黒媛(くろひめ、生年不明 - 推定404年履中天皇5年9月19日)[1])は、古墳時代の女性。父親は葦田宿禰[2]あるいは羽田矢代宿禰[3]古事記では黒比売命と記される。

 
黒媛
時代 古墳時代
生誕 不明
死没 不明
別名 黒比売命、狭名来田蒋津之命
氏族 葛城臣
父母 父:葦田宿禰、一説:羽田矢代宿禰
兄弟 蟻臣、一説:星川広目宿禰、淡海布禰古臣
磐坂市辺押磐皇子御馬皇子飯豊青皇女
特記
事項
履中天皇
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記録 編集

古事記』によると、葛城曾都比古の子の葦田宿禰の娘であり、市辺之忍歯王御馬王青海郎女(飯豊郎女)を産んだと記されている。

日本書紀』によると、仁徳天皇の崩御の債に、まだ即位していない皇太子であった去来穂別皇子(履中天皇)は、黒媛を妃にしようと思い立ち、婚約の儀式も整って、弟の住吉仲皇子を派遣し、結婚の吉日を告げた。ところが、住吉仲皇子は太子だと偽って黒媛と姦通した。その際に、仲皇子は手にしていた鈴を黒媛の家に置き忘れてしまった。翌日、太子が黒媛を訪ねた際に、黒媛の部屋の寝台にはいり、寝台の頭に鈴の音がするのを聞いて、「何の音だろう?」と質問した。黒媛は、「昨夜、太子が持ってこられた鈴ではないですか、どうして私に尋ねられるのでしょうか」と逆に聞き返した。このことにより、太子は、仲皇子が自分の名を詐称したことを知り、黒媛にはそれ以上何もきかずに、黙ってその場を立ち去った、という[3]。その後、住吉仲皇子の反乱を収め、即位した天皇は、黒媛を皇后にしている[2]

履中天皇5年9月、天皇が狩りをするために淡路島に行幸した際に、急使が到着し、黒媛の死を告げたという。天皇は大変驚いて行幸を中断し[1]、4日後には宮に戻ったという[4]。翌月には、黒媛を埋葬したが、神の祟りをおさめずに皇妃を亡くされたことを後悔し、その原因を探ったところ、「車持君が原因だろう」という意見があったので、詮議をされたという[5]

脚注 編集

  1. ^ a b 『日本書紀』履中天皇5年9月19日条
  2. ^ a b 『日本書紀』履中天皇7月4日条
  3. ^ a b 『日本書紀』履中天皇即位前紀
  4. ^ 『日本書紀』履中天皇5年9月22日条
  5. ^ 『日本書紀』履中天皇5年10月11日条

参考文献 編集

関連項目 編集