前年11月に第一次世界大戦が終わって戦地に赴いた選手たちも戻ったが、例年の154試合ではなく140試合制として開幕した[1]。
アメリカン・リーグは、シカゴ・ホワイトソックスが6位に終わった前年から復活し、エディ・シーコット が29勝、レフティ・ウィリアムズが23勝を上げ、シューレス・ジョー・ジャクソンが打率.351で、エディ・コリンズ が.319で盗塁33で盗塁王となり、2年ぶりのリーグ優勝となった。
一方ナショナル・リーグは前年優勝のシカゴ・カブスがピート・アレクサンダー投手が16勝止まりで3位に落ち、ニューヨーク・ジャイアンツが2位で、シンシナティ・レッズはエド・ローシュ外野手が.321で2度目の首位打者を獲得し、初めてのリーグ優勝となった。
- アメリカン・リーグの首位打者はタイ・カッブが.384で12度目の首位打者となった。そしてこれが最後の首位打者獲得となった。1922年に.401を打ったがジョージ・シスラーの.420に届かず4割を打ちながら首位打者になれなかった。
- 同じアメリカンリーグの最多本塁打と最多打点はレッドソックスのベーブ・ルースで前年の11本に続き、この年はさらに29本に伸ばした。投手から外野手に転向していきなりホームラン記録を更新した彼の人気は沸騰した。しかしシーズン終了後にルースはレッドソックスのオーナーハリー・フレイジーに前年の給料の2倍である2万ドルを要求し、これを拒否し我慢がならなくなったオーナーは、ルースをニューヨーク・ヤンキースへ12万5000ドルのトレードマネーと30万ドルの負債の肩代わりする金銭トレードで放出する。
- ナショナルリーグの最多本塁打はフィラデルフィア・フィリーズのギャビー・クラバスで12本であった。1912年にフィリーズに移り、当時のフィリーズの本拠地だったベーカー・ボウルが極端に右翼が狭く本塁打を量産した。1913年には最多本塁打19本と最多安打179本及び最多打点118で最優秀選手の選考で2位となった。1915年には本塁打24本、打点115、得点89でリーグトップの成績を収めた。その後1916年を除いて、38歳になる1919年までリーグ本塁打王を6回獲得し、通算本塁打119本はこの時期の通算本塁打数のMLB記録(20世紀以降)であった。
ワールドシリーズの疑惑編集
ホワイトソックス対レッズとなったこの年のワールドシリーズの下馬評は圧倒的にホワイトソックスの優勢が伝えられていた。ところがすでにシリーズ前から八百長の噂が盛んに飛び交い、賭け率が初めは3対1でホワイトソックス有利であったのだが、直前には8対5でレッズに傾き、ホワイトソックスは負けるという噂が広まっていった。そして結果はレッズの5勝3敗でホワイトソックスは敗れた。第1戦と第2戦を落とした後にホワイトソックスのグリーソン監督はオーナーのコミスキーに報告し、その後アメリカン・リーグ会長のバン・ジョンソンに報告したが、ジョンソン会長は「ばかばかしい」と八百長疑惑を一蹴した。監督は第5戦で敗れた後に「優勝したチームと同じとは、とても思えない」と語っている。そして第8戦が終わってシリーズが終了した後にも監督は「シリーズでうちの選手は試合を投げていた」と語っている。
この年はこれで終わった。しばらくすると、次第に人々の記憶からも薄れ、忘れられたように日常に戻っていった。しかし翌年9月に八百長への関与が明らかになり法廷に持ち込まれたが、その1年後の1921年8月に無罪判決となった。しかし直後にランディス・コミッショナーの永久追放処分が発表されてこの事件は終幕となった。