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1968年の中日ドラゴンズのユニフォーム

1968年の中日ドラゴンズのユニフォーム1968年5月16日から同年のシーズン終了までファンサービスの一環として採用した日本プロ野球史上初となるノースリーブユニフォームの事である。着用した途端にチームは低迷、シーズン途中で監督が休養、挙句の果てに最下位と、「縁起の悪いユニフォーム」としてシーズン終了と同時に封印された。

デザイン編集

帽子は濃紺でツバが赤。マークは1965年以降ユニフォームの左袖につけられていたドラゴンワッペンと同じもの。アンダーシャツ・ストッキングは赤。スパイクシューズは黒のラインなし。ユニフォームの上着はノースリーブ。ホーム用は白。首周り・パンツサイドのラインが赤。上着左胸レター文字のDと胸・背番号が赤で青縁。胸番号は右。ビジター用はライトグレー。ロゴが筆記体のChunichiで胸番号の位置が左である以外はホーム用と共通であった。

概要編集

1968年の中日は、前年のシーズン中から持病の胃痛に悩まされていた西沢道夫監督がキャンプイン直前に体調を悪化させ辞任。急遽、監督経験者である中日OBの杉下茂を再び監督に就任させた。開幕してからの中日は4月こそ上位争いに顔をだすものの、その後は板東英二中利夫ら主力選手の相次ぐ故障欠場により低迷。そんな中、5月16日の対阪神戦(中日球場)からノースリーブのユニフォームを採用した。しかし、採用直後の6月には最下位がほぼ確定的となり、杉下監督は6月24日で休養。翌25日から本多逸郎コーチが監督代行に就任してシーズン終了まで指揮を執った。ノースリーブユニフォームは大リーグではピッツバーグ・パイレーツが使用した例があるが、日本では中日が初めてであった。しかし、ノースリーブという野球のユニフォームに相応しくない格好が当時のファンには受け入れられず、着用する当の選手たちからも不評であった。中日はシーズン終了後、水原茂を監督に招聘。翌年からは中日のチームカラーとして現在まで親しまれているドラゴンズブルー主体の袖のついたライン入りユニフォームを復活させた。こうしてノースリーブユニフォームは僅か5ヶ月半で封印された。 なお、高木守道が当時着用していたビジター用ユニフォームが現在、ナゴヤドーム内の「ドラゴンズミュージアム」に展示されている。

エピソード編集

  • 当ユニフォーム発表時の試着モデルは当時の主砲・江藤慎一だったが、これを見た球団フロントが「江藤の腕がたくましく見える」と判断してしまったため採用が決定した、という経緯がある。しかし当時の中日は江藤以外は小柄・細身の選手(板東英二、一枝修平など)が多かったため、それらの選手が着用すると余計貧弱に見えてしまった、という笑うに笑えないエピソードがあった(板東の回想による)。
  • ノースリーブのユニフォームは30年間封印されたが、前述のように1998年サンデーユニフォームとして復活を果たした。このユニフォームには当時就任3年目の星野仙一監督の出身大学・明治大学のスクールカラーである紫が採用された。
  • 2004年NHK BS1で放送された「プロ野球70周年特番」で、コラムニスト綱島理友監修による「復刻ユニフォームファッションショー」の際に当ユニフォームが再現された。しかし、同番組にゲスト出演していた当時の監督・杉下茂のコメントは「二度と見たくなかった」。