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MiG-15 (航空機)

Flag of the Soviet Union (1936–1955).svg MiG-15 / МиГ-15

国立アメリカ空軍博物館で展示される朝鮮人民軍塗色のMiG-15bis。盧今錫が亡命時に搭乗していたもの。

国立アメリカ空軍博物館で展示される朝鮮人民軍塗色のMiG-15bis。盧今錫が亡命時に搭乗していたもの。

MiG-15(ミグ15、МиГ-15ミーク・ピトナーッツァチ)は、ソビエト連邦ミグ設計局が開発し、東側諸国を中心に世界中で広く使用されたジェット戦闘機DoDが割り当てたコードネームはMiG-15がType 14、SP-1がType 19、MiG-15UTIがType 29北大西洋条約機構(NATO)の使用するNATOコードネームはMiG-15がファゴット (Fagot)、MiG-15UTIはミジェット (Midget)。

目次

概要編集

開発と特徴編集

第二次世界大戦後、アメリカ合衆国ソビエト連邦は占領したドイツ国内から大量の先進的航空技術やデータ、そして開発技術者を入手し、それらの技術やデータを活用した航空機の開発を進めた。中でも、戦時中にドイツが研究していた後退翼のデータを入手したことにより、それまでソ連が独自に開発していたジェット戦闘機よりも高性能な機体を開発できるようになった。

 
Mig-15の遠心圧縮式ジェットエンジン

設計者のミコヤンは遠心圧縮式ターボジェットエンジンであるロールス・ロイス ニーン2のサンプルをイギリスのロールスロイスから入手した。(この時、ミコヤンがイギリスのロールスロイス社に招かれた時、ビリヤードの勝負に勝った褒美として購入許可を得た上、タービンブレードに使用されている合金は製作時に発生する切削くずを靴底に吸着させるやり方で入手し、合金の組成を分析して判明した後に製造した。)このエンジンを無許可でコピーして独自改良型RD-45Fとし、機体はアメリカやイギリスの戦闘機に対抗するため徹底的に軽量化された。大量生産を容易にするため、翼端失速の対策として、主翼に前縁スラットなどの複雑な機構を用いず境界層分離板で代用するなど、艤装品なども必要最小限に止められ、全体的に質実剛健な設計となっている。MiG-15は量産性が良く、軽量な機体による軽快な運動性を持ち、機首に非常に強力な37mm機関砲と23mm機関砲を搭載する優れた機体となった。またソ連機の特徴で、着陸装置は荒れた滑走路でも問題なく離着陸出来る非常に頑丈な作りになっている。

開発は急ピッチで進められ、1947年には初飛行に成功し優れた性能を示したため、すぐに大量生産が開始された。しかしMiG-15はあまりにも開発を急いだため、欠陥を改善されぬまま第一線の任務をこなすこととなってしまった。その一つに高高度飛行や高速飛行中に突然、スピンに陥るという重大な欠陥が存在したが、これに対しては速度計とエアブレーキが連動してマッハ0.92を超えないようになっていた。

その他にも、急ぎすぎた開発のために様々な欠点を抱え込んだが、当時のソ連にはアメリカなどに比べて優れたジェット戦闘機が無かった上、それらの欠点を補って余りある素晴らしい性能を保持していたため、15,000機以上が生産され、ソ連の衛星国や友好国にも大量に供与された。欠陥は多数開発された改良型で徐々に解決されていき、最も多く生産されたMiG-15bis (МиГ-15бис) は、当時の大抵の西側戦闘機を遙かに凌駕する性能を発揮できた。なお、MiG-15bisは大幅な改良型のVK-1エンジンを搭載した。

実戦編集

MiG-15は朝鮮戦争でアメリカ軍を主とする国連軍に衝撃を与えた。国連軍の参戦当初は北朝鮮軍にはジェット機を保有する本格的な航空兵力は無かったため、制空権は完全に国連軍のものとなっていた。だが1950年10月、中国義勇軍が参戦し、ソ連が中国に供与したMiG-15が鴨緑江を越えて来るようになると国連軍側にあった制空権は揺らぎ始めた。第二次世界大戦中に日本本土を焦土と化したB-29はMiG-15の強力な37mm機関砲によって多数が撃墜され、中国義勇軍参戦数ヵ月後の1951年に入ると昼間爆撃任務から除外された。アメリカ空軍は急遽、最新鋭のF-86Aセイバーを投入し制空権の回復に努めた。その後もアメリカ軍は改良型のF-86EやF-86F等を投入していったが、中国・北朝鮮側も改良型のMiG-15bisを投入するなどして、双方の制空権は南北に激しい移動を繰り返した。

アメリカ軍のF-86とソ連製MiG-15について、アメリカ軍は当時10:1の撃墜率を主張したが、1990年代半ばに4:1であったと修正した。実際のところ、この数字にはF-86以外のジェット機やB-29などレシプロ爆撃機の損害が計上されていないので、アメリカ軍の損害はより大である。一方ロシア側の資料では2:1とされている。ソ連軍航空部隊は38度線以南の空域での飛行を禁じられていたが、しばしば熟達した同部隊のパイロットは空戦に参加した。いずれにせよMiG-15に対するF-86の撃墜率の優勢は疑いはないが、その要因としては、レーダー照準器によって12.7 mm機銃6門によって空戦中に濃密な弾幕をMiG-15の周囲にまき散らすF-86の優れた武装システム以外にも、敵戦闘機の上空に味方戦闘機を誘導するアメリカ軍の優秀なレーダー管制や戦術も挙げられる。また、MiG-15が上昇力と高高度での運動性に優れていたのに対し、F-86は急降下能力と低高度での運動性に優れていたため、両者が交戦に入るとMiG-15は上昇しF-86は急降下して戦闘が成り立たないことも珍しくなかった。

当時F-86のパイロットとして実戦を経験したジョン・ボイドは、F-86は涙滴型のキャノピーにより360度の視界が確保されており、MiG-15に比べると操縦も容易であったため、敵機をより早く発見・対応することが可能となったことが撃墜率の差となったという考えにいたり、決定的な勝因は操縦士の意思決定速度の差にあったと結論づけた。ボイドは後にこの考えをOODAループ理論へと発展させた。

MiG-15は、その後直系の改良型であるMiG-17が大量に生産・配備されたこともあって朝鮮戦争以外の実戦においては華々しい活動は見られない。第二次中東戦争(スエズ戦争)ではエジプト軍等のMiG-15bisがMiG-17Fとともに実戦活動を行ったが、撃墜された情報はあっても戦果を挙げたという情報は伝わっていない。また、中国人民解放軍空軍の機体は中華民国空軍の戦闘機としばしば空中戦を行っているが、こちらも芳しい結果は残していないとされる(人民共和国側の情報では別であるが)。こういった不首尾な結果というのはMiG-15自体の欠陥によるものというよりは、パイロットの練度の問題あるいは(使用国側の)整備が問題であると考えられる。MiG-15自体の欠陥が関わる、著名人の死亡例としてはユーリイ・ガガーリンの事故死が挙げられるが、このときの彼の搭乗機はMiG-15UTIであった。

西側への影響編集

MiG-15が西側に与えた衝撃は大きく、MiG-15の小型・軽量の単純な機体に大出力エンジンを搭載する、というコンセプトに影響を受け、アメリカ空軍はF-104スターファイターを、イギリスはフォーランド ナットを開発している。しかしながらその影響は一時期のもので終わり、F-104もナットも開発した本国ではあまり使われなかった。

結果として、戦闘機の対地攻撃任務を重視したアメリカの戦闘機は次第に大きく重い機体となってゆき、ベトナム戦争でMiG-15の後継機であり軽快な運動性能を誇るMiG-17やMiG-19、MiG-21に苦しめられることとなってしまった(しかし、そのMiG系列の機体もやはり改良によって大きく重くなっていった)。

主な派生型と海外生産編集

派生型は量産されたものだけでも数知れず存在し、西側ではいまだにきちんとした認識はされていないようであるが、初期型のMiG-15、改良主生産型のMiG-15bis、複座練習機型のMiG-15UTI(またはUTI MiG-15МиГ-15УТИ или УТИ МиГ-15)の三つの名称を把握しておけば大抵は事足りるであろう。これらの中で最も重要なのは複座型のMiG-15UTIで、後に登場したMIG-17MiG-19の複座型が製造されなかったこともあり、極めて多くの国で高等練習機として長期間使用された。2004年現在で、まだ数カ国が使用しているとされる。これらは様々な訓練や試験に用いられた。数種開発された偵察機型の内、MiG-15Rは300機以上が生産されたが、偵察能力は極めて限定的であった。なお、MiG-15ではレーダー搭載型も複数開発されたが、結局レーダーはMiG-17に装備することとなり、MiG-15のレーダー搭載型はいずれも生産されなかった。また、戦闘機型の機体はのちに後継機の配備により余剰化したため、非力ながら戦闘爆撃機として使用された。その他、最後は標的機として使用されたものも多くあった。

MiG-15はソ連以外の国でも生産され、主なものとしてはチェコスロヴァキア製のS-102(MiG-15相当)、S-103(MiG-15bis相当)、CS-102(MiG-15UTI相当)、ポーランド製のLim-1(MiG-15相当)、Lim-2(MiG-15bis相当)、SBLim-1(MiG-15UTI相当)、SBLim-2A/B(Lim-2をSBLim-1同様の複座型に改修)等がある。また、それぞれに偵察型(Lim-2Rなど)や多くの改修型が製作された。ハンガリーでもライセンス生産が許可される予定であったが、ハンガリー動乱の発生により中止された。

中華人民共和国ではソ連から数百機のMiG-15が供与されてJ-2(殲撃二型)と命名したが、国内での新規生産は行われなかった。供与と同時にソ連から技師が派遣されて瀋陽飛機公司でサポートにあたったものの、生産されたのは複座練習機型のJJ-2(殲教二型)だけだった[1]

なお、中国のMiG-15についてはJ-4(殲撃四型)の名称が散見されることがあるが、これは西側の情報筋が誤って中国のMiG-15bisにJ-4の名前を付けたものであり、実際には中国空軍でJ-4の名称は用いられていない。

スペック(MiG-15bis)編集

  • 初飛行:1949年
  • 全幅:10.08 m
  • 全長:10.11 m
  • 全高:3.70 m
  • 翼面積:20.60 m2
  • 翼面荷重量:240.8 kg/m2
  • 空虚重量:3,582 kg
  • 通常重量:4,960 kg
  • 最大離陸重量:6,105 kg
  • 燃料搭載量:1,400 ℓ
  • 発動機:TRD VK-1 ×1
  • 最大出力:2,700
  • 推力重量比:0.54
  • 最大速度:1,076 km/h
  • 巡航速度:840 km/h
  • 通常航続距離:1,200 km
    • 増加燃料タンク装備:1,976 km
  • 上昇率:50 m/秒
  • 実用上昇限度:15,500 m
  • 武装
    • N-37D 37 mm機関砲(弾数40発)、NR-23KM 23 mm機関砲 ×2(弾数2×80発)
    • 増加タンク ×2、または100 kg/50 kg爆弾


採用国編集

 
Former operators of the MiG-15


脚注編集

  1. ^ エフィーム・ゴードン、ドミトリー・コミサロフ『Chinese Aircraft : China's Aviation Industry since 1951』Hikoki Publications、2008年 ISBN 978-1-902109-04-6. p.23

関連項目編集

外部リンク編集