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1946年王政廃止に関するイタリアの国民投票

1946年王政廃止に関するイタリアの国民投票(1946ねんおうせいはいしにかんするイタリアのこくみんとうひょう、イタリア語: il referendum istituzionale del 2 giugno 1946)は、王制の廃止を問うイタリア国民投票である。1946年6月2日に施行された。

1946年王政廃止に関するイタリアの国民投票
il referendum istituzionale del 1946
君主制廃止の是非
開催地 イタリアの旗 イタリア
開催日 1946年6月2日 (1946-06-02)
結果
投票数 %
賛成(共和制) 12,718,641 54.27%
反対(君主制) 10,718,502 45.73%
有効投票数 23,437,143 93.95%
無効または空白投票数 1,509,735 6.05%
投票総数 24,946,878 100.00%
登録有権者/投票率 28,005,449 89.08%
州別の結果
Italian referendum 1946 support for republic.svg
  賛成(共和制)     反対(君主制)

目次

概要編集

ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト政権が連合軍に降伏し、臨時政府・国民解放委員会(CLN)が発足した。CLNに参加したキリスト教民主主義(DC)、イタリア社会党(PSI)、イタリア共産党(PCI)、自由党(LP)、労働民主党(LDP)、行動党(AP)はファシスト政権の清算に取り組んだ。

PSIやPCIを中心とする左派勢力はサヴォイア家がファシストへ協力したと批判し、王制廃止を主張した。

王制廃止論は、反ファシストの世論の流れを受けてCLN内でも議論され、王制の是非を問う国民投票を実施することを決定した。

DCを中心とする右派グループも党執行部は王制廃止で固まったものの、一般のDC支持者には王制存続を支持する者も多く、党方針をどちらに決定した場合でも党の支持基盤が崩れる可能性があった。そのため、DCは明確な立場を示さなかった。

この国民投票により、1861年3月17日リソルジメントによって成立したイタリア王国は崩壊し、民主共和制国家のイタリア共和国が成立した。

降伏とイタリアの分裂編集

1943年7月24日のファシスト党内のクーデターによりムッソリーニ政権は崩壊した。しかし国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は依然として戦争継続を訴え、後任の首相に就いたアディスアベバ公ピエトロ・バドリオも、水面下では連合国との講和交渉を進めてはいたものの、公には戦争継続を表明していた。しかし秘密裏に休戦協定が成立して5日後の1943年9月8日、連合軍はイタリア側の了承なしにイタリアの無条件降伏を発表。これを受け、かねてからバドリオを警戒していたドイツは、ブレンナー峠に集結させていた軍をイタリア領に侵攻させた。結果、王室と内閣は南部ブリンディジに逃れ、ローマを含めた北中部にドイツの後押しを受けたイタリア社会共和国(RSI)が成立。軍の大半がRSIに流れ、イタリアは分裂した。

CLNの誕生とサレルノ転回編集

投票前の動き編集

投票に先立ち、既に実権を摂政ウンベルト王子に譲っていた国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世1946年5月9日付で退位しムハンマド・アリー朝エジプトに亡命した。ウンベルトは直ちにウンベルト2世として即位すると共に、政体の選択については国民の自由な意志に従うと表明した。

投票結果編集

投票内容 得票数 得票率
  共和制 12,718,641 54.3
  王制 10,718,502 45.7
無効票 1,509,735 -
有効投票計 23,437,143 100.0
投票総計 24,946,878 -

地域別投票結果編集

 
国民投票の州別結果。青に近いほど共和制支持、赤に近いほど王制支持

選挙の結果、共和制支持が多数派を占めた。しかし地域別で見た場合、北部では共和制支持が、首都ローマがあるラツィオ州より南部では王政支持が多数派を占める結果となった。

ユーゴスラビアとの間で帰属を争っていたザーラトリエステドイツ語話者が多くオーストリアへの帰属を求めていた南ティロルでは、投票は実施されなかった。

投票後の動き編集

投票結果を受けて、ウンベルト2世はザーラ、トリエステ、南ティロルの住民や国外で捕虜として抑留されている者が投票に参加出来なかったこと、また法務大臣パルミーロ・トリアッティ選挙干渉を行ったことなどを理由に、破棄院(最高裁判所)に異議申立てを行ったが、破棄院は6月18日これを棄却する判決を下した。6月11日にはナポリで、投票結果をめぐって王党派と共産党員の武力衝突が起き、9人の死者が出た(メディナ通りの虐殺イタリア語版)。

6月12日、臨時政府は破棄院の判決を待たずに王政を廃止して共和制に移行することを決定。ウンベルト2世は廃位され、サヴォイア家ともども国外追放処分となった。翌13日、ウンベルト2世は「癒しがたい痛みを伴うものであるが、予はその義務を果たすべく、この地を去るものである」との声明を残してポルトガルへ亡命した。国王廃位とともにあらたな国家元首を決めなければならなくなったため、当座は首相のアルチーデ・デ・ガスペリが暫定国家元首を代行するかたちで事務を引き継ぎ、28日に招集された制憲議会においてエンリコ・デ・ニコラが暫定国家元首に選出された。デ・ニコラはその去就に三日三晩逡巡するが、7月1日になってついに就任を受諾した。この両者のリーダーシップのもとで制憲議会はイタリア共和国憲法を制定、翌1947年12月27日に公布された。そして年明けの1948年1月1日の施行をもってイタリア共和国が成立、ここにデ・ニコラは正式に共和国大統領として宣誓就任式を行った。

イタリア共和国憲法は、その第139条に「共和政体は憲法改正の対象とはならない」ことが明記されており、これで王政復古の動きは完全に封じ込められることになった。またそれまでイタリア王国の国旗や国章の意匠として使用されていたサヴォイア家の「盾十字」の紋章も除かれ、共和国旗は簡明な緑白赤の縦割三色旗となり、共和国章の方は一般公募で新たに五芒星と歯車にオリーブナラの枝を組み合わせた斬新なデザインが採用され制定された。

関連項目編集

外部リンク編集