M・カシー商会(エム・カシーしょうかい、1915年 設立 - 1916年 活動停止)は、かつて東京に存在した日本の映画会社である。「M・パテー商会」の日活への合併後、創業者の梅屋庄吉が再度独立して設立した。のちの喜劇俳優高勢実乗や、のちにマキノ・プロダクション等で活躍する名カメラマン三木滋人の映画デビューの機会をつくった会社としても知られる。

略歴・概要 編集

1912年(大正元年)9月、M・パテー商会、福宝堂横田商会吉沢商店との4社合併で「日本活動写真株式会社」(日活)が設立され、翌1913年(大正2年)10月には東京府南葛飾郡隅田村字堤外142番地(現在の墨田区堤通2丁目19番地1号)に「日活向島撮影所」がオープンした。しかし同社はなかなか一枚岩にはなれず、経営者サイドも従業員サイドも内紛が絶えず、旧吉沢商店系は向島に移ったが、旧福宝堂系、旧M・パテー系はそれに抵抗、撮影所近辺に天幕ステージを張り、独自の撮影を行っていた。

旧福宝堂系は営業から小林喜三郎山川吉之助が抜け、常盤商会(のちに小林商会)や東洋商会を設立、旧吉沢系の千葉吉蔵小西亮を引き抜き、製作サイドも多く流れ、また東洋商会へ流れなかった者も小松商会弥満登音影に加わった。旧M・パテー系は大阪の敷島商会へ移籍、日活首脳陣はこのころ総辞職している。辞職した梅屋が、1915年(大正4年)、もともと梅屋の私邸であった「大久保百人町撮影所」をM・パテー商会合併以来再稼動、独自の映画製作・興行を開始すべく設立したのがこの「M・カシー商会」である。設立第1作は『我が子の家』で、同年6月に「深川座」で公開された。

社名の「M」は梅屋(Mumeya)の頭文字であり(「M・パテー商会」の「M」と同じ)、「カシー」は、梅屋庄吉の妻・トクの実家の姓「香椎」からとったものである[1]

同年、『先代萩』を中村歌扇の主演[2]、当時14歳の三木滋人(三木稔)を撮影に起用[3]して製作したほか、旧吉沢商店系の俳優、弥満登音影から移籍した者などを起用し、劇映画製作をつづけたが、翌1916年(大正5年)3月に深川座で公開された『新吉原廓達引』を最後に劇映画を発表していない。

同年11月3日の裕仁親王(のちの昭和天皇)の立太子礼において、その当日のもようを根岸興行部、小松商会、小林商会、天然色活動写真(天活)、東京シネマ商会、日活との7社競作で製作することになり、梅屋が陣頭指揮を執り、撮影現場を同社が独占している。同作は『立太子式当日市中雑観』として、式典の翌日の4日に早くも各社によって公開されたが、白黒フィルムの作品は同社の原版が使用されたという。天活は天然色の「キネマカラー」で公開しているので独自の撮影が行われたようである。 同社の撮影所はふたたび稼動をやめたが、10年後の1926年(大正15年)、梅屋は日活から独立した俳優の片岡松燕を支援し、「片岡松燕プロダクション」が同撮影所をみたび稼動させることになる。

フィルモグラフィ 編集

1915年
1916年

関連事項 編集

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  1. ^ 車田譲治『国父孫文と梅屋庄吉』六興出版、1975年4月20日、250頁。ISBN 4-8453-6046-2 
  2. ^ 国立近代美術館#フィルムセンターサイト内の「発掘された映画たち 1999」の記述を参照。
  3. ^ 立命館大学衣笠キャンパスの「マキノ・プロジェクト」サイト内の「菅家紅葉氏談話」の記述を参照。なお「1916年Mパテー商会に入社」とあるが、「M・パテー商会」は1912年(大正元年)9月の日活への合併と同時に消滅しており、1915年(大正4年)に同社の経営者梅屋庄吉が設立した「M・カシー商会」(1915年 - 1916年)の誤りだと推定できる。

外部リンク 編集