった。

また、このことで、石原は、在日朝鮮人から「在日朝鮮人排撃主義者」として非難されることとなった。

その後 編集

なお、事件は選挙ポスターに貼られたものであることから、器物損壊事件であり、石原慎太郎の関与も問われたが、栗原のみが立件されただけで、石原自身に捜査が及ぶことはなかった。なお、新井は同じ選挙区で1986年7月6日執行の第38回衆議院議員総選挙に出馬し当選している。

脚注 編集

  1. ^ 朴景在(パク・キョンジェ、박경재)が取得前の本名で、新井は通名だった。
  2. ^ 渡辺は新井に政界入りを勧める際にも、「帰化した事に対して、世間では理由のない非難を浴びせる輩もいるかも知れないが、その覚悟はあるのか」と問いただすなど、新井に対して気遣いをしていた。

参考文献 編集

  • 『日本改革の今昔 首相を目指した在日新井将敬』(旧題『代議士の自決ー新井将敬の真実』河信基)