龍安寺
龍安寺(りょうあんじ)は、京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の境外塔頭寺院。妙心寺との関係は深い[1][2]。山号は大雲山と号し、石庭で知られる。本尊は釈迦如来、開基(創建者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
龍安寺 | |
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![]() 方丈庭園(石庭) | |
所在地 | 京都府京都市右京区龍安寺御陵下町13 |
位置 | 北緯35度2分4.18秒 東経135度43分5.71秒 / 北緯35.0344944度 東経135.7182528度座標: 北緯35度2分4.18秒 東経135度43分5.71秒 / 北緯35.0344944度 東経135.7182528度 |
山号 | 大雲山 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
寺格 | 境外塔頭 |
本尊 | 釈迦如来 |
創建年 | 宝徳2年(1450年) |
開山 | 義天玄承 |
開基 | 細川勝元 |
文化財 |
方丈、太平記12冊(重要文化財) 方丈庭園(史跡・特別名勝) 庭園(名勝) 世界遺産 |
法人番号 |
3130005001201 ![]() |
歴史編集
「石庭」として知られる枯山水の方丈庭園で有名な龍安寺は、室町幕府の管領、守護大名で、応仁の乱の東軍総大将でもあった細川勝元が宝徳2年(1450年)に創建した禅寺である。衣笠山山麓に位置する龍安寺一円は、永観元年(984年)に建立された円融天皇の御願寺である円融寺の境内地であった。円融寺は徐々に衰退し、平安時代末には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が同地に山荘と寺院・徳大寺を建立した。この山荘と徳大寺を細川勝元が譲り受けて禅寺とし、初代住職として妙心寺8世(5祖)住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。義天玄承は師の日峰宗舜を開山に勧請し、自らは創建開山となった。創建当初の寺地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路の辺りまでが境内であったという。
龍安寺は、細川勝元らと山名宗全らが争った応仁の乱の戦火を受け、応仁2年(1468年)に焼失し、寺基を洛中に移転した。しかし、間もなくして創建の地である現在地に戻った。
勝元の子・細川政元と4世住持・特芳禅傑によって、明応8年(1499年)に方丈が建立され、同時に石庭も築造されて当寺は再興された。寺では特芳を中興開山と称している。その後、織田信長、豊臣秀吉らから寺領を付与されている。
絵入りの名所案内書(現代の旅行ガイドブックに相当)である『都名所図会』(安永9年(1780年)刊行)を見ると、当時、龍安寺の鏡容池はオシドリの名所として知られており、今日有名な石庭よりも、池を中心とした池泉回遊式庭園の方が有名であった。
寛政9年(1797年)に京都町奉行へ提出された古地図には23か寺の塔頭があったが、同年に起こった火災で食堂、方丈、開山堂、仏殿など主要伽藍が焼失した。そのため、塔頭の西源院(現在は妙心寺の塔頭)の方丈を移築して龍安寺の方丈とし、現在に至っている。
1951年(昭和26年)7月11日、京都府一帯を襲った集中豪雨により裏山が崩壊。濁水が石庭に流れ込み赤土に覆われる被害が出た[3]。
1975年(昭和50年)、イギリスのエリザベス2世女王が日本を公式訪問した際、龍安寺の拝観を希望し、石庭を絶賛したことが海外のマスコミでも報道された。そのため、昨今では世界各地での日本のZEN(禅)ブームと相俟って、世界的にも知られるようになった。
方丈の真裏で、背後の朱山の麓に当たる地には後三条天皇圓宗寺陵、後冷泉天皇圓教寺陵と後朱雀天皇圓乘寺陵があり、その東方の石段を登り切った山上には一条天皇圓融寺北陵と堀河天皇後圓教寺陵がある。
境内編集
寺の南側には広大な鏡容池があり、周囲は池泉回遊式庭園になっており、年間を通じて四季それぞれの花を楽しめる。境内北側には庫裡、方丈、仏殿などが建ち、これらの西側には「西の庭」がある。有名な石庭は方丈南側にある。なお、寺の背後には第66代一条天皇を含め5人の天皇の陵墓がある。
- 仏殿 - 1981年(昭和56年)再建。寛政9年(1797年)に焼失後、約200年ぶりに再建された。入母屋造り、屋根は銅板葺きの禅宗建築で、建材は樹齢1000年から1200年の台湾桧が使用されている[4]。
- 昭堂(開山堂) - 1977年(昭和52年)建立。
- 鐘楼
- 方丈(重要文化財) - 元の方丈が寛政9年(1797年)の火災で失われた後、塔頭の西源院方丈を移築したもの。慶長11年(1606年)、織田信包による建立である。本来ここには狩野派の手による襖絵があったが、それらは明治初期の廃仏毀釈の影響により寺から出て散逸してしまった。現在の襖絵は、龍と北朝鮮の金剛山が題材で、1953年(昭和28年)から5年がかりで皐月鶴翁によって描かれたものである[4]。北側には「吾唯知足(われただたることをしる)」の蹲踞の複製が置かれている。
- 方丈庭園(国の史跡及び特別名勝) - 石庭として有名である。詳細は後述。
- 勅使門(重要文化財) - 寛政9年(1797年)に火災で焼失した後、西源院唐門を移築したもの。
- 庫裡 - 寛政9年(1797年)に火災で焼失し、その後再建される[4]。
- 茶室「蔵六庵」 - 江戸時代初期に建てられた後、明治時代中期と1996年(平成8年)に移築が行われた。徳川光圀が寄進した「吾唯知足」の蹲踞が置かれている。
- 細川勝元の墓
- 細川政元の墓
- 細川高国の墓
- 細川稙国の墓
- 細川氏綱の墓
- 西の庭 - 1982年(昭和57年)に室町時代風の庭園として復元された。
- 細川廟 - 明暦4年(1658年)、藤原種久作の細川勝元像と細川管領家歴代の位牌が祀られている。西の庭の中にある。
- パゴダ - ビルマ方面軍自動車廠戦没者の慰霊塔。1970年(昭和45年)8月建立。
- 涅槃堂(納骨堂)
- 桜苑
- 梅枝庵
- 玄々庵
- 西源院 - 妙心寺塔頭。湯豆腐と精進料理を提供している。
- 大珠院 - 妙心寺塔頭。
- 真田信繁の墓
- 霊光院 - 妙心寺塔頭。
- 鏡容池(国の名勝) - 一帯は鏡容池を中心とする庭園となっている。この池はこの地に徳大寺があった頃からのものである。
- 大弁財尊天
- 山門 - 江戸時代中期再建。宝暦5年(1755年)洪水により破損し再建[4]される。
石庭編集
方丈庭園(国の史跡及び特別名勝) - いわゆる「龍安寺の石庭」である。白砂の砂紋で波の重なりを表す枯山水庭園の特徴を有する[5]。
幅25メートル、奥行10メートルほどの空間に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置する。これらの石は3種類に大別できる。各所にある比較的大きな4石はチャートと呼ばれる龍安寺裏山から西山一帯に多い山石の地石。塀ぎわの細長い石他2石は京都府丹波あたりの山石。その他の9石は三波川変成帯で見られる緑色片岩である。
寺伝では、室町末期(1500年頃)特芳禅傑らの優れた禅僧によって作庭されたと伝えられるが、作庭者、作庭時期、意図ともに諸説あって定かではない。塀ぎわの細長い石には「小太郎・□二郎」と刻まれており、作庭に関わった人物と推測されるが、憶測の域をでるものではない[6]。
この庭は石の配置から「虎の子渡しの庭」や「七五三の庭」の別称がある。「虎の子渡し」とは、虎は、3匹の子供がいると、そのうち1匹は必ずどう猛で、子虎だけで放っておくと、そのどう猛な子虎が他の子虎を食ってしまうという。そこで、母虎が3匹の虎を連れて大河を渡る時は次のようにする。母虎はまず、どう猛な子虎を先に向こう岸に渡してから、いったん引き返す。次に、残った2匹のうち1匹を連れて向こう岸に行くと、今度は、どう猛な子虎だけを連れて、ふたたび元の岸に戻る。その次に、3匹目の子虎を連れて向こう岸へ渡る。この時点で元の岸にはどう猛な子虎1匹だけが残っているので、母虎は最後にこれを連れて向こう岸へ渡る、という中国の説話(虎、彪を引いて水を渡る)に基づくものである。
また、「七五三の庭」とは、東から5、2、3、2、3の5群で構成される石組を、5と2で七石、3と2で五石、そして3で三石と、七・五・三の3群とも見られることによる。古来より奇数は陽数、すなわちおめでたい数とされ、その真ん中の数字をとったものである。
この石庭は、どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないように配置されていることや、これらの石は全て戦国武将の織田信定が運んだことでも有名である[7]。どこから鑑賞しても庭石が1個までしか見えないようになっているのは、ある石に別の石が重なるよう設計されているためで、日本庭園における「重なり志向」を表したものともいわれている[5]。
文化財編集
重要文化財編集
- 方丈 附 勅使門 - 慶長11年(1606年)建立の旧西源院方丈。重要文化財指定名称は「龍安寺本堂 附 玄関」。
- 太平記12冊 - 『太平記』の古写本の代表的なもの。徳川光圀が本書を借用したことでも知られる。1929年(昭和4年)に火災に遭い、全13冊のうちの1冊を焼失。残りの12冊も焼損痕が残っている。
国の史跡及び特別名勝編集
- 龍安寺方丈庭園 - いわゆる「龍安寺の石庭」である。解説は既出。
国の名勝編集
- 龍安寺庭園 - 鏡容池を中心とする庭園。
京都府指定有形文化財編集
その他編集
襖絵の帰還編集
明治初期の廃仏毀釈の影響により、1895年(明治28年)に寺から出て以来、115年ぶりの2010年(平成22年)10月に龍安寺方丈襖絵のうち6面が帰還した。東本願寺に売却後、伊藤傳右衛門など個人の手に渡るなどして散逸したもので、その一部はアメリカ合衆国シアトル美術館などが所有している。2010年(平成22年)に戻った襖絵は、狩野派の作と言われる「群仙図」20面のうち4面と「琴棋書画図」20面のうち2面で、アメリカのオークションに出品されたものであるが、イギリス人の仲介により、龍安寺が落札した。この襖絵は2010年(平成22年)12月から2011年(平成23年)3月まで、帰還後初めて一般公開された
。また、2018年(平成30年)12月には123年ぶりに龍安寺が明治時代に手放したふすま絵「芭蕉図」9面を買い戻した
。戻ったのは、重要文化財の方丈にあった襖絵。狩野派か、桃山時代に活躍した海北派の作で、17世紀初頭に描かれたとみられる。廃仏毀釈による寺の衰退で、1895年(明治28)に他の寺院へ売却された。その後「筑豊の炭鉱王」と呼ばれた伊藤伝右衛門やイギリスの美術商を経て、静岡県在住の美術品コレクターが所有していたという。この襖絵は2019年(平成31年)1月10日から6月10日まで同寺で一般公開された。
他に所在の確認されているものは、アメリカメトロポリタン美術館所蔵の8面(襖4枚の表裏)、シアトル美術館所蔵の4面の計12面である[9]。
拝観編集
境内拝観には拝観券が必要。山門の前に拝観券売り場があり、そこで拝観券を買い求める。ただし、境内にある湯豆腐を頂ける西源院に行くだけなら、その旨を窓口に申し出て、境内に入ることができる。山門をくぐると左手に鏡容池が見えてくる。そのまま順路に沿って進むと、庫裡(拝観玄関)があり、そこで拝観券の半券を切ってもらいパンフレットを受け取る。
拝観者は駐車場を1時間まで無料で利用できる。なお、車椅子や歩行が困難な人は駐車場でその旨を申し出ると、庫裡近くの事務所前まで車で行くことが可能。
交通関連編集
脚注編集
- ^ 川上貢「妙心寺の寺域景観と建築」『妙心寺』(日本古寺美術全集24巻、集英社、1982)、p.98
- ^ 2009年に東京国立博物館等で開催された特別展「妙心寺」の図録には塔頭として48か院を挙げ、その中に龍安寺も含まれている。妙心寺の公式サイトにある「妙心寺山内図」には他の塔頭とともに龍安寺も掲載されている。(参照:[1])
- ^ 京都のお寺台なし『日本経済新聞』昭和26年7月18日3面
- ^ a b c d “境内のご案内”. 龍安寺. 2020年1月19日閲覧。
- ^ a b 石井隆之. “「重なり志向」の日本文化”. 言語文化学会. 2019年11月3日閲覧。
- ^ 刻印の謎(龍安寺公式ホームページ)
- ^ 織田信定
- ^ 京都府指定・登録等文化財(京都府教育庁指導部文化財保護課)。
- ^ 共同通信社(KYODONEWS)、2018年12月21日閲覧
関連項目編集
外部リンク編集
- 龍安寺 公式ホームページ (日本語)(英語)
- ウィキメディア・コモンズには、龍安寺に関するカテゴリがあります。