利用者:TEN会話 / 投稿記録 / 記録さん(以下、「被依頼者」とも)について、コメントを依頼いたします。

経緯 編集

TENさんは歴史分野を中心に専門的かつ質の高い編集を精力的に行われている利用者です。しかし、しばしば方針・ガイドラインに抵触する行為があるのではないかと考えています。

過去、依頼者は被依頼者との間で議論を行ったことがあります(ノート:高句麗語)が、そこでは被依頼者にいくつか問題点があったと考えています。その後に被依頼者が別の方々と議論を行っているノート:国家社会主義ドイツ労働者党Wikipedia:管理者伝言板/投稿ブロック#2021年8月11日 - 15日新規報告ノート:欠史八代利用者:TEN#「当該分野の非専門家のもの」とはなどでも、同様の問題が見られると考えたため、本コメント依頼を提出した次第です。

特に提出の直接のきっかけとなった直近の後3つについては一連のもので、経緯を以下に説明します。

利用者:Ahirudaisuki会話 / 投稿記録 / 記録さんが、日韓貿易紛争欠史八代朝鮮の歴史正定事件ミトロヒン文書宮澤俊義などにおいて、出典明記がなされている記述を除去する行為を繰り返し行っておりました([1][2][3][4][5][6][7][8]等々)。これについて、みしまるももさんが、「Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないの違反やWikipedia:投稿ブロックの方針#内容の無差別な除去に該当する。会話ページでTakabegさんにも再三注意されているが改まる気配がない。」として管理者伝言板で投稿ブロックを依頼し[9]、AhirudaisukiさんはBletillaさんにより「出典の恣意的除去」として1週間のブロックとなりました[10](後に伊佐坂安物さんからメール送信禁止・会話ページのブロックについてはブロック方針に反するとの指摘があり[11]、解除)。この処置について、TENさんは「出典がついているから削除してはならないということはなく、削除はその分野に照らして適当なもので、ブロックは不適切」と反論[12]しました。同時に朝鮮の歴史においてAhirudaisukiさんが除去した出典付記述の除去に加えて、他の出典付記述の除去も行いました[13]。これについて、みしまるももさんから疑問を呈されています[14]が、TENさんは「朝鮮半島全体を俯瞰する視点から記述に改めた」とのことです[15]

ノート:欠史八代#非実在説が「定説」という断定的な書き方についてでも、みしまるももさんからTENさんの編集・議論姿勢に疑問が呈されており、「誰?」タグの除去が「独断的」であり、議論での返信について「真正面から答えていない」との指摘もありました[16]。(後に不適切な表現について伊佐坂安物さんから指摘があり[17]、みしまるももさんによって、修正[18]、謝罪[19]されています。)

その後、TENさんはWikipedia:管理者伝言板/投稿ブロックにて、「Ahirudaisukiさんのブロック自体が一度取り消されるべき」として、ブロックの取り消しを要求しました[20]。これについては、みしまるももさんから「「非専門家のもの」という判断自体も、ウィキペディア執筆者それぞれによって考え方が定まるものではないので、やはり除去する前には、ノートなりで事前に告知や議論をし合意を取るなどするのが本筋」[21]と反駁されており、遡雨祈胡さんと伊佐坂安物さんから別の場所で議論するよう指摘されています[22][23]

一連の件を受けて、利用者:TEN#「当該分野の非専門家のもの」とはにおいて、みしまるももさんからTENさんに対して、出典の考え方についてコメントがありました[24]が、これについてTENさんは最後に「およそ誠実な行動ではありません」という文言を返しています[25]

以上をふまえ、依頼者は、以下の観点からTENさん(被依頼者)へのコメント依頼が必要と判断しました。

論点 編集

出典の恣意的除去・中立的観点
  • 被依頼者は非常に多くの文献に精通されていらっしゃるように見受けられます。それが故に、「独断での出典の恣意的除去」が見られます。上に挙げた朝鮮の歴史における編集[26]が典型的です。「出典がついているから削除してはならないということはない」[27]、「ある出典を追加する際には議論が必須のものとされないのに削除する時にだけ議論が必要だとは思いません。」[28]という発言をされています。これに対しては「除去する前には、ノートなりで事前に告知などするのが本筋」という意見[29]もあり、中立的な観点合意形成などに抵触する可能性が高いのではないかと依頼者は考えます。
  • かつて依頼者が被依頼者とノート:高句麗語で議論した際には、被依頼者は「最も”強調されるべき”は「わかっていない」ことである」[30]という中立的とは言いがたい前提で終始議論を進められており、被依頼者の「中立的観点」に対する理解に依頼者は疑問を抱いています。
腕づくでの解決・いつまでも納得しない
  • ノート:国家社会主義ドイツ労働者党において、(依頼者は議論に参加していないため詳しいことまでは踏み込めませんが、)多数決はWikipediaの綱領などに反するとして反対あるいは慎重な意見[31][32][33]が複数の方から出ている中で、被依頼者は多数決実施を押し通そうとされている様子[34][35]であり、「腕づくでの解決」を目指そうとしているように映ります。
  • ノート:高句麗語においては、依頼者の議論姿勢により多くの問題があったため、あまり申せる立場ではありませんが、自説を展開して妥協を図ろうとしなかった点で、被依頼者も「いつまでも納得しない」に該当していたと考えます。
合意形成
エチケット・礼儀・善意に取る
  • 被依頼者は意見が対立する論争者に対して「不誠実」[36]、「誠実な行動ではない」[37]などの言葉を用いることがあります。また、相手の行為やコメントに対して「何を目的としているのかわからない」[38]や「意味不明」[39][40]という言葉を用いたこともあります。また、「受け入れるつもりはありません」[41]といった言葉、相手に対して「この言葉を好んで使われていますが」[42]のような敬意に欠ける言葉遣いが散見されます。これらは Wikipedia:エチケットWikipedia:礼儀を忘れないWikipedia:善意に取る、などに抵触するのではないでしょうか。
過度な要求、不適切な場での議論
  • 経緯の節で書きましたように、被依頼者は、Ahirudaisukiさん1週間のブロックに反対し[43]、取り消しを要求しています[44]。ブロックについては、報告[45]に基づいて管理者が総合的に判断を行って決したものであり、それについて何度も異議を唱えるのは適切ではないと考えます。実際に異議に対する反駁もされており[46]、別の場所で議論すべきという指摘も出ています[47][48]。このような行為が続けば、コミュニティーが疲弊するものと考えます。


--ABCEdit会話) 2021年8月21日 (土) 03:12 (UTC) (脱字追記)--ABCEdit会話2021年8月21日 (土) 03:30 (UTC)[返信]

依頼者のコメント 編集

  私自身が被依頼者と大きく関わったノート:高句麗語では、被依頼者と全面的に意見が対立しました。その中で、私の議論姿勢に大きな問題があったため、私へのコメント依頼が提出され、私自身の問題点を認識させていただき、自らの姿勢を改める必要があると肝に銘じたところです。一方で、私は被依頼者の議論姿勢にも問題があったと感じております。その問題点が、他の議論においても散見されると感じたため、本コメント依頼を提出させていただきました。被依頼者はWikipediaにとって貴重な方だと考えているため、この期に問題点を改めていただくことを期待します。--ABCEdit会話2021年8月21日 (土) 03:12 (UTC)[返信]

  コメントいただきました方々、ありがとうございます。また、ご迷惑をお掛けしまして、申し訳ございません。他の利用者の行為について「何が問題か、何が問題でないか」という認識がまだまだ不十分であったと痛感しております。短時間のうちに、被依頼者について「問題なし」というご意見を複数いただいている状況であり、雪玉条項を適用して本依頼を終了します。--ABCEdit会話2021年8月21日 (土) 06:01 (UTC)[返信]

  コメント依頼の継続[49]につきまして、皆様がそれを希望されるのであれば、反対は致しません。私にいただいた問題点につきましては、改めて真摯に受け止め、反省いたします。今後はTENさんと関わりを持たないことと致します。(本コメント依頼でのコメントも、今後は求められた場合を除き、いたしません。)コミュニティを疲弊させてしまいましたことを改めてお詫び申しあげます。--ABCEdit会話2021年8月21日 (土) 14:28 (UTC)[返信]

被依頼者のコメント 編集

本コメント依頼を最初に一通り確認した時には既に依頼が一度閉じられていてタイミングを逃してしまったので、ABCEditさんが挙げられている件については改めて書くことはしません。皆さんのコメント自体は確認させていただいていますので、必要が生じた時に追記させていただこうと思います。対応いただきありがとうございます。一応、見ていることの確認コメントです。--TEN会話2021年8月22日 (日) 18:13 (UTC)[返信]

  コメント ノート:欠史八代の内容と重複する内容が多いのですが、整理にもなると思うのでLABEさんのコメントを受けて以下にまとめます

  • A 1993年の出典について:木下(1993)は欠史八代の「附加造作の時期に関する論攷はすでに多く、諸家の意見も大綱において一致してきている」と過去の議論を簡単に評しています。これが一昔前の物なのはその通りでしょう。しかし直木幸次郎(2015)は欠史八代が「架空の天皇である、というのは定説であろう。」と書いており、1993年から2015年にかけてそのような状態であれば、「現代の歴史学では」とまとめることに問題があるとは思いません。そして2000年代以降の日本史の概説書は基本的に欠史八代が実在しないことを前提に説明を行っており、上記の出典の文章が事実であることも確認できます。出典に木下 1993を付したのは確認した中ではこれが一番わかりやすくまとまっているからです。
  • B 1983年の出典について:前之園(1983)は先行研究を4類型に分類し、それぞれの論者について触れています。これはみしまるももさんが見つけてこられた出典ですが、これ自体はおかしな文献ではないです。私が問題だと認識しているのはこの出典の用い方です。欠史八代の冒頭部は「現代の歴史学ではこれらの天皇は実在せず後世になって創作された存在と考える見解が有力であるが、八代全部の実在を肯定する研究者や、八代の全てが創作ではないとみる『一部肯定説』的な研究者も複数いる。」となっています。しかし、ここで前之園氏によって実在説の論者として言及されている人々が出した論文・書籍を確認すると、坂本(1950)、庄司(1957)、鳥越(1970)、林家(1973)、そして田中(1979)となります。これらは明確に過去のものであり、かつAで述べた点から現在では明らかに支持者の少ない見解であることがわかります。まず「現在」から始まる文章の注釈における出典として不適当であるというのが私の指摘です。
  • C 1993の出典がが良いのに1983の出典が駄目なのはダブルスタンダードBを指摘した後、みしまるももさんは「以下のように書けば何も問題ないということでしょうか?」として本文を修正すれば良いのか、と言われたわけですが、私には記事の冒頭で半世紀前の情報に基づき、現時点では主流派ではない説の研究者を列挙して紹介する必要性が理解できません。いかに多くの実在説主張者がいたのかということを印象づける効果を持つもので、このような文章はWikipedia:中立的な観点#適当な重み付けの観点から適切ではないと考えます。そして前之園 1983は学説を分類しているだけで個々の学説の重要性について言及しているわけでもないのです。要するに問題なのは「以下の出典(引用注:前之園 1983)は、「信頼できる情報源」ですか? 『イエス』か『ノー』か」という話ではないですし、1993年の出典をあなたは使ったのだから1983年の出典を使用することに反対するのはダブルスタンダードであるというような話は私にとっては全くの没論理に映ります。
  • D 出典の否定Cと大体同じなのですが、この点についての私の問題認識は、出典が適切に用いられていない点であり出典を否定しているのではないです。そしてどのような理由で前之園 1983を引いて田中卓の名前を載せるのか、という点をお聞きしましたが、「第三者的言及の出典に、実在説派の一人として名前が明記されているのであれば、それを書くことはウィキペディアのルール上、何ら問題のないことだからです」というのが回答でした。私はこれは要するに出典があるのだから書いて良い、という趣旨であると理解しますが、記事はその記事の主題を説明するために何を書くべきなのかを考えるのが本筋なのであって、出典があればルール上書いて良いのだからそれを除去するのが越権行為であるというような話は記事自体の改善という観点から遊離していると思います。出典があったら文章は消せないというのは、文章や出典の適切な選別を妨げるという意味で非常に有害であり、ルール上消して良いか悪いかではなく説明上必要かどうかが重要だと考えています。
  • E 強権的:そもそも、タグを消したことをもって「強権的」は普通の表現ではないです。ノートにも書いた通り元版がわかりづらい文章なのは確かにその通りなので、「解釈の余地がない」としたのは読み返してみると不適切だったかもしれませんが、一番最初話しかけてこられた時から使用している「恣意的」を始めとしてなぜこのような不穏当な表現を好んで使用するのか理解に苦しむところです。別の箇所でも書きましたが、基本的にタグの追加が自由に行われるように削除も自由に行い、折り合わなければ議論すれば良いだけの話です。この文章の部分をみしまるももさんはタグが必要な問題だと思って追加し、私は不要であると思って削除した。削除の理由をノートで聞かれたので答え、その答えはみしまるももさんが納得するものではなかった。その後、みしまるももさんが自分が適切だと思う形に編集し、編集後の状態は私もより良い形になっていると思いますのでそれについて特にコメントもしていません。これが強権的という表現で言われるのは理不尽に感じます。
  • ノート:欠史八代の議論は相当細かくなってしまっていますが、「『強権的』、『それを強く否定し出典すらも禁止する』や『ダブルスタンダード』といった見解についてまとめると私の見解は上記の通りです。--TEN会話2021年8月25日 (水) 19:48 (UTC)[返信]
    • とりあえずみしまるももさんのコメントは見ましたが、このまとめは『強権的』、『それを強く否定し出典すらも禁止する』や『ダブルスタンダード』というみしまるももさんの主張について、それはおかしいという私の見解を示すためにノート:欠史八代に書いた私の意見を主に出典の取り扱いについてまとめたものですので、記事自体をどうすべきかの議論は記事のノートでさせていただきたいです。--TEN会話2021年8月26日 (木) 15:41 (UTC)[返信]

皆様のコメント 編集

  •   コメントWikipedia:コメント依頼/ABCEdit 20210411」関連の報復的なコメント依頼であり、依頼者による言いがかりとしか言えず、TENさんの主張や編集・議論姿勢に問題はないと考えます。Wikipedia:コメント依頼/ABCEdit 20210411でABCEditさんは謝罪の形をとりながら今回のコメント依頼と同様の主張をなされ([50])、この点について利用者:メリースさんから「謝罪の文中であっても自制できない」([51])、私から「結局のところTENさんに問題があるという主張に終止しており、反省・謝罪のお言葉も形だけのものという疑念が拭えません(中略)現状を鑑みるに、今後も同様の問題が発生するのではないかと思われ、次の段階に進んでも不思議ではないと考えます」([52])と問題点を指摘されたところでした。結果として、ABCEditさんは主張を全面的に撤回され、今後はコミュニティ疲弊をもたらさないようにご自身の問題点を改めるとお約束いただきました([53])。しかし今回このようなコメント依頼を提出され依然と同様の主張を繰り返されたことで、ABCEditさんのお言葉が形だけのものだったということがわかり非常に残念に思います。--伊佐坂安物会話/履歴2021年8月21日 (土) 03:31 (UTC)[返信]
  •   コメント 依頼者さまが論点として挙げられた最初の節「出典の恣意的除去・中立的観点」から、最初に問題点として挙げた朝鮮の歴史における編集ですが、被依頼者さまが要約欄に記している通り除去されて然るべきものでしょう。これを除去する前に議論をというのは(もちろん議論しても構わないのですが)、ちょっと筋が悪いなぁと思います。そして最初の最初でこの調子では、依頼者さまと被依頼者さまとの関わりを見れば報復的なコメント依頼と看做さざるを得ませんね。以後色々とひねり出した論点は、検証する気も起きません。--LudwigSKDiskussion/Beiträge2021年8月21日 (土) 05:02 (UTC)[返信]
  •   コメント 被依頼者に関しては、依頼者が些細なことを恣意的かつ大仰、あるいは杓子定規に取り上げているだけで、Wikipediaにとって有益な利用者です。是正が必要な深刻な問題はありません。利用者を対象としたコメント依頼の必要性も存在しません。個別の記事において、Wikipedia:完璧な記事を目指して取り組んで下さい。以上です。次に依頼者について、Wikipedia:投稿ブロック依頼/Wikinick777 20180819Wikipedia:コメント依頼/ABCEdit 20210411の時からしばし顕になっていたことですが、敵対心をこのような形で発露させることはもうお止め下さい。コメント依頼を無意味な挑発や言いがかりのために利用しないでください。丁寧な言葉遣いや理知的な言論、根拠を示す風を装いながら、「論点」として挙げられた内容は、実際には取るに足りない細かい部分のあげつらいや、相手が不利になるように状況を無視した取り上げ方や、他者の言葉を大きく取り上げて問題行動をしているかのように装うなどの牽強付会を行っているだけです。自覚的であるにしろ、無意識に敵意が表層に出たにしろ、単純な暴言や中傷よりもこのような見えづらく周到な敵対心はコミュニティに重大な負担を招く悪質な行為だと理解しなければなりません。しかも、そのような自制が効かない振る舞いは上記のコメント依頼、ブロック依頼、そしてWikipedia:投稿ブロック依頼/ABCEdit 20181014で指摘され、自ら反省を示された内容ではありませんか。自分自身の言葉を蔑ろにしてはいけません。--Sikemoku会話2021年8月21日 (土) 05:29 (UTC)[返信]
  •   コメント 雪玉とのことで依頼者より終了宣言がなされましたが、せっかくなので(他所でこの話題を続けるのもあれなので)私からも申し上げます。さるコメント依頼からおよそ4ヶ月、各位におかれましてはいかがお過ごしでしたか。「報復的なコメント依頼」との指摘もありますが、ABCEditさんに対する前回のコメント依頼を提出したのは私であり、TENさんが報復を受けているとすれば甚だ理不尽なことであり、私が粗探しをされるほど活動的な利用者でないためにTENさんが代わってその矛先になったのだとしたら極めて遺憾なことであります。といいますのも、私が調べた範囲では、前回のコメント依頼のあとABCEditさんはTENさんと何らの議論もおこなっておらず(本依頼提出の1分前に本依頼にもある内容を指摘したもの[54]を除く)、ABCEditさんは上に挙げられた各議論においては一貫して部外者だったであろうにもかかわらず、同議論の当事者がいずれも必要と判断していないコメント依頼を提出したからです。これはすなわち、ABCEditさんは当事者間での解決を目指すのではなく、不必要なコメント依頼によりコミュニティ全体に負担を強いたおそれがあることを意味します。また、確かに前回のコメント依頼においてABCEditさんのTENさんに対する問題意識(これが妥当なものか否かは別として)は、ABCEditさんによる「反省」(指摘された問題を継続しないこと)の中に含まれていなかったかもしれませんが、とはいえそのような考えを今後も持ち続け、事あるごとにこのようなコメント依頼に及ぶのであれば、コミュニティを疲弊させることは間違いないでしょう。つきましては、ABCEditさんには今後TENさんに対しコメント依頼を含む一切の問題提起を放棄なさるとともに、その他一般的な議論においてもTENさんには可能な限り(あるいは自制できないなら一切)関わらないことを求めます。さもなければ、前回のコメント依頼において私が述べた「いずれにせよ、万が一にも再び問題を起こすことになれば、次にあなたを待つのはコメント依頼ではなく投稿ブロック依頼でしょう。」が現実のものとなるでしょう。--LABE会話2021年8月21日 (土) 07:31 (UTC)[返信]
  •   コメントノート:高句麗語」「Wikipedia:コメント依頼/ABCEdit 20210411」に参加した者です。この文面を執筆中に依頼が終了されましたけれども、本件依頼、特に依頼者についての私の所感をここにコメントいたします。他者の議論姿勢について疑問に思うところがあれば、まずは会話ページなどで問うのが筋ではないでしょうか。依頼者がコメント依頼に先立って対話なさったのは、提案1分前にAhirudaisukiさん関連事案について言及した他に、何かございますか(その冒頭が「お久しぶりです。」なので、本当に久しぶりなのでしょう)。1分前ではなお寝耳に水であり、私には「依頼者から被依頼者への対話の意思」を感じることができません。高句麗語の件について、私は解決済みと受け取っていますが、依頼者はまだ言い足りなかったのでしょうか。4か月も経っているのですから、この件についてはいい加減に納得していただきたく思います。もしまだ納得できないのであれば、このような依頼に走るのではなく、この件について忘れるように努めるのがお互いのためです。そのためには、当面の間はTENさんの編集履歴を見ることなどもなさるべきではないでしょう。--メリース会話) 2021年8月21日 (土) 07:51 (UTC)(第2文から1文字を除去しました。失礼しました。--メリース会話2021年8月21日 (土) 09:46 (UTC)[返信]
  •   コメント2018年の議論でABCEdit氏を批判したものですが、一部誤解されているので、そこを含めてコメントいたします。「Wikipedia:投稿ブロック依頼/ABCEdit 20181014」で、ABCEdit氏は糾弾されて、それを受けて反省の弁を述べたとされていますが事実として誤解があります。ABCEdit氏は反省を装ってなおも相手を糾弾したり、自分が元々問題だと思う人物には予断(隔意)を持って当たることをまったく悪びれずに、むしろ肯定的に語ったので、私は批判したのです(順序が逆なのです)。その私の批判に対してABCEdit氏は今まで一切、反省の言葉などしておりません。最終的にはmiya氏がブロックせずで閉じられましたが、その後、miya氏はABCEdit氏の会話ページの方で、「ブロックにはしなかったが問題が無かったことは意味せず、特にEULEさんのコメントを読んで下さい(要約)」と述べられましたが、それへの対応は、即時の過去ログ化です。
    既に指摘がある通り、今回のABCEdit氏の問題行動というのは、かつて私が指摘した通りものですが、しかし、別にこの指摘に対してABCEdit氏が反省の弁を述べたという事実はまったくありません。当時の批判を無視して、問題行動を繰り返している、というのが正しい表現です。--EULE会話2021年8月21日 (土) 11:03 (UTC)[返信]
  コメント このコメント依頼自体が問題視され、あまり機能していないようですが、私とTENさんとの関わりのことが書かれてあるので、その時に感じたTENさんへの印象などをこちらにも一応コメントしておきます。依頼者さんとTENさんとの関わりは私の知らない場所でのことなので、他の方々のようにそれについてのコメントはできません。
  • TENさんと私とは、Ahirudaisukiさんの行為についての見解の相違があり、その後のTENさんの編集などへの疑問点もあり、ノート:欠史八代利用者‐会話:TEN#「当該分野の非専門家のもの」とはなどで直接対話いたしましたが、私のTENさんに対する違和感は、[55][56]で述べたことが大体の主旨でございます。
  • 私はこれまでTENさんのことを存じ上げませんでしたが、歴史分野にお詳しいとのことで、TENさんのテリトリーに出張って大幅加筆をしようなど酔狂なことは思っておりませんが、たまたま以上のような接点があり、欠史八代の記事においてのTENさんの編集で疑問に思ったことや、元々書かれていた記述の中の悪文が気になったりし、ノートでいろいろと疑問点をぶつけてみました。
  • その結果、私にはTENさんのいう「当該分野の非専門家のもの」の「専門家」の基準が、何かちょっと偏狭的に思え、TENさんの認めない研究者は、すなわち「信頼できない情報源」になってしまい、絶対に許さないみたいな感じが、ちょっと強権的というか、ああいう論調は何というか、とても特異な感じがしました。
  • もちろん記事はきちんとした専門家の出典で構成されることは前提なことは基本ではありますが、TENさんの「専門家」の基準や選別は、学界の主流派だけしか認めず、戦後に少数派になっている実在説の研究者については、歴史学者であっても、TENさんの解釈の理由で結局は「在野」あるいは「信頼できる情報源ではない」というふうに断定付けられ、「非実在説が主流であるが、実在説も複数いる。[注釈]」という主旨の文脈の「注釈」内に、実在説の研究者の事例として田中卓の名前すらも挙げてはいけない、というTENさんの論調は、正直いって何というか言葉ではうまく表現できませんが、怖かったです。ああいう論調の進め方や相手の一言一言への細かな反論の方式では、合意以前にたいていの利用者さんは怖くて異論すら挟めないだろうな、と思いました。
  • 「〈論説〉「欠史八代」について (上)」という、様々な説があることをイントロダクションで紹介しているこの論文([57])でも、実在説派として田中卓の名が挙がっているので、私としては「注釈」内で実在説派の一人として名前くらいあってもいいのでは? と思うのですが、結局は「注釈」で名前すら挙げるも絶対禁止みたいな方向で、「これらから判断して実在説を論じた研究者の代表例として置くべきとは思えません」というTENさんの結論でした。もう私が何を反論しようが、名前は絶対に載せないという結果ありきな感じです。
  • こうした説の分かれている事案については、主流が優勢として構成されていくのはそれはそうでしょうが、非実在説が主流の学説だから、それ以外はダメみたいなシャットアウトで、一応は歴史学者である人物でも切り捨て、「注釈」で名前すら挙げてはいけないというのは、どうなのかなと思います。たぶん、これからTENさんの改稿によって、TENさんが「在野」とする研究者の出典や記述、実在説の論の大部分は除去され、歴史学者であっても「専門家」ではないとされた研究者の名前も記事から抹消されるのでしょう。はたして、それで真の意味で「欠史八代」というものを巡る背景や、いろいろな論争を網羅した中立的で正確な記事になるのか、私には疑問に思います(余計なお世話ですが)。--みしまるもも会話) 2021年8月21日 (土) 13:01 (UTC) 微修正--みしまるもも会話2021年8月21日 (土) 13:11 (UTC)[返信]
  •   報告 依頼者による終了宣言の後、私だけでなく複数のコメントが寄せられているため、引き続きコメントが寄せられる可能性があると考え、念のためコメント依頼に再掲いたしました。少なくとも雪玉案件と判断するのは早計ではないでしょうか。--LABE会話2021年8月21日 (土) 13:26 (UTC)[返信]
なお、ノート:欠史八代ですが、TENさんから編集意図についてすでに十分な説明があったと考えます。その中で、今後まだ加筆修正をかけたいとの意向を示しておられますから、私なら疑義を呈するのはそれが終わってからにしますね。どちらかといえば、全容を把握しないうちから相手の言っていないことを膨らまして非難し、「強権的」とか「怖い」とかよくわからない理由で他者の編集を邪魔するみしまるももさんの方が怖いです。--みっち会話2021年8月22日 (日) 04:43 (UTC)[返信]
(みっちさんへ)「邪魔」とはどういうことでしょうか。記事内に意味が通らないおかしな内容の文章があることに気づいたり、日本古代史の歴史学者の名前が突然と除去されたりするのに疑問を持ったら、その疑問点をノートで訊ねることは、どんな利用者でも行なってよいことです。私は、ここの意味不明な段落に「誰」「要検証」タグを貼って注意喚起をしておきましたが([58])、その後のTENさんの編集の中で黙ってタグが消されてしまったため([59])、「ノート:欠史八代#「誰?」タグを外された部分について」で改めて問題提起しました。「そのような天皇」=「孝元天皇」だと意味が通らないので、「意富比垝」を派遣した「崇神天皇」のことを指しているのかなと様々考えましたが、よく分からないおかしな内容の文章でした。タグをお外しになったことへのTENさんの回答は、「問題がなければ消すべきもの」という、問題がないというだけの認識だけでした。私の使用法が適切でなかった「誰」タグへの批判は分かりますが、「要検証」まで除去しているのに、その検証する問題がないとする内容の意味するところについては何の論理的な解答はありませんでした。TENさんご自身が説明不能なのに、なぜ「問題」がないとするのか、私には理解できない不誠実な対応でしたので、俺様が問題がないと言ったら問題がないんだみたいに強権的に思えたのです。仕方がないので、私自身が出典を取り寄せて内容を検証すると、出典内容とは違うデタラメで雑なものだったことが判明しました([60])。これでも、私の行為をただの「邪魔」なものだとするだけなら、私はみっちさんの見識を疑います。--みしまるもも会話) 2021年8月23日 (月) 02:44 (UTC) 補記--みしまるもも会話2021年8月23日 (月) 02:54 (UTC)[返信]
相手の編集意図を見届けるつもりがあるなら、まずは口を挟まず編集に集中してもらうように計らうものでしょう。ましてや、扱う文脈によって変わってくる文献の信頼性について、部分だけ取り出して「なる」か「ならない」で答えろなどという愚問を繰り返すことはしません。みしまるももさんにはその自覚がないばかりか、ご自分が理解できないことは不誠実で強権的だと判断されることがここで判明しています。私は、そろそろ危うい領域に入り込んでいると思えたので、ここで注意喚起させていただきましたが、それを容れるか容れないかの選択は、もちろんあなたのものです。私の見識などはどうでもいいので、お好きに疑ってください。--みっち会話2021年8月23日 (月) 10:02 (UTC)[返信]
(みっちさんへ)こんにちは。私が理解できないことが、不誠実で強権的なの、なのではありません。
明らかに「要検証」を必要としたおかしな内容の段落に対し、問題がない、と頭ごなしに退けたTENさんの行為自体のことを強権的だと言ったのです。あのような拒絶の理不尽さは、記事内容を良くしようと、意味不明な内容の段落をお知らせしようとする誰にとっても強権的だと思います。
「信頼できる情報源」に関しては、先学の諸説を解説した出典中の学者名を、その出典に沿い記述し、1983年の研究資料中に挙げられたものとして本文中に明記しても、TENさんはそれを強く否定し出典すらも禁止する一方で、TENさんご自身は定義文のところで1993年の出典を使用し、「現代の歴史学ではこれらの天皇は実在せず後世になって創作された存在と考える見解が有力であるが[4]」と書いていることや、非実在説者の張本人が書いた自説の出典で、「(非実在説が)概ね定説として受け入れられている[4][5]。」と書いていることに対しては是とする二面性・ダブルスタンダード性を強権的だと言っているのです。それだけは言いたいのでコメントさせていただきました。--みしまるもも会話) 2021年8月25日 (水) 03:09 (UTC) 微修正--みしまるもも会話) 2021年8月25日 (水) 04:19 (UTC) 修正--みしまるもも会話2021年8月25日 (水) 08:18 (UTC)[返信]
  •   コメント みしまるももさんによるTENさんへの指摘には感情的な部分が散見されることは私も感じます。しかし、私は当該分野に明るくはないため、各論の出典を精査してどちらの言い分が妥当であるか正確に判断するのが難しいことは否めません。つきましては、みしまるももさんが言う「強権的」「それを強く否定し出典すらも禁止する」や「ダブルスタンダード」といった見解について、それが事実であるかTENさんのご意見を伺いたいです。--LABE会話2021年8月25日 (水) 10:09 (UTC)[返信]

被依頼者TENさんのコメントを受けての、みしまるもものコメント 編集

  • TENさんどうもありがとうございます。ここでTENさんが順序立てて述べていただいたことに関してはTENさんのご意見として認知しておりますが、「欠史八代」記事の全体を見る際、その「非実在説」「実在説」など、これまでに諸説を説いてきた学者らにどのような人がいたのか?、という事例として、「論の変遷」みたいな節など、どこかに書くこと自体は、私は問題のないことだと思っております(一般の人が知りたい情報だと思います)。私も今まで作家記事や作品記事を多く執筆してきましたが、例えば、三島作品への様々な論を唱えた学者らを時系列に紹介するように書いております。時を経て、当初の論が後発の研究者により否定的に論じられたり、あまり取り上げられなくなったりしている場合などもありますが、現在まで公式に三島論者として論を張っていた方々は、なるべく網羅するようにしております。
  • 実在説派の名前に関し、私はTENさんの年次の明確性のご指摘を受け、第三者的言及の前之園 の資料(1983年)を参考に、以下のように書きました。それについてTENさんは、文末の「いる」がダメだということをおっしゃいました。「挙げられている」という書き方は過去の資料を語る際でも、日本語的に全く問題ないことですが、そのようにおっしゃるならば、「挙げられていた」で補正するのは、私としては何ら拒絶もしておりません。
これまで、八代全部の実在を肯定する研究者や、八代の全てが創作ではないとみる「一部肯定説」的な研究者も複数存在した[3]。例えば、1983年の研究資料中には、八代全部の実在を肯定する研究者では、坂本太郎や、鳥越憲三郎林屋辰三郎田中卓の名が挙げられており[3]、一部を肯定する研究者には、上田正昭黛弘道の名が挙げられている[3]。
  • TENさんは、その「挙げられている」への懸念と同時に、「今現在の研究状況を中心に記述するのは当たり前のことです。より新しいまとめがあるのに1983年ベースの状況を説明する理由がありませんし、実態以上に実在説を強調するような書き方が不適切だ」とおっしゃっていましたが、私は「実態以上に実在説を強調する」意図など毛頭なく、冒頭の定義文内に書くことにこだわっているわけでもありません。TENさんが除去編集する前に、そこの「注釈」内に実在説派の名が挙げられていたので、それに準じていただけで、その場所が不適当であれば、場所を変えて編集し直すということでもいいのです。上でも申し上げましたが、過去に挙げられた先学の中の一例として、この記事内のどこかで説明すること自体は、ウィキペディアの記事「欠史八代」を客観的・鳥瞰的・時間経過的に見る上で、逆に必要なことではないかなと思っております。
  • あと、TENさんがおっしゃる「出典があったら文章は消せないというのは、文章や出典の適切な選別を妨げるという意味で非常に有害であり」の中の、「適切な選別を妨げるという意味で非常に有害」というのは、日本語の意味的に少し分かりにくいのですが、「適切な選別」と言っても、誰がどういう意図を持って「適切な選別」するかは分からず、偏向的な意図を持って除去する可能性(独自研究的な選別)が秘められている場合もあると思うので、その記述自体がきちんとした第三者的言及のものであるのなら、本来ならば、一ウィキペディア編集者が「選別」除去するのではなくて、その記述に対する反証なりを、「出典付き」で新たに補記するのが、本筋ではないかと私は思うのです。例えば、過去の実在説派が今はほとんど無視されていることが本当に事実なのであれば、そういう状況を新たに「第三者的言及の出典」付きで説明を書き加えればいいのであります。
  • なお、「現代の……」に関しては昨日から、「Wikipedia:井戸端/subj/出典における「当該分野の非専門家のもの」と、文脈における「信頼できる情報源」の判断について」で広く皆様のご意見を募っております。私自身は自分の執筆記事内で編集する場合、「現代の文学界では…」みたいに書いて1993年の出典を付けることには抵抗があります。--みしまるもも会話) 2021年8月26日 (木) 02:52 (UTC) 補記--みしまるもも会話2021年8月26日 (木) 06:03 (UTC)[返信]
  •   コメント 初めてまして。「選別除去」について批判されていますが、Wikipedia:中立的な観点の、「適当な重み付け」節をもう一度ご覧ください。単に両論併記をしただけでは、記事を閲覧した人は対立する2つの観点のどちらも権威のある観点であると受け止めてしまいます。もし、片方の観点が正確性を疑われているものであったり、極端な例としては陰謀論の類であったりした場合は、読者に不正確な/誤った印象をウィキペディアが与えてしまったことになります。そうなることを避けるために、ウィキペディアの記事ではそれぞれの意見に適当な重み付けを行い、信頼できる情報源で広く支持されている意見はより確からしいものとして、支持が弱い/そもそも信頼できる情報源が存在しない意見は正しくない可能性がある/誤りであるものとして取り上げなければなりません。その過程で、より信頼できる情報源から支持されている意見の記述量を増やし、支持の弱い意見の記述をバッサリとカットしなければいけないこともあります。(例えば、現在の研究動向において、江戸しぐさ実在説などは例え出典が存在していたとしても大半または全てを除去するべきであることは納得していただけると思います。)
みしまるももさんの、「「適切な選別」と言っても、誰がどういう意図を持って「適切な選別」するかは分からず、偏向的な意図を持って除去する可能性(独自研究的な選別)が秘められている場合もあると思う」というのはまさにその通りで、「適切な選択」は編集者が当該分野の深い理解を有し、良識を兼ね備えていなければ偏向の元になることがあります。しかし、「適切な選択」を行わなくても記事は偏向してしまいます。欠史八代の実在説を、非実在説に対してどれだけ権威のある意見として取り上げるのかどうかについては、最新の研究動向を踏まえた上で議論があってもいいと思いますが、選別除去自体を批判することは違うと思います。--Sasuyan会話2021年8月27日 (金) 16:59 (UTC)[返信]

まとめ 編集

本依頼におけるコメントは長らく行われておらず、意見は出尽くしたものと考えられるため、また依頼者のABCEditさんはウィキブレイク中(かつ投稿ブロック依頼中)であり、本依頼はいったん取り下げられたものを私の責任において再掲したものであるため、遅くなりましたが依頼者に代わって私がまとめを行いたいと思います。

  • 被依頼者のTENさんに対して指摘された各論点を問題とする意見は少数にとどまっており、被依頼者の編集・議論姿勢に特段の問題はなかったといえるでしょう。
  • むしろ依頼者のABCEditさんに問題があるとの意見が多く示されており、投稿ブロック依頼(Wikipedia:投稿ブロック依頼/ABCEdit 3回目)が提出され、審議中です。なお、現時点で無期限ブロックを求める意見が多数となっております。ABCEditさんご本人もそれらの意見を受け入れておられるようです。
  • 本依頼において盛んに被依頼者の問題点を指摘なさっていたみしまるももさんに関するコメント依頼(Wikipedia:コメント依頼/みしまるもも 20210826)が提出され、進行中です(こちらも停滞しています)。
  • なお、さらに関連する議論として、本依頼でも挙げられているAhirudaisukiさんに対する投稿ブロック措置を実施した、管理者のBletillaさんの説明責任を問うコメント依頼(Wikipedia:コメント依頼/Bletilla)が9月19日に提出されています。

以上をもってまとめとし、本依頼を終了いたします。コメントをお寄せくださった皆様、ありがとうございました。--LABE会話2021年9月23日 (木) 11:24 (UTC)[返信]