1995年のル・マン24時間レース

1995年のル・マン24時間レース
前年: 1994 翌年: 1996

1995年のル・マン24時間レース24 Heures du Mans 1995 )は、63回目のル・マン24時間レースであり、1995年6月17日[1]から6月18日にかけてフランスル・マンサルト・サーキットで行われた。ル・マン史上最も雨量が多かったレースの1つで、約17時間雨が降り続いた。

1995年のコース

優勝はJ.J.レートヤニック・ダルマス関谷正徳が駆るLMGT1クラスに参戦した59号車のマクラーレン・F1 GTR。これはマクラーレンの初優勝であると同時に、フィンランド人ドライバーと日本人ドライバーのル・マン初優勝でもあった[2]

今回がル・マン初出走であったマクラーレンの特筆すべき点は、上位5台のうち4台を占めた点であった。また、他のライバルメーカーは複数回出走して初めて優勝を達成しているが、マクラーレンはこのレースでル・マン初出場車としては初出走で初勝利をとげたメーカーとなった。これは第1回優勝車と、直近では1949年のフェラーリ166以来で、46年ぶりとなる勝利だった[3]

また、マリオ・アンドレッティクラージュは2位に終わるが、これはアンドレッティにとっての自身最高位となった。

マクラーレン・F1 GTRはル・マン以前よりBPRグローバルGTシリーズで圧倒的な強さを見せていた。1995年に当時欧州のプライベーター選手権であったBPR グローバルGTシリーズでデビューしたマクラーレンF1GTRのル・マン参戦は、本来の参戦計画としては6台のエントリーで決まっていた。マクラーレン車のエントリーは、ゼッケン24号車と25号車にガルフ・マクラーレン。42号車がソシエテ・BBAコンペティション、49号車がWEST(FM)コンペティション。50号車がジロワレーシングのジロイクス・ジャカディ・マクラーレン。51号車がデレック・ベルと、ジャスティン・ベルの親子が乗るデビット・プライス・レーシングのハロッズ・マクラーレンであった。

F1GTRはBPRシリーズで勝ってはいたが、有利という印象はなかったうえ、24時間レースは初めてであり、未知数だった。事実ル・マンでは初出走のクルマが総合優勝するのは相当難しい。実際F1 GTRの設計者のゴードン・マレーもクラッチやミッションは24時間もつかどうかわからない、と事前に発言していた。マクラーレンは他にも信頼性の問題を抱えており、20年後インタビューに答えたグラハム・ハンフリーズ(元スパイス・テクニカルディレクター[4][5]によると、ハンフリーズはマクラーレン勢が苦しんでいたギアセレクトのトラブルの原因が露出したギアリンケージ機構への浸水であることを突き止め、ピットストップごとに湿気防止スプレーのWD-40を吹き付けるという対策を講じた [6]

ル・マンで優勝したゼッケン59号車両は、マクラーレンカーズ所有のGTRの開発車両であった。これは株式会社国際開発の経営や上野クリニックを展開していた[7]佐山元一がこのクルマの大ファンであり、F1 GTRのル・マン参戦を聞きつけるやスポンサーとなることを依頼してきた。元インディカードライバーとして知られるロジャー安川の父で、レイトンハウスF1チームでマネージャーを務めた安川実がアジア極東マーケティング担当としてマクラーレンで働いており、安川を通じて上野クリニックのスポンサーを獲得することで、追加でもう1台を走らせることが急遽決まる。つまり当初は優勝したマクラーレン(59号車)はル・マンに出走する予定ではなかったのである。予定外であったため、新車を制作できずにシャシーナンバー01Rという初期のテストや開発のために使われたワークスマシンで走行可能だったプロトタイプを急遽レースカーに仕立てた。エントリーチームはランザンテ・モータースポーツに貸し出され、マクラーレンのユニット12が準備した。このマネジメントのもと、佐山が直接かかわる国際開発のレーシングチームとして「国際開発UK」とした。マシンはマクラーレン・カーズの所有。一方で他チームのマクラーレンマシンは各チームの所有物だった。マクラーレンのチーフエンジニアであるジェームズ・ロビンソンが監督して国際開発レーシングに代わって実行、運営された。国際開発UKの車両オーナーがマクラーレンであるので、実質的なワークスマシンであった。こうして、ゼッケン59号車としてコクサイ・カイハツUKレーシングというエントリー名のマクラーレンを関谷、ダルマス、レートが乗ることとなった。他のマクラーレンと異なりル・マンに送り出す前にすべてのパーツを組み込むことができた唯一のマシンであったものの、使用車両が完成したのは本番のわずか6週間前になったので、最初からほぼぶつけ本番と化した。このため金曜の夜にはル・マンのコース近くの空港でレートとダルマスがテスト走行を行う。このテストをしておいたため、決勝ではメカニカルトラブルはまったく発生しなかったという。結果として59号車がトップでゴールすることでマクラーレンはル・マン24時間耐久レースに初参戦した年に優勝を飾ることになった。マクラーレン側も盛大に喜ぶとともに、優勝のきっかけとなった上野クリニックに対しても強く感謝したという。

GT2クラスの上位は、ホンダ・NSXと2台のキャロウェイ・コルベットが獲得。1970年代半ば以降から前年までのようにポルシェ・911に支配された時代とは異なり、メーカーの多様性を示していた。

概要編集

これまで長年隆盛を誇ってきたグループCカテゴリーのマシンが出場できなくなり、さらにGTカテゴリーのマシンが中心になった[8]。この年のF1 GTR のル・マン参戦コストは、大手メーカーのワークスに比べればプライベーターによるベンチャー企業チームのような規模で参戦したため、ワークスチームの10分の1にも満たない75万ポンドほどだったと言われている。

なお、バジェットキャップの一環として、ワークスチームの出場が見込まれたWSCとLMGT1ではテレメトリーシステムの使用が禁止された[8]

国際モータースポーツ協会(IMSA)との良好な協力関係が継続しているため、フランス西部自動車クラブ(ACO)はLMP1カテゴリを段階的に廃止し、代わりにIMSAのワールドスポーツカー(WSC)クラスに基づいた規制を策定した。その見返りにIMSAは、グループCシャーシの多くがまだ流通していることを考慮して、ターボエンジン車をWSCクラスに参戦させる事に同意した[9]。LMP2クラスはそのまま残された。ただし、他のクラスには次の制限があり、一部は前年から修正された[9]

  • WSC:エンジンは最大4.0Lまたは3.0L(ターボ)、回転限界8,500rpm(2バルブV8)または10,500rpm(4バルブV12)、燃料タンク80L、エンジンのサイズとタイプに応じた最小重量、最大タイヤ幅18インチ
  • LMP2:燃料タンク80L、最小重量620kg、市販エンジン、最大タイヤ幅12インチ
  • LMGT1:燃料タンク100L、最小重量900kg、最大タイヤ幅14インチ
  • LMGT2:燃料タンク100L、最小重量900kg、最大タイヤ幅12インチ

1994年のレースでポルシェが物議をかもした、「1台限りのロードカーで車両公認」のルールは、LMGT1でそのままであった。ただし、LMGT2は1995年2月以降に連続して生産された車両がベースである必要があった。

これらのレギュレーション変更は大きな関心を集め、ACOは99のエントリーを受理した。これに対応して、ACOはさらにピットを2つ増設し、50台の出走を可能にした。それまでの実績を考慮して20チームに自動的に出走を許可し、残りの30チームは予備予選によって決定された。

スポーツカーのスペシャリストであるクラージュ、クレマー、WR、デボラは、IMSAチャンピオンシップから参戦、またフェラーリが333SPモモ・レーシングのジャンピエロ・モレッティに委託するという体制で22年ぶりにプロトタイプカーで参戦した。

日本勢は主にLMGT1クラスで活躍し、トヨタ日産マツダホンダが参戦した。また、総合優勝したマクラーレンにも関谷正徳が搭乗するなど日本との繋がりがあった。

WSC編集

グループCカテゴリーのマシンの出場はできなくなったが、これまで同様にIMSAとの提携を継続し、プロトタイプカーであるWSCクラスの出走を認めた[8]

ロータリーエンジンを含め自動車メーカーから市販されているエンジンを搭載することが条件で、チューンにも細かい制限がある[8]。エンジン回転数もバルブ数や気筒数で制限があり、エンジンにより性能差が出ないようエアリストリクターも設定された[8]ターボチャージャーを装備したり5バルブにしたりする場合は最低車重が増やされた[8]シャシやボディに関してはかなり自由だが、ダウンフォース拡大目的の装備はウィングのみとされ、前後ホイール間の車体下面はフラットでなくてはならない[8]

規格に合致させたクラージュポルシェクレマー・ポルシェが4台参戦した[8]。マツダは、1991年のル・マン24時間レース総合優勝の実績からすればいささか物足りない性能ではあったが、ロータリーエンジンを搭載したDG3を1台走らせた[8]。他にフェラーリ・333SPが1台の計6台が参戦した。

LMGT1編集

 
ホンダ・NSX GT1

エンジンもサスペンションも改造の幅が大きい。車両重量は自由だが50kg刻みで分けられ、ターボチャージャーの有無、排気量、バルブ数などとともにエアリストリクター径が設定された[8]

グループCの参戦が禁止されたために多くのメーカーワークスのマシンの参戦が期待されたが、予想された程マシンが集まらず、「マクラーレン・F1 GTR」、「ホンダ・NSX」、「トヨタ・スープラ LM-GT」、「日産・スカイラインGT-R」、「ポルシェ・911 GT2 Evo」、「フェラーリ・F40 LM」がワークスやセミワークスで参戦した[8]

LMGT2編集

オリジナルのエンジンを維持する必要があり、シリンダー数や配列の変更はできない[8]。サスペンションはベアリングやリンクは変更できるが、主要構造部品は改造できない[8]。LMGT1との比較では性能が抑えられ、総合優勝を狙うのは無理があるとされた[8]。プライベートチームとジェントルマンドライバーの組み合わせでの参戦が中心であった。

LMP2編集

ル・マン独自のローコスト軽量規格だが、「WRプジョー」など3台が出走した[8]

予選編集

最高速が伸びる2台の「WRプジョー」が最前列を占め、2列目も「クラージュ・ポルシェ」で、GTカテゴリーのマシンは影が薄くなってしまいそうな印象であった[8]

1988年のミュルザンヌストレートで400km/hの速度記録した、フランスの小規模なヴェルテール・レーシング英語版にとって最高の日となった。ヴェルテールの最新バージョンであるWR・LM94は、小型で機敏で非常に高速なプロトタイプであり、ウィリアム・デビッドとパトリック・ゴニンが運転する両車は、グリッドの最前列を占めた。デビッドはデビュー時にポールを獲得した最初のドライバーだった。奇妙なことに、1967年のフランスF1 GPが開催されて以来、2台のシングルシーターがル・マンの最前列に立ったのは初めてだった[10]

次の後列、3番手はクラージュのエリック・ヴァン・デ・ポールボブ・ウォレクフランク・ラゴルス だった。しかしヴァン・デ・ポールらのマシンはスタート前、エンジン交換後の17kgの重量不足が見つかり失格となった [11][12] 。ボブ・ウォレク/マリオ・アンドレッティ/エリック・エラリーは、フィールドで3人のドライバー全員が4分未満でラップした唯一のマシンだった。5番手は、#4クレマー・K8。その後、GT1クラスのマシンが入った。3台のフェラーリ F40の内、#41がトップに入り、マクラーレンやヴェンチュリなどが続いた。

EuroMotorsportフェラーリの333SPは、ACOが最大エンジン回転数をチェックについてチームと議論してる間、予選のほとんどに出れず、最終的には17位だった[13]

GT2クラスで最速は23位のアグスタ・キャラウェイコルベットで、32位のスタドラーモータースポーツのポルシェ・911 GT2チーム国光・ホンダNSXなどが続いた。グリッド後方の、GT1クラスのコルベット ZR1のアメリカのプライベートチームは、GT2のキャラウェイコルベットよりも20秒近く遅かった。

優勝した59号車は水曜日の予選中に水漏れを発生させ、木曜日の予選ではオーバーレブのため、エンジンを載せ替えている。つまりマクラーレン7台中じつは59号車だけエンジンを換装したのであった。予選ぶっつけ本番で、しかもここまで事前テスト走行は一切ないという厳しい環境でも、1回目の予選でJJ・レートが3分を切るタイムをたたきだしている。

決勝編集

 
総合優勝した、マクラーレン・F1 GTR 59号車

スタート編集

この年のル・マンは、記録上最も雨の多いル・マンになったが、レースの開始時には天気は晴れていた。ティエリー・ブーツェンの#4クレマー、#50ジロイクス・ジャカディ・マクラーレン(ビートから蒸留した合成アルコール燃料[14]で走行)、GT2クラスの#84ホンダ・チーム国光を含む5台の車は、直前でのトラブルの為、ピットレーンからスタートしなければならなかった。

午後四時、フラッグが下ろされてからは、2台のWRプジョーとウォレクの#13クラージュポルシェが飛び出し、最初の1時間でほぼ半周後続と距離を開けた。ACOの規定変更で、それらのラップは1993年のトヨタエディ・アーバインの最速ラップから30秒近く遅れていた。#49ウェスト・コンペティション・マクラーレンのジョン・ニールセンと、#11クラージュのアンリ・ペスカロロが、4番手戦いをリードした。フェラーリ・333SPマッシモ・シガーラは、下位スタートから追い上げ4位のニールセンまで追い込んだが、7周目に石のダメージでアルナージュでエンジンを止めた。スタート後1時間で雨が降り出し、その後も一晩中日曜日の朝まで雨がずっと続き、最後までにわか雨が降り続いた。その為多くの車がスピンした。2台のWRプジョーはフロントガラスの故障で時間を失い、高速であるが壊れやすかった。さらに悪いことに、5時間後にパトリック・ゴーニンハイドロプレーニング現象を起こし、ミュルザンヌで宙返りが起きて大きな事故に巻き込まれた。彼は4本の肋骨と肩甲骨が折れた状態で病院に運ばれ[15][16]、37分間セーフティーカーが出走した。レインコンディションの為レースのペースは遅く、信頼性の低いマシンには有利な展開となった[17]

大雨の中で、WSCカーはパワーアドバンテージを失い、再スタート時に、マクラーレンの4台とウォレクのクラージュが競った。しかし、マリオ・アンドレッティがポルシェカーブでクレマーをラップする際クラッシュし、修理に30分かかり、6ラップを失った。そしてマクラーレンが1-2-3位になりGT1クラスにメリットがあるように見えた。フェラーリがアウトし、ペスカロロのクラージュは、アルナージュで止まった。そして、クレマーもウェットでの運転に苦戦した。ラルブル・コンペティションポルシェ・911 GT2Evoは、マクラーレンに追いついて4位になった。鈴木利男の見事な運転で、車のギアボックスが午後11時に壊れるまで、日産・ニスモ GT-RLMを 総合7位にまで順位を上げていた。ホンダは2台のホンダ・NSX GT1が出場していた。1台はクラッチトラブル、もう1台は雨でクラッシュし、大規模な修理が必要だった。GT2クラスでは、クレマーとスタドラーのポルシェはキャラウェイとリスターを3ラップリードしていた。

編集

夜になると、ユルゲン・レッシグ/フランツ・コンラッド/デ・アゼベドが運転するクレマーが、リタイヤした。DPRマクラーレンはピットストップごとにリードを交代した。BPRシリーズでライバルのガルフレーシング・マクラーレンは、多くの問題を抱えていた。シリーズリーダーでチームオーナーのレイ・ベルムは、7ラップ遅れ。運が悪かったのは、もう1台のフィリップ・アリオーだった。彼は、追い越したばかりのGT2ポルシェによって追突された時リードしていた。ラルブルコンペティションのGT1ポルシェも不運だった。夕方、チームオーナーのジャック・ルコントの車がアルナージュのグラベルトラップに落ちた。ヘスス・パレハエマニュエル・コラールはともに車を総合4位に上げたが、どちらも真夜中までにリタイアした。後者のクラッシュは、アンドレアス・フックスがミュルザンヌのコーナーでのブレーキングを誤って、コラールに当たったときに、GT2をリードするスタドラー・ポルシェも一緒にリタイヤとなった。一方、PCオートモーティブ・ジャガーは22位からスタートして4位になり、ジム・ダウニングのクッズ・マツダ、スタックのクレマー、ウォレクのクラージュが順位を上げた。ポルシェのリタイヤにより、GT2クラスは、ソーキルド・サイリングが午前1時に最初のミュルザンヌシケインでワークス車がクラッシュ、2台になったキャラウェイと最後から2番目にスタートしたジャン・フランソワ・ベロックスのプライベートポルシェの間になったが、今はまだ一周遅れ。午前3時に(壊れたウィンドウワイパーを使用して)9時間争った、ニールセン/マスのマクラーレンは、クラッチが滑りでピットインしリタイヤ。その為アンディ・ウォレスベル親子の車がリードを受け継いだ。ウォレスは雨の中で信じられないほどのスティントを行った。一方、ダークホースの国際開発UKチームは上位に上がってきた。他の車はスピンまたはピットインしている間テンポを崩さず、レートとダルマスは夜中に2位まで順位を上げた。ジャガーは午前5時にクランクシャフトが壊れレースを諦め、その時点までにクラージュは3番手(4周遅れ)、ジャカルディ・マクラーレンは4番手、ベルムのガルフ・マクラーレンは5番手に残った。

編集

夜明けが終わると、雨はやっと和らぎ、クラージュが非常に速くなり、マクラーレンとのラップ差を徐々に引き戻した。ウォレスが新しいブレーキパッドの交換の為にピットインしなければならなかった時、リードは国際開発UKマクラーレンに1分未満になった。しかしその後チームメイトの53歳で5回のルマン総合優勝の実績があるデレック・ベルは、彼が世界最高のスポーツカーレーサーの1人と見なされているのかを示した。生き残った3台のWSC車-クラージュ、クレマー、クッズが追いかけていた。フェラーリF40は問題を抱えていた。しかし、ステファン・ラテルのパイロットレーシング・フェラーリは、正午直前にミシェル・フェルテマーク・ブランデルのガルフ・マクラーレンと接触、ダンロップシケインで破片を滑らせ、サンドトラップに入り、脱出には5分かかり、6時間8位を維持していたが3つを順位を落とした。GT2クラスでは、スタートで6周遅れたが、ホンダのチーム国光は快調に燃費も良く走り、キャラウェイを追い抜いて総合のトップ10に入った。

ゴール編集

残り2時間、マクラーレンの恐れられた弱点のトランスミッションは、ギアチェンジの問題を抱えたDPRマクラーレンに打撃を与えはじめる。ピットで5分遅れた後、ベルは6位に後退し、レースに復帰した。ダルマスが先頭に立ちそこからは彼らはトップを維持した。1時間足らずで、アンドレッティはハロッズ・マクラーレンをパスして2位になり、ボブ・ウォレックに引き継いで、彼らは懸命に追い上げたが、最終的にはわずか3分遅れで2位だった。ウォレスのDPRマクラーレンはさらに1周遅れで、ガルフとジャカディ・マクラーレンはさらに5ラップ遅れ、そして残りの2台のWSC車であるクレマーとクッズ・マツダを従えてレースを終えた。

設計者のゴードン・マレーが「クラッチやトランスミッションが24時間保つとは保証できない」と懸念を隠さなかったが、ヤニック・ダルマス/J.J.レート/関谷正徳組[18]の乗るマクラーレン・F1 GTRの59号車が24時間で4,055km[18]を平均速度168.992km/h[18]で走って総合優勝した。関谷正徳は、ル・マンで総合優勝した初めての日本人ドライバーとなった。マクラーレン・F1GTRは3位[18]、4位[18]、5位[18]と多数入賞し、この年の主役となった[17]。日本のファンにとっても、日本のトップドライバーの1人である関谷正徳が優勝車のドライバーとして加わっていたのがなによりであった[17]

日本車はクッズ・マツダ DG3、5号車の7位が最高位[17][18]。そしてGT2クラスで出場したチーム国光、ホンダ・NSX84号車の8位[17][18]で、GT2クラス優勝を果たした。ピットレーンからスタートしたにもかかわらず、チーム国光は総合8位で終え、ジェリンスキー・アグスタ・キャラウェイコルベットが2周差、姉妹車よりも2周早かった。新型のポルシェ993 GT2のカスタマーは、1995年BPRシリーズ12戦のうち10勝を勝ち取ったが、ルマンでは勝てなかった。

公式結果編集

順位 クラス 番号 チーム ドライバー シャシー タイヤ ラップ
エンジン
1 LMGT1 59 国際開発UK  ヤニック・ダルマス
 関谷正徳
 J.J.レート
マクラーレン・F1GTR M 298
BMW S70 6.1L V12
2 WSC 13 クラージュ・コンペティション  ボブ・ウォレク
 エリック・エラリー
 マリオ・アンドレッティ
クラージュ・ポルシェC34 M 297
ポルシェ Type-935 3.0L ターボ フラット6
3 LMGT1 51 ハロッズマッハワン・レーシング  アンディ・ウォレス
 デレック・ベル
 ジャスティン・ベル
マクラーレン・F1GTR G 296
BMW S70 6.1L V12
4 LMGT1 24 ガルフ・レーシング  マーク・ブランデル
 レイ・ベルム
 マウリツィオ・サンドロ・サーラ
マクラーレン・F1GTR M 291
BMW S70 6.1L V12
5 LMGT1 50 ジロワ・レーシング・チーム  ファビエン・ジロイ
 ジャン・ドニ・デレトラズ
 オリビエ・グルイヤール
マクラーレン・F1GTR M 290
BMW S70 6.1L V12
6 WSC 4 クレマー・レーシング  ティエリー・ブーツェン
 ハンス=ヨアヒム・スタック
 クリストフ・ブシュー
クレマー・K8スパイダー G 289
ポルシェ Type-935 3.0L ターボ フラット-6
7 WSC 5 マツダスピード  ジム・ダウニング
 寺田陽次郎
 フランク・フレオン
クッズ・マツダDG-3 G 282
マツダ R20B 2.0L 3-ローター
8 LMGT2 84 チーム国光  土屋圭市
 飯田章
 高橋国光
ホンダ・NSXGT2 Y 275
ホンダ 3.0L V6
9 LMGT2 73 キャラウェイ・コンペティション  エンリコ・ベルタッジア
 ジョニー・アンサー
 フランク・イェリンスキー
キャラウェイ・コルベットZR-1 B F 273
シボレー 6.3L V8
10 LMGT1 22 ニスモ  福山英朗
 近藤真彦
 粕谷俊二
ニスモ・GT-RLM B 271
日産 2.6L ターボ I6
11 LMGT2 75 アグスタ・レーシングチーム  リカルド・アグスタ
 ロビン・ドノヴァン
 ユージン・オブライエン
キャラウェイ・コルベットZR-1 D 271
シボレー 6.3L V8
12 LMGT1 34 パイロット・アルディクス・レーシング  ミシェル・フェルテ
 オリヴィエ・テヴェナン
 カルロス・パラウ
フェラーリ・F40 LM M 270
フェラーリ 3.0L ターボ V8
13 LMGT1 42 ソシエテ・BBAコンペティション  ジャン=リュック・モーリー=ラリビエール
 マーク・スール
 エルヴェ・プーラン
マクラーレン・F1GTR D 266
BMW S70 6.1L V12
14 LMGT1 27 サード株式会社  ジェフ・クロスノフ
 マルコ・アピチェラ
 マウロ・マルティニ
トヨタ・スープラLM-GT D 264
トヨタ 3S-GTE 2.1L ターボ I4
15 LMGT2 77 ザイケル・モータースポーツ  ピーター・ザイケル
 ガイ・クスター
 カレル・ドレジ
ポルシェ・911GT2 P 263
ポルシェ 3.6L ターボ フラット-6
16 LMGT2 78 ジャン・フランソワ・ベロック  ジャン・フランソワ・べロック
 エリック・ヴァン・デ・イベール
 ディディエ・オルシオン
ポルシェ・911GT2 G 262
ポルシェ 3.6L ターボ フラット-6
17 LMGT2 81 リチャード・ジョーンズ  リチャード・ジョーンズ
 ニック・アダムス
 ジェラルド・マッキーラン
ポルシェ・911GT2 G 250
ポルシェ 3.6L ターボ フラット-6
18 LMGT1 41 エネア・SRL  ゲリー・アイレス
 マッシモ・モンティ
 ファビオ・マンシーニ
フェラーリ・F40GTE P 237
フェラーリ 3.0L ターボ V8
19 LMGT1 54 フライジンガー・モータースポーツ  ヴォルフガング・カウフマン
 羽根幸浩
 ミシェル・リゴネ
ポルシェ・911ビ・ターボ G 229
ポルシェ 3.8L ターボ フラット-6
20 LMP2 14 ディディエ・ボネ  パトリス・ルーセル
 エドゥアール・セジオナール
 ベルナール・サンタル
デボラ・LMP295 M 222
フォード コスワース 2.0L ターボ I4
NC LMGT1 44 ソシエ・テ・ベンチュリSA  ジャン=マルク・グーノン
 ポール・ベルモンド
 アルノー・トレヴィ・シオール
ヴェンチュリ600SLM M 193
ルノー PRV 3.0L ターボ V6
NC LMGT2 71 チーム・マーコス  デイビッド・レズリー
 クリス・マーシュ
 フランソワ・ミゴール
マーコス・LM600 D 184
シボレー 6.3L V8
NC LMGT1 46 TCP・ホンダ  岡田秀樹
 フィリップ・ファーブル
 服部尚貴
ホンダNSX GT1 D 121
ホンダ 3.0L V6
DNF LMP2 9 ヴェルテール・レーシング ウィリアム・デビッド
ジャン=ベルナール・ブーベ
リチャードBalandras
WR・LM94 M 196
プジョー 2.0L ターボ I4
DNF LMGT1 45 エリック・グラハム エリック・グラハム
フランソワ・ビルデュー
フェルディナン・ド・レセップス
ベンチュリ・600LM D 178
ルノー PRV 3.0L ターボ V6
DNF WSC 3 クレマー・レーシング ユルゲン・レーシッヒ
フランツ・コンラット
アントニオ・ヘルマン・デ・アゼベド
クレマー・K8スパイダー G 163
ポルシェ Type-935 3.0L ターボ フラット-6
DNF LMGT1 23 ニスモ 星野一義
鈴木利男
影山正彦
ニスモ・GT-R LM B 157
日産 2.6L ターボ I6
DNF LMGT1 57 PCオートモーティブ リチャード・パイパー
ティフ・ニーデル
ジェームス・ウィーバー
ジャガー・XJ220 D 135
ジャガー JV6 3.5L ターボ V6
DNF LMGT2 70 チーム・マーコス クリス・ホジェッツ
トーマス・エルドス
コル・オイサー
マーコス・LM600 D 133
シボレー 6.3L V8
DNF LMGT1 49 ウェスト・コンペティション ジョン・ニールセン
ヨッヘン・マス
トーマス・ブシャー
マクラーレン・F1GTR G 131
BMW S70 6.1L V12
DNF LMGT1 43 ソシエ・テ・BBAコンペティション エマニュエル・クレリコ
ローラン・レキュイエ
ベルナール・シューパン
ベンチュリ・600LM D 130
ルノー PRV 3.0L ターボ V6
DNF LMGT1 58 PCオートモーティブ ベルナール・チュネ
オリンド・ヤコベリ
ウィン・パーシー
ジャガー・XJ220 D 123
ジャガー JV6 3.5L ターボ V6
DNF LMGT2 76 アグスタレーシングチーム ソーキルド・サリング
アルモ・コッペリ
パトリック・ボーデ
キャラウェイ・コルベットZR-1 D 96
シボレー 6.3L V8
DNF LMGT1 37 ラルブル・コンペティション ドミニク・デュプイ
エマニュエル・コラール
ステファン・オルテリ
ポルシェ・911GT2Evo M 82
ポルシェ 3.6L ターボ フラット-6
DNF LMGT2 79 スタドラーモータースポーツ エンツォ・カルデラーリ
リリアン・ブライナー
アンドレアス・フックス
ポルシェ・911GT2 P 81
ポルシェ 3.6L ターボ フラット-6
DNF LMGT1 25 ガルフレーシング ピエール=アンリ・ラファネル
フィリップ・アリオー
リンゼイ・オーウェン・ジョーンズ
マクラーレン・F1GTR M 77
BMW S70 6.1L V12
DNF LMGT1 36 ラルブル・コンペティション ジャン=ピエール・ジャリエ
ヘスス・パレハ
エリック・コマス
ポルシェ・911GT2Evo M 64
ポルシェ 3.6L ターボ フラット-6
DNF LMGT2 91 ハイコーモータースポーツ トーマス・サルダーニャ
ミゲル・アンヘル・デ・カストロプリンス
アルフォンソ・デ・オルレアン・ブルボン
ポルシェ・911GT2 G 63
ポルシェ 3.6L ターボ フラット-6
DNF LMGT1 30 ZR-1コルベットチームUSA ジョン・ポール・ジュニア
クリス・マクドゥーガル
ジェームス・メロ
シボレー・コルベットZR-1 G 57
シボレー DRZ-500 6.3L ターボ V8
DNF LMGT1 40 エネア・SRL アンデルス・オロフソン
ルチアーノ・デッラ・ノーチェ
太田哲也
フェラーリ・F40GTE P 42
フェラーリ 3.0L ターボ V8
DNF LMGT1 52 リスター ジェフ・リース
ドミニク・チャペル
ルパート・キーガン
リスター・ストームGTS M 40
ジャガー 7.0L V12
DNF LMGT1 55 ジャン=クロード・ミロエ ジャック・ルコント
ピエール・イヴェル
ジャン=リュック・シェロー
ポルシェ・911GT2Evo M 40
ポルシェ 3.6L ターボ フラット-6
DNF LMP2 8 ヴェルテール・レーシング パトリック・ゴニン
ピエール・プチ
マーク・ロスタン
WR・LM94 M 33
プジョー 2.0L ターボ I4
DNF WSC 11 クラージュ・コンペティション アンリ・ペスカロロ
フランク・ラゴルス
エリック・ベルナール
クラージュ・C41シボレー G 26
シボレー 5.0L V8
DNF LMGT1 26 サード株式会社 アラン・フェルテ
ケネス・アチソン
吉川とみ子
サード・MC8-R D 14
トヨタ 4.0L ターボ V8
DNF LMGT2 82 エルフ・ハーバート・レーシング シャルル・マルゲロン
ピエール・ド・トワジー
フィリップ・シファート
ポルシェ・911GT2 P 13
ポルシェ 3.6L ターボ フラット-6
DNF WSC 1 Euromotorsport Racing Inc. マッシモ・シガーラ
ジェイ・コクラン
ルネ・アルヌー
フェラーリ・333SP G 7
フェラーリ F310E 4.0L V12
DNF LMGT1 47 TCP・ホンダ アルミン・ハーネ
ベルトラン・ガショー
イヴァン・カペリ
ホンダNSX GT1 D 121
ホンダ 3.0L ターボ V6

出典編集

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  1. ^ 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』pp.224-231「資料2」。
  2. ^ Meaden (2015年2月24日). “McLaren F1 at the Le Mans 24 hours”. Evo. 2016年5月5日閲覧。
  3. ^ Moity & Teissedre 1995, p.28.
  4. ^ Spurring 2014, p.192.
  5. ^ Le Mans Memories”. You-tube. 2016年7月8日閲覧。
  6. ^ Meaden (2015年2月24日). “McLaren F1 at the Le Mans 24 hours”. Evo. 2016年5月5日閲覧。
  7. ^ 上野クリニックの医療法人社団上伸会を運営しているのは東京都中央区新川にあった国際開発。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』pp.27-154「ルマン24時間レースの歴史」。
  9. ^ a b Spurring 2014, p.188.
  10. ^ Moity & Teissedre 1995, p.128
  11. ^ Moity & Teissedre 1995, p.28.
  12. ^ Spurring 2014, p.196
  13. ^ Spurring 2014, p.197
  14. ^ Spurring 2014, p.194
  15. ^ Spurring 2014, p.189.
  16. ^ Moity & Teissedre 1995, p.144.
  17. ^ a b c d e 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』pp.27-154「ルマン24時間レースの歴史」。
  18. ^ a b c d e f g h 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』pp.224-231「資料2」。

参考文献編集