1916年の創設時はスペイン国王のアルフォンソ13世 に因んでフンタ・ディレクティーバ・デル・アルフォンソ13世FBC (Junta Directiva del Alfonso XIII FBC)と命名されたが、1917年にはレアル・ソシエダ・アルフォンソ13世 (Real Sociedad Alfonso XIII)とクラブ名を変え、この名称は1931年に政治的な理由でクルブ・デポルティーボ・マジョルカ (Club Deportivo Mallorca)に改名するまで続いた。1949年には国王の庇護を受けてクラブ名にレアル(Real)の単語が冠され、現在のレアル・クルブ・デポルティーボ・マジョルカ (RCDマジョルカ)となった。
その歴史はバレアレス諸島 のサッカークラブで最も古く、1916年にエンジニアのアドルフォ・バスケスによって設立された。最初期に使用したスタジアムはブエノス・アイレス(Buenos Aires)と呼ばれ、同年3月25日にFCバルセロナ との間で行われた落成試合は0-8で敗れた。1931年にリーガ・エスパニョーラ に初参戦し、テルセーラ・ディビシオン (当時3部)でプレーした。1945年9月22日には新スタジアムのエス・フォルティ が落成した。1959年にはセグンダ・ディビシオン (2部)に初昇格し、1年後の1959-60シーズン終了後にはプリメーラ・ディビシオン (1部)初昇格を決めた。1970年代半ばまではプリメーラ・ディビシオンとセグンダ・ディビシオンを行ったり来たりしたが、1970年代後半にはテルセーラ・ディビシオンやセグンダ・ディビシオンB (現3部)に低迷した。
1990年代と2000年代の黄金期 編集
1990-91シーズン 、マジョルカはベスト8でバレンシアCF を、準決勝でスポルティング・デ・ヒホン を下してアトレティコ・マドリード とのコパ・デル・レイ 決勝に進出した。クラブとしては史上初めての決勝進出となったが、延長111分のアルフレド・サンタエレナ の決勝ゴールによってタイトル獲得を逃した[1] 。
1997年、クラブの監督にまだ欧州での指導経験が皆無だったアルゼンチン人のエクトル・クーペル を招聘した。クーペルは前年にアルゼンチンのCAラヌース でコパCONMEBOL 優勝を果たしていたことを買われての就任だった。就任1シーズン目のコパ・デル・レイでは、クラブ2度目となる決勝進出を果たしたものの、PK戦の末FCバルセロナ の前に敗戦し、またもメジャータイトルに手が届かなかった。リーグ戦では好調を維持し続け、5位でフィニッシュした。また、コパ準優勝により出場権を得たスーペルコパ・デ・エスパーニャ では因縁の相手バルセロナに2戦合計3-2で勝利し、クラブ創設以降初めてとなるメジャータイトルを獲得した[2] 。翌1998-99シーズン、バルセロナがリーグ戦とカップ戦の2冠を達成した影響を受け、リーグ戦5位だったマジョルカにUEFAカップウィナーズカップ 出場権が回ってきた。この大会では、KRCヘンク やチェルシーFC を下して決勝に進み、SSラツィオ との試合に臨んだ。7分にクリスティアン・ヴィエリ のゴールで失点するも、直後の11分にダニ・ガルシア のゴールで試合を振り出しに戻した。同点のまま試合終了と思われた81分、ラツィオの中心選手だったパベル・ネドベド のゴールを許し、1-2で敗戦を喫した[3] 。しかし、この1998-99シーズンはクーペルがラヌースから連れてきたカルロス・ロア がサモラ賞 を受賞したことや、クーペルが手がけた堅守がベースのチーム作りが功を奏し、史上最高成績となるリーグ戦3位という成績を収めた。1999-00シーズンはフェルナンド・バスケス 新体制でスタートしたものの、リーグ戦10位でシーズンを終えるなどクーペル期ほどの成功は見られなかった。2000年5月27日、すでにラ・リーガでの実績があったルイス・アラゴネス を新監督に据えたマジョルカは、サミュエル・エトオ などの活躍もあってリーグ戦で史上最高となる勝ち点73を稼いで一昨シーズンと同じくリーグ戦3位に輝いた。しかし、シーズン終了後にアラゴネスは、セグンダ に降格し低迷していた選手時代の古巣アトレティコ・マドリード に監督として復帰したため、マジョルカは13シーズンぶりに外国籍監督であるドイツ人のベルント・クラウス を招聘した。クラウスを迎えてのマジョルカだったが、リーグ序盤から勝ちきれない試合が多く、4月にトメウ・ジョンパール 、シーズン終了後にグレゴリオ・マンサーノ と監督交代が続く不安定な期間を送った。しかし、マンサーノはリーグ戦こそ不出来だったが、コパ・デル・レイ では優勝を飾った。2000年代後半はリーグ中位以下を彷徨うシーズンが10シーズン近く続き、2010年代を迎えた。また、この2000年代はクラブ初となる日本人プレーヤーが誕生した。2005年1月にセレッソ大阪 からマジョルカにやって来た大久保嘉人 である。デビュー戦は、当時ラ・リーガで上位争いをしていたデポルティーボ・ラ・コルーニャ 相手だったが、デビュー戦にして1ゴール1アシストという強烈なインパクトを残した。しかし、デポルティーボ戦以降は、その試合で膝に負った怪我の影響もあり、満足いく結果を残せず、2005-06シーズン終了後に日本へ帰国した[4] 。
2010年代 : 降格と復帰 編集
2012-13シーズン、リーグ最終節のバジャドリード 戦で4-2で勝利したものの、17位のセルタ に勝ち点1及ばず、リーグ最終節にしておよそ17シーズンぶりのセグンダ・ディビシオン 降格が決定した[5] 。セグンダ降格後のマジョルカは資金難に苦しんでおり、2015-16シーズンは満足いく補強が出来ずにいたため、セグンダ・ディビシオンB 降格の危機が迫っていた。2016年1月6日、NBA に所属するフェニックス・サンズ のオーナーでもあるユダヤ人実業家ロバート・サーヴァーがマジョルカの株式を購入し、正式にマジョルカのオーナーとなった。買い取り額は2000万ユーロと報じられ、株式保有者には元NBAプレーヤーでカナダ代表 選手だったスティーブ・ナッシュ らがいる[6] 。
2017年6月4日、リーグ戦1試合を残して1981年以来となるセグンダB降格が決定した[7] 。2017-18シーズン、新たにビセンテ・モレノ を招聘したマジョルカはセグンダ昇格を賭けたプレーオフでCFラージョ・マハダオンダ を下し、1シーズンでのセグンダ復帰を決めた[8] 。翌2018-19シーズンには続投したモレノ監督の下、躍進を続けて2部2位でシーズンを終えた。2位で終えたことでデポルティーボ・ラ・コルーニャ との昇格プレーオフに臨み、2戦合計3-2で2シーズン連続の昇格を成し遂げた[9] 。ラ・リーガ残留を目標に掲げて参戦した2019-20シーズンだったが、その願いも虚しくわずか1シーズンで再びセグンダへと降格した[10] 。2020-21シーズン、再びセグンダに降格したマジョルカはクラブの監督をルイス・ガルシア に据え、リーグ最終節にUDアルメリア がFCカルタヘナ に敗れたことで1シーズンでのラ・リーガ復帰を成功させた[11] 。
日本との関わり 編集
ユニフォームの変遷 編集
国内タイトル 編集
2002-03 1998 1959-60, 1964-65 1980-81
プリメーラ・ディビシオンでの最高位 : 3位(1998-99シーズン、2000-01シーズン)
プリメーラ・ディビシオンでの最大得点差勝利 : 7–1(2008年3月9日、ホームでのレクレアティーボ・ウェルバ 戦)
プリメーラ・ディビシオンでの最大得点差敗北 : 7–0(1988年2月7日、アウェーでのアトレティコ・マドリード 戦)
試合開始からの最短得点 : 22秒 - ダニ・ガルシア (1999年2月21日、レアル・オビエド 戦)
1シーズン最多得点 : 61得点(2000-01シーズン)
個人賞
過去の成績 編集
シーズン
ディビジョン
順位
国王杯
1931-32
テルセーラ
4位
1932-33
地域リーグ
—
1933-34
地域リーグ
—
1934-35
地域リーグ
—
1935-36
地域リーグ
—
1939-40
セグンダ
7位
1940-41
地域リーグ
—
1941-42
地域リーグ
—
1942-43
地域リーグ
—
1943-44
テルセーラ
1位
1944-45
セグンダ
11位
1945-46
セグンダ
8位
1946-47
セグンダ
5位
1947-48
セグンダ
13位
1948-49
テルセーラ
3位
1949-50
セグンダ
11位
1950-51
セグンダ
12位
1951-52
セグンダ
6位
1952-53
セグンダ
8位
1953-54
セグンダ
16位
シーズン
ディビジョン
順位
国王杯
2014-15
セグンダ
16位
2回戦敗退
2015-16
セグンダ
17位
2回戦敗退
2016-17
セグンダ
20位
3回戦敗退
2017-18
セグンダB
1位
2回戦敗退
2018-19
セグンダ
5位
ラウンド32
2019-20
プリメーラ
19位
ラウンド32
2020-21
セグンダ
2位
2回戦敗退
2021-22
プリメーラ
16位
ベスト8
2022-23
プリメーラ
現所属メンバー 編集
歴代所属選手 編集
外部リンク 編集