AGS・JH27は、AGSチームが1991年のF1世界選手権用に製作した最後のフォーミュラ1カー。デザイナーはクリスチャン・バンダープレインドイツ語版。3戦に参加したが、いずれも予選落ちしたため決勝レースに出走することは無かった。

AGS・JH27
カテゴリー F1
コンストラクター AGS
デザイナー ベルギーの旗クリスチャン・バンダープレインドイツ語版
イタリアの旗 マリオ・トレンティーノ
先代 AGS・JH25
主要諸元
シャシー カーボンファイバー/ケブラー モノコック
サスペンション(前) ダブルウィッシュボーン, コイルスプリング, プッシュロッド
サスペンション(後) ダブルウィッシュボーン, コイルスプリング, プッシュロッド
エンジン フォード-コスワース DFR, 3.5リッター, 640ps, V8 (90°), NA, ミッドエンジン, 縦置き
トランスミッション AGS, 6速, MT
重量 505 kg (1,113 lb)
燃料 エルフ
タイヤ グッドイヤー
主要成績
チーム Automobiles Gonfaronnaises Sportives
ドライバー イタリアの旗 ガブリエル・タルキーニ
イタリアの旗 ファブリツィオ・バルバッツァ
フランスの旗 オリビエ・グルイヤール
初戦 イタリアの旗 1991年イタリアグランプリ
出走優勝ポールFラップ
3 (0 start)[1]000
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背景 編集

AGSは1991年シーズン開始時から破産の瀬戸際にあった。ステファン・ヨハンソンガブリエル・タルキーニが持ち込んだ個人スポンサーからの予算は開幕2戦を賄えるだけであった。テクニカルディレクターのミッシェル・コスタは、1990年から91年にかけて新車AGS・JH26の開発を始めていたが、チームの財政難を知らされ、計画は草案の段階に過ぎなかった。そのためAGSは前年モデルの改良型JH25Bでシーズンを開始した。ヨーロッパラウンド開始前にチームはイタリア人の企業家グループに売却された。その内の一人、パトリツィオ・カンツォ(前スクーデリア・イタリアチームマネージャー)は、当時F3000チームのクリプトン・エンジニアリングを率いており、カンツォはクリプトンのスタッフをAGSに投入した。その中には1970年から88年までAGSの車両設計を担当し、その後スクーデリア・コローニリアルダラーラを経て1990年からクリプトンでテクニカル・ディレクターを務めていたバンダープレインもいた。クリプトンのオーナーであるカンツォが新オーナーとなったことで、約3年ぶりにAGSの一員となったバンダープレインは新車開発を1991年5月に始めた。彼はコスタの構想したJH26のプランを拒否し、全くの新車であるJH27の開発を引き受けた。JH27は1991年の夏にようやく完成したが、チームはそれまでJH25Bを使用した[2]

開発 編集

AGS・JH27の設計は従来のものを踏襲していた。コックピットは低く、後部カウルはJH25に酷似していた。フロントウイングはフロントノーズ左右に段差の付いた独立した物が取り付けられた[3]。エンジンはハイニー・マーダードイツ語版がチューンしたコスワース DFRを搭載した[4]。JH27は2台が製作された。シャシーナンバーは047と048が与えられた[5]

レース戦績 編集

最初のJH27はイタリアグランプリ中に完成したが、目撃者によるとその時点でまだ準備ができていなかった[6]。AGSのドライバー2名の内、経験豊富なタルキーニにJH27が与えられ予備予選に臨んだ。そのラップタイムはチームメイトのファブリツィオ・バルバッツァがドライブするJH25Bよりも僅かに遅かった。イタリアグランプリでは両名とも予備予選落ちしている。続くポルトガルとスペインでは2台が用意され、ポルトガルではタルキーニとバルバッツァが予備予選落ち、スペインではタルキーニに代わって起用されたオリビエ・グルイヤール[7][8]とバルバッツァがドライブしたが、これも予備予選落ちしている。JH27は一度も決勝を走ることが無く、AGSはスペイングランプリをもってF1から撤退した。AGSのF1撤退直前には経済的理由によりバンダープレインはAGSを離れており、活動を継続するクリプトンのF3000チームに戻ってルカ・バドエルの担当エンジニアとして彼のタイトル獲得に貢献することとなった。AGSの後任には元ユーロレーシングおよびユーロブルンの車をデザインしたマリオ・トレンティーノが就任し、撤退するまでJH27のエンジニアを務めていた。

JH27はデザインを担当したバンダープレインにとっての遺作となった。彼は半年後の1992年3月11日にAGSの本拠があり、彼の故郷でもあるゴンファロンの田舎道で交通事故のため死亡した。48歳だった。なお、事故の場所については新聞によっては「トリノ近郊」で起きたと記事を書いており、諸説ある[9]

JH27は、AGSチームが新たに始めたF1マシンを使用したドライビングスクール事業で長年にわたってサービスを提供し続けた。

F1における全成績 編集

(key) (太字ポールポジション

シャシー エンジン タイヤ No. ドライバー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 ポイント 順位
1991年 JH27 フォード-コスワース
DFR, V8, 3.5
G USA
 
BRA
 
SMR
 
MON
 
CAN
 
MEX
 
FRA
 
GBR
 
GER
 
HUN
 
BEL
 
ITA
 
POR
 
ESP
 
JPN
 
AUS
 
0 NC
17   タルキーニ DNPQ DNQ
  グルイヤール DNPQ
18   バルバッツァ DNPQ DNPQ

その後 編集

AGS・JH27は2シーター車に改造され、1990年代に始められたAGSレーシングスクールで使用された。ここでは代金を支払うことで、フォーミュラカーの走行を体験することができる[10]

参考文献 編集

  • Kevin Blick: Damon for a day. Top Gear, Heft 8/1998, S. 110 ff.(ドイツ語)
  • Patrice Burchkalter, Jean-Francois Galeron: Tout sur la Formule 1 1991, Surrèsnes 1991, ISBN 2-87636-067-5.(ドイツ語)
  • Adriano Cimarosti: Das Jahrhundert des Rennsports, Stuttgart 1997, ISBN 3-613-01848-9.(ドイツ語)
  • David Hodges: A–Z of Grand Prix Cars 1906–2001, 2001 (Crowood Press), ISBN 1-86126-339-2.(英語)
  • David Hodges: Rennwagen von A–Z nach 1945, Stuttgart 1993, ISBN 3-613-01477-7.(ドイツ語)
  • Pierre Ménard: La Grande Encyclopédie de la Formule 1, 2. Auflage, St. Sulpice, 2000, ISBN 2-940125-45-7.(フランス語)

参照 編集

  1. ^ 3戦に出場したがいずれも予備予選落ち。
  2. ^ Zum Ganzen: Ménard. La Grande Encyclopédie de la Formule 1. S. 106.
  3. ^ Hodges: Rennwagen von A-Z nach 1945, S. 10.
  4. ^ Entwicklungsgeschichte der Cosworth-Motoren auf www.research-racing.de (abgerufen am 13. Januar 2012).
  5. ^ シャシーナンバー046と047はJH26に使われる予定であった。
  6. ^ Hodges: A-Z of Grand Prix Cars 1906–2001, S. 8 („far from race-ready“).
  7. ^ タルキーニはフォンドメタルに移籍し、代わってグルイヤールが起用された。
  8. ^ フォンドメタルとAGSでドライバーを交換 F1GPX 1991スペインGP号 30頁 山海堂 1991年10月19日発行
  9. ^ Motorsport Magazine, Heft 4/1992, S. 123.
  10. ^ Top Gear, Heft 8/1998, S. 110 ff.

外部リンク 編集