W★INGプロモーション

日本のプロレス団体

W★INGプロモーション(ウ★イング・プロモーション、レスリング・インターナショナル・ニュー・ジェネレーションズ・プロモーション)は、かつて存在した日本プロレス団体。W★INGプロモーションの前身である世界格闘技連合W★ING(せかいかくとうぎれんごうウ★イング)、旗揚げ予定だった世界格闘技連合WMA(せかいかくとうぎれんごうダブリュー・エム・エー)についても記述している。

歴史

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設立までの経緯

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1991年3月から5月にかけてFMWからミスター・ポーゴ、代表の大迫和義、ブッカーの茨城清志、レフェリーの川並政嗣、リングアナウンサーの大宝拓治CSPビクター・キニョネス大仁田厚との確執により退団。6月16日、キニョネスはCSPの日本支部的な位置付けとしてCSPJを設立。6月21日世界格闘技連合W★INGを設立。メンバーはポーゴ、徳田光輝柔道)、誠心会館齋藤彰俊空手)、S.A.W.木村浩一郎総合格闘技)、三宅綾鶴巻伸洋、S.A.W.の保坂秀樹、フリーの力王(総合格闘技)[注釈 1]8月7日後楽園ホールで旗揚げ戦を開催。徳田、齋藤、木村を「格闘三兄弟」と命名して3人を軸とした格闘技路線に加えて、茨城とキニョネスがブッキングした外国人選手によるデスマッチが絡む図式を展開していた[注釈 2]

分裂

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しかし、旗揚げ早々に分裂騒動が勃発して、かねてから経営不振に加えて茨城とキニョネスが招聘した外国人選手のギャラが嵩んだこと、格闘技主体を目指す大迫と川並、プロレス主体を目指す茨城と大宝による路線の対立が生じた。11月、大迫と川並は世界格闘技連合WMA、大迫に懲戒解雇された茨城と大宝はW★INGプロモーションを設立。大迫の動きに先んじて茨城はW★INGプロモーションの旗揚げ戦に1万ドルのギャラでミル・マスカラスの招聘を計画。世界格闘技連合W★ING選手会はW★INGプロモーションと世界格闘技連合WMAの、いずれかに参加するか二者択一を迫られて徳田と三宅がW★INGプロモーションに参加、世界格闘技連合WMAに参加を予定していた齋藤は新日本プロレス[注釈 3]、木村はリングスに参戦、協力を約束していたとされるキニョネスとポーゴはW★INGプロモーションに寝返り、世界格闘技連合WMAには鶴巻と保坂しか参加しなかった。12月10日、マスカラスを招聘して後楽園ホールでW★INGプロモーションの旗揚げ戦を開催。

1992年1月31日、世界格闘技連合WMAは旗揚げ戦を開催する前に解散となり、保坂はPWC、鶴巻はS.A.W.に入団、川並はW★INGプロモーションに参加、大迫はプロレス業界から身を引いた。

全盛期

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FMWを超える過激なデスマッチ路線へ進みコアなマニア層の支持を受けるようになった。2月7日、後楽園ホール大会で誠心会館の松永光弘(空手)がバルコニー席から6メートルのダイビングを見せて、人気が上昇して主軸であるデスマッチ路線のエースとして君臨[注釈 4]。世界格闘技連合W★INGから参戦した徳田、金村らと共にキニョネスが率いるユニット「プエルトリコ軍団」のポーゴらと過激なデスマッチで抗争を繰り広げた。その一方でキニョネスのラインからメキシコなどから参戦した選手によるジュニアヘビー級路線も並立して、所属選手では戸井マサル茂木正淑三浦博文がジュニアヘビー級路線の中心になっていた。また、1991年から1992年まで全日本女子プロレス所属選手による提供試合が行われていた[注釈 5]。大仁田が率いるFMWとは離脱の経緯もあり、過激なデスマッチによる興行戦争を繰り広げた。その中でもファイヤーデスマッチを巡る興行では、5月6日のFMWニチイ三田店駐車場特設会場大会で大仁田&ターザン後藤ザ・シーク&サブゥー戦で先手を打つ形で日本で初めて行って大きな話題になった。しかし、予想以上に炎の勢いが強すぎて選手が酸欠状態になり、シークが大火傷を負うなど試合は不成立になった。W★INGプロモーションはファイヤーデスマッチ危険性を逆手にとって宣伝として、8月2日船橋オートレース場駐車場特設会場大会でポーゴ対松永によるファイヤーデスマッチを強行して5千人近い観衆を集めた。FMWの失敗を受けて方法を見直してリングサイドにプロパンガスを使用した鉄板が置かれて、コーナーには花火を噴射する仕掛けに変更。リングサイドでの攻防ではポーゴが松永の右足を鉄板に押し付けるなど標榜していた「人間焼肉デスマッチ」の名の通りになった。さらに5月7日の後楽園ホール大会でポーゴ対ジェイソン・ザ・テリブルによる日本棺桶デスマッチ[注釈 6]12月20日戸田市スポーツセンター大会「旗揚げ1周年記念興行」で松永対レザーフェイスによる五寸釘デスマッチ[注釈 7]など過激なデスマッチ路線に拍車を掛けた。また、8月15日川崎市体育館大会でIWA世界ヘビー級王者のマスカラス、UWA世界ヘビー級王者エル・カネックによるダブルタイトルマッチが行われて結果は両者反則(レフェリーが両者に巻き込まれてダウン)で同時防衛に成功。試合終了後、観客からブーイングが起きた。12月31日京都大学西部講堂でプロレス界初の大晦日興行を開催。

外国人選手の招聘にも力を入れており、茨城とキニョネスのルートでマスカラスを筆頭にジプシー・ジョードス・カラスミゲル・ペレス・ジュニアザ・ヘッドハンターズを招聘。また、ジョーのルートでUSWAからビル・ダンディージャイアント・キマラ(初代)、エディ・ギルバート(ブギーマン)、トム・プリチャードザ・ムーンドッグスムーンドッグ・スパイク&ムーンドッグ・スプラット)、ダグ・ギルバート(フレディ・クルーガー)を招聘。マスカラス兄弟やカネック、ジョーをはじめ、ワフー・マクダニエルイワン・コロフディック・マードックマスクド・スーパースターなどビッグネームの招聘も実現させている。

放漫経営による崩壊

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過激なデスマッチと豪華な外国人選手路線で上昇ムードだったが、茨城の経営は放漫そのものであり度々問題を起こしていた。試合開始時間が予定よりも30分以上遅れるのが常態化していたのもさることながら、茨城によるギャラの未払いや借金の踏み倒しは有名で全試合終了後、駐車場で選手たちに詰め寄られている姿が専門誌に掲載されたほどである。

1993年、この様な経営状態もあってか1月に戸井、4月に三浦が退団、無断欠場を続けていた徳田が解雇、FMWの引き抜き工作によって7月にポーゴが退団、8月25日に松永が離脱、12月に島田宏が退団して選手層の薄さは明白となってフリーの邪道外道荒谷信孝、他団体所属選手などに依存せざる得なかった。一説には契約書すら存在していない状態だったと言われている。その様な中で10月31日小田原駅前旧市営球場大会で金村キンタロー&中牧昭二組対邪道&外道組によるスクランブルファイヤーデスマッチ[注釈 8]でセコンドの非道(邪道&外道組のセコンド)がリング中央で点火したところに邪道が金村にパワーボムを仕掛けて、その炎に背中を叩きつけられた金村は大火傷を負って3ヵ月半欠場すると、その傾向が顕著な形になった。代表的な例として12月2日駒沢オリンピック公園体育館大会「旗揚げ2周年記念興行」をIWA格闘志塾鶴見五郎)、PWC高野拳磁)、SPWF仲野信市、三浦、丸山昭一ホッパーキング)によるインディー団体(レスリングユニオンの加盟団体)の協力を得て開催。

1994年2月11日、後楽園ホール大会を最後にフリーでありながら主軸になっていた邪道と外道が離脱してマッチメイクにも苦慮するようになる。2月15日、後楽園ホール大会で金村対非道によるスクランブルハングハウスデスマッチ(金村が負ければ3ヶ月出場停止、非道が負ければ追放)が行われて敗れた非道は追放された。3月9日、後楽園ホール大会を最後に茂木が退団。3月13日アメニティトライアル多摩21大会直後、完全に金銭面で行き詰まった茨城が失踪する事態が起きて自然消滅の形で崩壊[注釈 9]。また、4月26日に後楽園ホール大会を開催する予定だったが茨城の失踪したため中止になった。4月8日、茨城と共に二人三脚体制で支えてきたキニョネスはIWAの日本支部的な位置付けとしてI.W.A.JAPANを設立して残された所属選手の救済に当たった。

名称及び分類

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世界格闘技連合W★ING
1991年8月7日後楽園ホールで旗揚げ戦を開催。11月19日、分裂騒動により解散。
W★INGプロモーション
1991年12月10日、後楽園ホールで旗揚げ戦を開催。1994年3月13日茨城清志の放漫経営により崩壊。W★INGが1番充実していた時期で「W★ING」と言えば、この時期を指す。
W★ING同盟
1994年9月7日FMW札幌中島スポーツセンター大会でミスター・ポーゴ松永光弘金村ゆきひろ保坂秀樹非道が結成したユニット(後に戸井マサル闘龍が加入)。10月9日、FMW東京テレシアター大会でW★ING同盟主催という形で復活興行を開催。しかし、FMW所属選手が参戦して元W★ING所属選手の何人かは参戦しなかったため、FMW枠内の興行という意味合いが強くW★ING同盟名義の興行とは別枠で考えられる場合が多い。1995年5月17日、FMW深谷市民体育館大会で金村がリングネームを「W★ING金村」に改名。大仁田厚が引退後の新生FMWとは一時期共闘関係にあった。10月、ポーゴが離脱。1996年3月、松永が離脱。1997年9月28日、FMW川崎球場大会で「W★ING」の名前を賭けて金村はFMWに復帰した大仁田と対戦して敗退。W★ING同盟は大仁田が率いるFMWの団体内団体「ZEN」に吸収されて金村はリングネームを「金村ゆきひろ」と再改名したため消滅。
2013年11月10日アパッチプロレス軍道頓堀アリーナ大会で金村が一夜限定で「W★ING金村」のリングネームを復活させて保坂とユニット「W★ING軍」を結成して、金村&保坂組(W★ING軍)対大仁田&黒田哲広組(FMW軍)によるノーロープ有刺鉄線デスマッチが行われた[1]
W★ING
1995年3月25日、茨城が復活させて東京テレシアターでECWからサンドマンジョニー・グランジロッコー・ロックを招聘して旗揚げ戦を開催。しかし、ECW所属選手に対抗できる日本人選手がいなかった[注釈 10]。その後、活動休止。
新生W★ING
1996年6月12日、茨城が復活させて後楽園ホールでFMWから中川浩二黒田哲広田中正人らが参戦して旗揚げ戦を開催。その後、活動休止。
真正W★ING
1997年6月26日、茨城が復活させて成田市体育館AAAからヘビー・メタルらを招聘してルチャリブレ主体による旗揚げ戦を開催。しかし、ルチャリブレをメインとしたことでデスマッチが組めなかった[注釈 11]。その後、活動休止。
新W★ING
2009年5月29日、茨城が復活させて新木場1stRING橋本友彦佐藤耕平らが参戦して旗揚げ戦を開催。その後、活動休止。
W★INGレディース
2013年9月23日アイスリボンの支援を受けて信州プロレスアリーナで女子プロレス主体による旗揚げ戦を開催[2]。その後、アイスリボンが関わっている信州ガールズプロレスリングとの兼ね合いもあって活動休止。

タイトル

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最終所属選手

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レギュラー参戦選手

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スタッフ

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レフェリー

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リングアナウンサー

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歴代所属選手

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来日外国人選手

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男子選手

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女子選手

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来日外国人関係者

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関連書籍

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脚注

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注釈

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  1. ^ ただし、力王は試合に出場することはなかった。
  2. ^ ただし、徳田光輝齋藤彰俊デスマッチに出場することもあった。
  3. ^ 齋藤は誠心会館所属で新日本プロレスとの団体対抗戦要員にリストアップされていて館長の青柳政司が世界格闘技連合WMAへの参加を認めなかった。
  4. ^ 松永光弘は誠心会館所属で新日本プロレスとの団体対抗戦要員にリストアップされていたがW★INGプロモーションへの参戦を選択。
  5. ^ 副産物として伊藤薫は同時期に参戦していたケビン・サリバンから得意技であったダイビングフットスタンプの指導を受けて自身の得意技にしている。
  6. ^ この試合で使用されたのは通常の葬儀で用いる和式の棺桶を黒色に塗装したものであった。
  7. ^ 五寸釘デスマッチ1978年2月8日に新日本プロレス日本武道館大会で行われたアントニオ猪木上田馬之助戦以来で、W★INGプロモーションの五寸釘デスマッチは猪木対上田戦と異なり、どちらかをリング下の五寸釘ボードへ落下させなければ決着が付かない方式として行われて松永が落下KO負けを喫した。
  8. ^ 前述のミスター・ポーゴ対松永戦で行われた鉄板と花火噴射方式ではなくリングサイドの周囲に松明を設置した方式で行われた。
  9. ^ DVD「W★ING最凶伝説シリーズ」に収録されたインタビューで茨城清志は失踪を否定している。
  10. ^ 日本人選手がECW所属選手と試合をしたのは三宅綾の1回だけだった(対戦相手はサンドマン)。
  11. ^ この頃にはW★INGプロモーションの悪評がアメリカ出身選手に伝わっており、アメリカ出身選手を招聘できなかった。
  12. ^ W★INGプロモーションが崩壊後、フリーとしてI.W.A.JAPANに参戦した馴染めず短期間で離脱後、FMWに参戦してポーゴ、松永、保坂秀樹非道とユニット「W★ING同盟」を結成。
  13. ^ ビクター・キニョネスが率いるユニット「プエルトリコ軍団」のメンバーとしてW★INGプロモーションに参戦していた。
  14. ^ W★INGプロモーションが崩壊後、I.W.A.JAPANに入団したが馴染めず短期間で退団後、WARに参戦して冬木弘道が率いるユニット「冬木軍」との結託を経て天龍源一郎が率いる正規軍に合流。
  15. ^ 1993年4月5日大和車体工業体育館大会で国内初試合が行われた。

出典

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  1. ^ 11/10(日) 道頓堀アリーナ 全対戦カード アパッチプロレス軍 GM 長谷川の人生100%(2013年10月23日)
  2. ^ 【参戦情報】アイスリボンから多数参戦! W★INGレディース発進!! アイスリボン公式サイト(2013年9月2日)