龍驤 (コルベット)

龍驤(りゅうじょう)は、日本海軍軍艦で木造鉄帯の装甲コルベット

龍驤
明治初期の撮影と推定される龍驤[1]
明治初期の撮影と推定される龍驤[1]
基本情報
建造所 アレクサンダー・ホール&カンパニー[2]
(英国・アバディーン[3])
艦種 コルベット[4]
建造費 購入費:270,000[5]
艦歴
進水 1869年3月27日[2]
または元治元年1月[6]
竣工 1869年8月11日[2]
または明治2年7月24日[7][8]
就役 明治3年(1870年)薩摩藩が購入[7]
除籍 1893年12月2日[7][8]
その後 砲術練習艦として使用[8]
1908年売却[9]
要目
トン数 2,530トン[10]
積高:992トン[11]
長さ 207 ft 7 in (63.27 m)[12]
または212[10](64.24m)
全長 207尺75[11](約63.00m)
38 ft 5 in (11.71 m)[12]
または41尺[10](12.42m)
甲板幅:38尺[11](11.52m)
吃水 前部:19尺(5.76m)、後部:20尺7(6.27m)[12]
または 前部:17尺(5.15m)、後部:18尺48(5.60m)[10]
明治5年時:15尺半[11](4.70m)
ボイラー 角缶 4基[13]
主機 横置直動2気筒レシプロ[14] 1基[13]
推進 1軸[4][14] x 56rpm[15]
2翼青銅製スクリュー[12]
直径:15 ft 8 in (4.78 m)[15]
出力 800馬力[14][16][4]
帆装 3シップリッグ[4]
速力 全速:6.5ノット、平均:5ノット[12]
最終時:8ノット[10][14]
燃料 炭団 600,000[12]
明治5年時:500,000斤[11]
航続距離 燃料消費:50,000斤/日[12]
明治5年時:80,000斤/日[11]
乗員 明治5年時:270人[11]
1873年10月定員:275名[17][18]
1874年8月総員:約305人[19]
兵装 明治5年時[11]
100ポンド・シャント砲 2門[12]
64ポンド・シャント砲 8門[12]
6ポンド・アームストロング砲 2門[12]
ボード砲 2門[12]
1874年時[19]
100ポンド・シャント砲 2門
64ポンド・アームストロング砲 8門
12cmホートホイッツ砲 2門
4ポンド砲 2門
最終時[10]
64ポンドクルップ砲 6門
7.5cmクルップ砲 2門
4ポンド山砲 2門
装甲 舷側中央:114mm[10]
100mm(装甲砲郭部)[要出典]
その他 船体:[4]
信号符字:GQBC[20]
テンプレートを表示
龍驤艦上の訓練生、1871年頃

は訓読みであがると読み、龍驤は「が天に昇る様子」、つまり「龍が天に昇るように勢いのある様子」を意味する[21]

概要編集

明治3年熊本藩から明治新政府に献上され、装甲艦扶桑の就役まで日本海軍の旗艦としての役割を果たし、明治5年(1872年)には明治天皇の座乗艦として西国巡幸に使われた。佐賀の乱台湾出兵西南戦争に従軍した。

艦型編集

汽帆併用の3檣シップ型コルベット[8]。 木造船体で舷側に114mmの装甲帯をもっていた[10]。 木造鉄帯ではあるが、当時の日本海軍唯一の錬鉄製の装甲艦である(甲鉄)は1,358トン、主力として使われた木造スループ日進は1,468トン、旧式艦ではあったが龍驤の次に大きい筑波でも1,947トン、それ以外の軍艦も1,000トン前後のものはわずか数隻に過ぎず、大半の軍艦や運輸船は100トンから500トン程度であったため、2,500トンを超える当時の日本海軍最大の艦[8]である龍驤が主力艦として実質的な旗艦の役割を務めることとなった。類別は東、筑波と同様の三等軍艦であった[6]。なお、一等軍艦および二等軍艦は海軍発足時には存在せず、日進は四等軍艦であった。

要目編集

右表の要目は、主に大正6年『公文備考』に収録の龍驤略歴と[10] 『帝国海軍機関史』による[22]。 その他の文献による要目(主に主要寸法と排水量)は以下の通り。

  • 『日本近世造船史 明治時代』(1911年):排水量2,530噸、長さ211 ft (64.31 m)、幅41 ft (12.50 m)[4]
  • 『日本軍艦史』(1995年):排水量2,571トン、長さ64.5m、幅12.5m、吃水6m[14]
  • 『日本海軍史』(1995年):排水量2,530、長さ65.9m、幅12.8m、吃水6m[16]

艦歴編集

建造編集

慶応元年(1865年)、熊本藩藩主の命によりイギリスアバディーンの造船所へ注文[8]元治元年1月(1864年2月頃)に進水[6]明治2年7月24日(1869年8月31日)[7][8] あるいは明治3年(1870年)に竣工した[14]。 一方、イギリス側の記録によると、トーマス・グラバーの発注によりアバディーンのアレクサンダー・ホール&カンパニー英語版にてJHO SHO MARU(じょうしょうまる、漢字表記は一説によると「常昭丸[23])の名で建造され、1869年3月27日(旧暦2月15日)に進水、8月11日(旧暦7月4日)に竣工した[2]

明治3年編集

艦は長崎に回航され[7]明治3年3月(1870年4月)イギリス人(長崎商人トーマスブレッキグロウヴァル[5])から熊本藩が購入[3]、 「龍驤(りょうしょう)」と命名、後に呼称は「りゅうじょう」と変化した[6][8]。 同3月に熊本藩から明治政府に献納の申し出が出され[24] 4月12日付(新暦5月12日)で太政官より受け取る旨の返答があった[25]。 5月8日(新暦6月6日)に品川沖で領収[7]、あるいは翌年の明治4年(1871年)5月に献上され[4]兵部省所管となった。

明治3年(1870年)には横浜港にてイギリス海軍の士官を招き、各艦から選抜された砲手の砲撃訓練を行った[8]

明治3年7月(1870年8月頃)に普仏戦争が勃発し、中立を守るために太政官は7月28日(新暦8月24日)に小艦隊3隊を編成、龍驤電流丸延年丸の3隻は中牟田武臣(龍驤乗艦)の指揮で長崎港に派遣された[26][27][28]。 翌明治4年3月7日(1871年4月26日)に警備は解かれた[29]

明治4年編集

明治4年(1871年)から翌年に明治天皇横須賀や品川沖などで海軍天覧した際に御召艦になった[1]

明治4年3月(1871年4月頃)に暴風に遭い機関が故障、12日(新暦5月1日)に帆走で品海に到着した[30]。 4月に海軍所湾内に引き入れて大砲、バラスト、石炭などを揚陸した[31]

5月(新暦6月から7月)に小艦隊が編成され、龍驤も編入された[32]。 龍驤、富士山第一丁卯の3隻は伊東祐麿中佐が指揮することになった[33]

同年7月9日(新暦8月24日)に東京近辺を暴風が襲い艦船や兵部省の陸上施設などに被害が出た[34]龍驤は停泊中で船体が損傷、小蒸気船とバージ、箱船の3隻が沈没するなどの被害があった[35]龍驤は9月3日(新暦10月16日)に修理のため横須賀に入港、同日から約10日間入渠して修理を行った[36]。 10月8日(新暦11月20日)、龍驤、日進の2隻に海外派遣の命令が出たが、行われなかった[37] 11月15日(新暦12月26日)に龍驤は三等艦と定められた[38][3]

明治5年編集

明治5年海軍省発足によりそのまま日本海軍の軍艦に移行した。 5月18日(1872年6月23日)時点で中艦隊日進孟春龍驤第一丁卯第二丁卯雲揚春日筑波鳳翔の9隻で編制していた[39]

明治5年(1872年)の瀬戸内海行幸で御召艦となった[8]。 5月23日(新暦6月28日)に品海を出港し、鳥羽、大島、多度津姫路下関呼子長崎熊本鹿児島などを巡幸し、7月16日(新暦8月19日)帰港した[3]

9月22日(新暦10月24日)午後4時45分、龍驤鳳翔雲揚の艦隊は品海に帰港した[40]。 10月9日(新暦11月9日)、ロシア皇子が来航することになり、龍驤鳳翔が品海から横浜港に回航した[41]。 ロシア艦隊停泊中は、横浜停泊の各艦がホスト役となった[42]。 10月29日(新暦11月29日)、艦長から水平線鉛板の打ち直しが必要、との申し出があり[43]、 11月2日(新暦12月2日)、横浜から横須賀に回航された[44]

1873年編集

1873年(明治6年)2月28日、副島種臣特命全権大使派遣の為に龍驤筑波まで回航するよう訓令が出された[45]。 3月12日、品海を出港しに向かい[46]、 19日から21日まで鹿児島に寄港し、22日長崎に到着した[47]。 3月28日長崎を出港、31日上海に到着し、4月1日全権大使は上陸した[48]。 4月8日全権大使は筑波に乗艦、龍驤は吃水の関係で12日出港し天津に回航した[49]。 帰国は7月10日芝罘を出港し[50]、 7月15日長崎港に帰着した[46]。 21日から23日に兵庫に寄港し、25日横浜に到着した[50]。 全権大使は26日筑波から退艦、同日夜に[51] 品海へ回航した[52]

イタリア国王が横浜に近く来日するため、8月22日に龍驤日進に横浜回航が命令された[53]。 9月15日に横浜を出港し横須賀に回航、[54]、 9月18日から入渠して修理を行った[55]

1874年編集

1874年(明治7年)に佐賀の乱に参加[6]、 3月1日品海を出港[46]、 4月24日横浜港に帰港した[46]

6月24日、横須賀での修理が完成し品海に回航した[56]

また台湾出兵に参加[6]、 清国との交渉に派遣された大久保利通参議の乗艦となった[8]。 8月4日品海を出港し[46]、 7日から8日に兵庫で石炭と水を搭載した[57]。 10月28日に東部指揮官に隷属となり[3]、 11月8日時点で芝罘に停泊していた[58]。 11月10日長崎に帰港[46]、 11月17日龍驤雲揚孟春の4隻は長崎を出港し、途中で射撃試験を実行、兵庫、大島に寄港し28日金田湾に入港、29日品海に帰港した[59]

1875年編集

1875年(明治8年)6月30日時点で中艦隊は雲揚日進春日龍驤鳳翔第一丁卯で編制されていた[60]。 10月28日、龍驤は艦隊を外れた[60] 同日艦隊は編制を解かれ、各艦船は東西両部指揮官に属することになった[60]

1876年編集

1876年(明治9年)にウラジオストクや朝鮮への航海のため4月13日横浜を出港[46]、 7月27日、横浜に帰港した[46]

1877年-1879年編集

1877年(明治10年)に行われた明治天皇の京都大和行幸では先導供奉艦を務めた[8]。 その際に西南戦争が起こったために2月9日神戸を出港[46]清輝などと共に700名の巡査隊を鹿児島へ派遣[8]、攻略に参加した。 同年10月26日には暴風のため鹿児島祇園洲で坐洲した[6]。 10月28日中艦隊から除かれた[61]

1878年(明治11年)5月15日に離洲し[6]、 7月29日横須賀に到着[46]、 以降横須賀造船所で修理を行った[6]

1878年(明治11年)10月28日、鎮守府所管の龍驤は修復艦に指定された[3][62]

1879年(明治12年)に修理は完成した[6]

1880年編集

1880年(明治13年)9月15日、遠洋航海中は兵学校に属し、航海練習艦に定められた[3]

遠洋航海(1回目)編集

少尉候補生を乗せた遠洋練習航海には3回従事した[6]1881年(明治14年)度では海軍兵学校8期35名を乗せて2月2日に品川を出航、シドニーメルボルンタスマニアを経て7月28日横浜に帰着した。カロリン諸島クサイ島に寄港した際、酋長は「我らは日本人の子孫である」として歓迎したという[63]

1882年-1883年編集

1882年(明治15年)4月7日、兵学校所轄の龍驤は、東海鎮守府の常備艦に指定された[64][3]

10月12日に中艦隊が再編成され[65]。、 龍驤も編入された[66][3]

12月1日南アメリカ西海岸方面への遠洋航海が令達された[67](龍驤2回目の遠洋航海の令達)。

遠洋航海(2回目)編集

1883年(明治16年)度では10期27名を乗せて前年の12月27日に品川を出航、ウェリントンバルパライソカヤオホノルルを経て9月15日品川に帰着した[6]。 このときは初めての南米への遠洋航海であったが、乗員の多くが脚気となり、その後の糧食改善のきっかけとなった[6][68]

1883年(明治16年)9月22日、中艦隊から除かれ[69]、 東海鎮守府所属の航海練習艦に指定された[3]

1884年(明治17年)12月17日、常備艦に指定[3]、 中艦隊に編入された[70]

1885年編集

1885年(明治18年)、甲申政変にて朝鮮水域警備に従事する[6]。 3月19日、朝鮮へ向け出港[3]、 8月11日から9月11日は対馬警備艦となった[3]

同年11月3日中艦隊から除かれた[71]。 以降龍驤の艦隊編入は無い[72]。 11月21日に横須賀鎮守府の航海練習艦となった[3]

遠洋航海(3回目)編集

3回目は1887年(明治20年)度で13期37名を乗せて2月1日に品川を出航、シンガポールバタビアアデレード、メルボルン、シドニー、オークランドを経て9月11日品川に帰着した[6]

1888年編集

1888年(明治21年)1月28日から6月21日は第3予備艦とされた[3]

砲術練習艦編集

1888年(明治21年)9月18日に機関が撤去され[6]、 係留されたまま砲術練習艦として使用された。

1889年(明治22年)5月28日、砲術練習艦附属とされ[3]1890年(明治23年)5月13日に砲術練習艦に指定された[3]。 同年8月23日、第三種に編入された[3][6]

除籍編集

1893年(明治26年)12月2日、龍驤は第五種(倉庫船、荷船、雑船[73])に編入[74][3][6]、 除籍された[21][8]。 龍驤は引き続き横須賀の海軍砲術練習所(海軍砲術学校の前身)で使用された[75]1894年(明治27年)3月13日、龍驤は海軍砲術練習所附属とされた[3][76][3]1896年(明治29年)4月1日艦船の分類が変更になり[77]、 龍驤は雑役船舟に編入された[6]1908年(明治41年)4月24日売却訓令、艦首の飾り板と艦尾の文字板は取り外して保管[78]、 メインマストは海軍砲術学校で教育材料として陸上に設置された[79]。 10月27日売却済みの報告がされた[9]

艦長編集

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

脚注編集

  1. ^ a b 写真日本海軍全艦艇史 1994, p. 1244.
  2. ^ a b c d Aberdeen Built Ships.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u #T6公文備考50/雑款(1)画像12-14、略歴
  4. ^ a b c d e f g 日本近世造船史 1911, p. 188.
  5. ^ a b #機関史(1975)上巻p.458-459、経歴
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 日本海軍史 1995, pp. 464-465(第7巻).
  7. ^ a b c d e f 日本海軍史 1995, pp. 224-225, 464-465(第7巻).
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n 聯合艦隊軍艦銘銘伝 1993, p. 188.
  9. ^ a b #M41公文備考15/売却其他諸処分(4)画像8、明治41年10月27日横鎮第127号の73。
  10. ^ a b c d e f g h i #T6公文備考50/雑款(1)画像12、要目
  11. ^ a b c d e f g h #M5公文類纂24/管轄艦船等の数並乗組人員共取調方他3件画像7、龍驤
  12. ^ a b c d e f g h i j k #機関史(1975)上巻p.457
  13. ^ a b #機関史(1975)別冊表1
  14. ^ a b c d e f 日本軍艦史 1995.
  15. ^ a b #機関史(1975)上巻p.459-460
  16. ^ a b 日本海軍史 1995, pp. 224-225(第7巻).
  17. ^ 海軍制度沿革10-1 1972, pp. 153-155「艦船乘組定員 明治六年十月闕日(軍務局)」表中の龍譲の合計欄
  18. ^ #機関史(1975)上巻p.457、「乗組員 准士官以上二十四名、下士五十六名、水火夫百九十五名」
  19. ^ a b #M7公文類纂13/管轄(1)画像43-44、明治7年事套3第301号、艦船の部
  20. ^ #公文類聚10編33巻 画像1『二月十八日 逓信省海軍艦船及西洋形商船ニ信号符字ヲ點付ス 逓信省達 第八号本年一月中海軍艦船及ヒ西洋形商船左ノ通信号符字ヲ點付ス十九年二月十八日 海軍艦船ノ部 信号符字 艦名 砲數 GQBC 龍驤Ru-jo 六 …(略)…』
  21. ^ a b 浅井 1928, pp. 22-23「龍驤 りゆうじやう Ryûzjô.」
  22. ^ #機関史(1975)上巻p.457,459、同別冊表1。
  23. ^ EXPO大使館 2012.
  24. ^ #M3公文類纂10/細川藩より甲鉄艦献納の表画像1-2
  25. ^ #M3公文類纂10/右被聞届旨細川藩へ御達画像1
  26. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治3年7月28日(太政官)。
  27. ^ #機関史(1975)上巻p.290
  28. ^ #M1-M9海軍省報告書画像13、明治3年7月。
  29. ^ 海軍制度沿革8 1971, p. 33、明治4年3月7日(御沙汰)諸港守備ノ軍艦ヲ解クノ件「兵部省 諸港守衛トシテ出張之軍艦解備被仰付候間帰艦之儀其省ヨリ可相達候事」
  30. ^ #M4公文類纂24/摂津艦品海着の件同船届画像1
  31. ^ #M4公文類纂24/摂津艦海軍所湾中へ引入の件画像7
  32. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治4年5月。
  33. ^ #M4公文類纂5/伊東中佐任叙等の件画像2
  34. ^ #M4公文類纂48/7月9日烈風雨軍艦其他傷損調方画像1。
  35. ^ #M4公文類纂48/7月9日烈風雨軍艦其他傷損調方画像73-75。
  36. ^ #M4公文類纂25/龍驤艦修復の件工部省へ掛合画像5
  37. ^ #M1-M9海軍省報告書画像20-21、明治4年10月。
  38. ^ #海軍制度沿革8(1971)p.58、明治4年11月15日(兵部省146)
  39. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治5年
  40. ^ #M5公文類纂24/龍驤艦2艦品海着艦の件画像1
  41. ^ #M5公文類纂24/龍驤鳳翔の両国魯国皇子渡来に付横浜へ回艦の件他2件画像1
  42. ^ #M5公文類纂24/龍驤鳳翔の両国魯国皇子渡来に付横浜へ回艦の件他2件画像5
  43. ^ #M5公文類纂25/当艦水平線銘打替方の件画像1
  44. ^ #M5公文類纂24/龍驤艦横浜抜錨横須賀入港の件画像1
  45. ^ #M6公文類纂15/竜驤筑波両艦清国廻航申付画像1
  46. ^ a b c d e f g h i j #S9.12.31恩給叙勲年加算調査(下)/軍艦(3)画像47-18、旧龍驤。
  47. ^ #M6公文類纂15/諸届留 艦隊指揮届 副島種臣清国差遣に付軍艦2艘清国回艦御達の件画像2-4
  48. ^ #M6公文類纂15/甲8套大日記 艦隊指揮届 副島種臣清国差遣に付軍艦2艘清国回艦御達の件画像1
  49. ^ #M6公文類纂15/甲3套6番送達大日記 太政官え届 副島種臣清国差遣に付軍艦2艘清国回艦御達の件画像1-2
  50. ^ a b #M6公文類纂15/甲8套1番大日記 副島種臣清国差遣に付軍艦2艘清国回艦御達の件画像1-2
  51. ^ #M6公文類纂15/諸届留 兵学寮届 副島種臣清国差遣に付軍艦2艘清国回艦御達の件画像2
  52. ^ #M6公文類纂15/甲3套送達大日記 太政官え届 副島種臣清国差遣に付軍艦2艘清国回艦御達の件画像2
  53. ^ #M6公文類纂15/癸3套秘事大日記 竜驤艦日進両艦横浜廻艦2画像1
  54. ^ #M6公文類纂15/竜驤艦トック入の儀に付横須賀廻艦画像1
  55. ^ #M6公文類纂16/諸届留 艦隊指揮届 伊太里国軍艦修理方及横須賀回艦画像1
  56. ^ #M7公文類纂15/航泊出入(3)画像29
  57. ^ #M7公文類纂15/航泊出入(4)画像27
  58. ^ #M7公文類纂15/航泊出入(6)画像39
  59. ^ #M7公文類纂15/航泊出入(7)画像15
  60. ^ a b c #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治8年
  61. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治8年10月28日。
  62. ^ #M11布達/10月画像7-8、明治11年10月28日丙第123号。「鎮守府所轄龍驤艦之義自今修復艦ト被相定候條此旨相達候事」
  63. ^ 防衛庁防衛研修所 戦史室『戦史叢書第038巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで』朝雲新聞社、11ページ
  64. ^ #M15達/丙第25号画像1、「兵学校所轄龍驤艦自今東海鎮守府所轄常備艦ト相定候條為心得此旨相達候事」
  65. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.8、明治15年10月12日(丙84)。
  66. ^ #M15達/丙第84号画像1-2、「左ノ艦々今般中艦隊司令官ノ麾下ニ属シ候條為心得相達候事」
  67. ^ #M15達/丙第104号画像1、「中艦隊司令官所轄龍驤艦今般生徒実地演習トシテ南亜米利加西海岸地方ヘ航行セシメ候條為心得此旨相達候事」
  68. ^ 竜驤艦脚気病調査書海軍省1885年2月。
  69. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.8、明治16年9月22日(丙83)。
  70. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.8、明治17年12月17日(丙180)。
  71. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.8、明治18年11月3日(丙63)。
  72. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)pp.8-9。
  73. ^ 海軍制度沿革8 1971, pp. 52-53、明治23年達第291号
  74. ^ #M26達(下)/12月(1)画像1、明治26年12月2日達第106号
  75. ^ #M26達(下)/12月(1)画像1、明治26年12月2日達第107号
  76. ^ #M27達(上)/3月画像14、明治27年3月13日達第26号「第五種船龍驤ヲ海軍砲術練習所附属ト定メ迅鯨ヲ海軍水雷術練習所附属ト定ム」
  77. ^ 海軍制度沿革8 1971, p. 53、明治29年勅令71.
  78. ^ #M41公文備考15/売却其他諸処分(2)画像12-13、明治41年4月24日官房第1701号。
  79. ^ #M41公文備考15/売却其他諸処分(2)画像15-17、明治41年7月23日横廠第144号の7、明治41年2月24日砲校第23号。
  80. ^ #M3公文類纂4/牛島五一郎艦長被免并勤仕中勉励に付賞輿画像1
  81. ^ #M1-M9海軍省報告書画像14-15、明治3年12月。
  82. ^ #M3公文類纂3/中島四郎外3名任官等達画像1-3
  83. ^ 『官報』第709号、明治18年11月10日。
  84. ^ 『官報』第1301号、明治20年10月28日。

参考文献編集

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『記録材料・海軍省報告書第一』。Ref.A07062089000。(国立公文書館)
    • 『公文類聚・第十編・明治十九年・第三十三巻・運輸三・船舶車輌・津港・河渠・橋道』。Ref.A15111235500。(国立公文書館)
    • 『公文類纂 明治3年 巻3 本省公文 黜陟部/御沙汰書 11月 中島四郎外3名任官等達』。Ref.C09090043800。
    • 『公文類纂 明治3年 巻4 本省公文 黜陟部/諸達並雑記 12月 牛島五一郎艦長被免并勤仕中勉励に付賞輿』。Ref.C09090062900。
    • 『公文類纂 明治3年 巻10 本省公文 艦船部/諸事件留 3月 細川藩より甲鉄艦献納の表』。Ref.C09090135000。
    • 『公文類纂 明治3年 巻10 本省公文 艦船部/諸事件留 4月 右被聞届旨細川藩へ御達』。Ref.C09090135100。
    • 『公文類纂 明治4年 巻5 本省公文 黜陟部2/御沙汰書 伊東中佐任叙等の件太政官御達』。Ref.C09090217700。
    • 『公文類纂 明治4年 巻24 本省公文 艦船部/海軍諸届 摂津艦品海着の件同船届』。Ref.C09090386200。
    • 『公文類纂 明治4年 巻24 本省公文 艦船部/海軍諸達 摂津艦海軍所湾中へ引入の件云々同艦達』。Ref.C09090386600。
    • 『公文類纂 明治4年 巻25 本省公文 艦船部/民部工部大蔵省往復 龍驤艦修復の件工部省へ掛合』。Ref.C09090397300。
    • 『公文類纂 明治4年 巻48 本省公文 法律2止征討 変災部附録/弁官往復 7月9日烈風雨軍艦其他傷損調方弁官通牒』。Ref.C09090688700。
    • 『公文類纂 明治6年 巻15 本省公文 艦船部1/省中布告原因 海軍省達 竜驤筑波両艦清国廻航申付』。Ref.C09111575800。
    • 『公文類纂 明治5年 巻24 本省公文 艦船部1/乙3号大日記 外務省より掛合 管轄艦船等の数並乗組人員共取調方の件他3件』。Ref.C09110628400。
    • 『公文類纂 明治5年 巻24 本省公文 艦船部1/届之部 艦隊指揮届 龍驤艦2艦品海着艦の件』。Ref.C09110638000。
    • 『公文類纂 明治5年 巻24 本省公文 艦船部1/届之部 軍務局届 龍驤艦横浜抜錨横須賀入港の件』。Ref.C09110638900。
    • 『公文類纂 明治5年 巻24 本省公文 艦船部1/届之部 艦隊指揮届 龍驤鳳翔の両国魯国皇子渡来に付横浜へ回艦の件他2件』。Ref.C09110638400。
    • 『公文類纂 明治5年 巻25 本省公文 艦船部2止/癸4号大日記 竜驤艦申出 当艦水平線銘打替方の件』。Ref.C09110650400。
    • 『公文類纂 明治6年 巻15 本省公文 艦船部1/諸届留 艦隊指揮届 竜驤艦トック入の儀に付横須賀廻艦』。Ref.C09111585300。
    • 『公文類纂 明治6年 巻15 本省公文 艦船部1/諸届留 艦隊指揮届 副島種臣清国差遣に付軍艦2艘清国回艦御達の件』。Ref.C09111578300。
    • 『公文類纂 明治6年 巻15 本省公文 艦船部1/甲8套大日記 艦隊指揮届 副島種臣清国差遣に付軍艦2艘清国回艦御達の件』。Ref.C09111578500。
    • 『公文類纂 明治6年 巻15 本省公文 艦船部1/甲3套6番送達大日記 太政官え届 副島種臣清国差遣に付軍艦2艘清国回艦御達の件』。Ref.C09111578900。
    • 『公文類纂 明治6年 巻15 本省公文 艦船部1/甲3套送達大日記 太政官え届 副島種臣清国差遣に付軍艦2艘清国回艦御達の件』。Ref.C09111579700。
    • 『公文類纂 明治6年 巻15 本省公文 艦船部1/甲8套1番大日記 副島種臣清国差遣に付軍艦2艘清国回艦御達の件』。Ref.C09111579800。
    • 『公文類纂 明治6年 巻15 本省公文 艦船部1/諸届留 兵学寮届 副島種臣清国差遣に付軍艦2艘清国回艦御達の件』。Ref.C09111579900。
    • 『公文類纂 明治6年 巻15 本省公文 艦船部1/癸3套秘事大日記 竜驤艦日進両艦横浜廻艦』。Ref.C09111584200。
    • 『公文類纂 明治6年 巻16 本省公文 艦船部2止/諸届留 艦隊指揮届 伊太里国軍艦修理方及横須賀回艦』。Ref.C09111605000。
    • 『公文類纂 明治7年 巻13 本省公文 艦船部1/管轄(1)』。Ref.C09112101900。
    • 『公文類纂 明治7年 巻15 本省公文 艦船部3/航泊出入(3)』。Ref.C09112104500。
    • 『公文類纂 明治7年 巻15 本省公文 艦船部3/航泊出入(4)』。Ref.C09112104600。
    • 『公文類纂 明治7年 巻15 本省公文 艦船部3/航泊出入(6)』。Ref.C09112104800。
    • 『公文類纂 明治7年 巻15 本省公文 艦船部3/航泊出入(7)』。Ref.C09112104900。
    • 『明治41年 公文備考 艦船8 巻15/売却其他諸処分(2)』。Ref.C06092003500。
    • 『明治41年 公文備考 艦船8 巻15/売却其他諸処分(4)』。Ref.C06092003700。
    • 『大正6年 公文備考 艦船31止 巻50/雑款(1)』。Ref.C08021153800。
    • 『明治11年 海軍省布達全書/10月』。Ref.C12070004600。
    • 『明治15年 海軍省達 全/丙第25号』。Ref.C12070011100。
    • 『明治15年 海軍省達 全/丙第84号』。Ref.C12070017000。
    • 『明治15年 海軍省達 全/丙第104号』。Ref.C12070019000。
    • 『明治26年 達 下巻/12月(1)』。Ref.C12070032000。
    • 『明治27年 達 上巻/3月』。Ref.C12070033100。
    • 『恩給叙勲年加算調査 下巻 除籍艦艇 船舶及特務艇 昭和9年12月31日/除籍艦艇/軍艦(3)』。Ref.C14010005700。
  • JHO SHO MARU” (英語). Aberdeen Built Ships Project. 2015年6月12日閲覧。
  • EXPO大使館 2012/09/13 Thu 今夜はスコットランドから!”. FM802 (2012年9月13日). 2015年6月12日閲覧。
  • 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻四の1』明治百年史叢書 第175巻、原書房、1971年11月(原著1939年)。
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第11巻、第一法規出版、1995年。ISBN 4-474-10058-1
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』潮書房光人社、2014年4月8日(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5
  • 造船協会/編『日本近世造船史』弘道館、1911年1月5日。ASIN B0092M9CWO
  • 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
  • 福井静夫『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1
  • 『日本軍艦史』世界の艦船 No. 500 増刊第44集、海人社、1995年。ISBN 4-905551-53-6
  • 官報

関連項目編集