Wikipedia:井戸端/subj/小説における著作物名の表記の『』と「」の区別の仕方について

小説における著作物名の表記の『』と「」の区別の仕方について 編集

現在、表記ガイドの著作物のところに以下のような指針がありますが、このガイドの解釈について、多くの方に広くご意見をお伺いしたいと思います。

比較的長大な作品あるいは作品群(書名・雑誌名・交響曲などの曲名・組曲などの名称・CDなどのアルバム名・映画名・戯曲名・テレビの番組名・イベント名・大会名など)は、和文では『 』で囲み、欧文では(入力を''……''として)イタリック体にします。
例: 『海辺のカフカ』・『動物の謝肉祭』・Yesterday ... and Today・『ローマの休日』・『報道ステーション』
比較的短小な作品や作品群に含まれる単一の作品(論文名・書中の章名・短詩の名・交響曲などの楽章名・組曲中の曲名・CDなどのシングル名・シングルやアルバム中の曲名・テレビの企画名・話名など)は、和文では「 」、欧文では、英文における “...” または各言語においてそれに相当する括弧で囲みます。
例: Nature “Molecular Structure of Nucleic Acids”・『展覧会の絵』「プロムナード」・Yesterday ... and Today “Yesterday”・『古畑任三郎』「ラストダンス」
書名、雑誌名、CDアルバム名、映画名、テレビ番組名、コンピューターゲーム名では、日本語のタイトルは『』で囲みます。欧文のタイトルは''弱い強調)で囲みます。(例:夏目漱石『坊っちゃん』(岩波文庫))
上記以外の作品のタイトル(雑誌等所収の記事・論文名、短編集や全集等に収録の小説・詩・エッセイ等の題名、CDシングル名、シリーズ名など)では、日本語のタイトルは「」で囲みます。(例:夏目漱石「坊っちゃん」(春陽堂刊『鶉籠』収録))

以上の表記ガイドによりますと、長編小説『坊ちゃん』でも、全集や作品集に収録されている場合の説明内においては「坊ちゃん」となり、その意味では、長編小説だろうが短編小説だろうが、全集や作品集の収録が示される説明内において同格になります。これは「長編小説と短編小説の関係性が、楽曲におけるアルバムとシングルの関係性と同じでない」ということが明らかに示されており、現に長編だろうが短編だろうが、作者がその都度、単独で個別に独立発表する一個の作品です。そして、短編小説といっても小説ですから、ある程度の分量があり、その中には(一)(二)などの「章」も存在しており、「章名」が付いている場合も結構あります。また、単独で単行本になっている短編小説もあります。

短編小説は、『伊豆の踊子』『火垂るの墓』などをはじめ、映画の原作になっているものも無数にあります。ちなみに、上記のガイドによれば、戯曲名や映画名は『』で表記されることになってますが、日本の戯曲は長編小説のような長さのものは少なく、短編小説くらいの長さが多いです。そして、そのような長さの戯曲や、短編映画が「」で表記されるというガイドにもなっていないようです(オムニバス映画の個々の作品が「」で示されるのは別として)。なので、短編小説であろうが、長編と同じように独立発表されている同格の単独作品ですので、それを単独で説明記述する際には、『』で表記するのが当然だと私は思っています。

しかし、利用者:新続頭痛さん(利用者:頭痛さんと同一人物)は、私とは違った「表記ガイド」の捉え方をし、短編小説はあくまでも「」で表記しなければいけないという主張をなさり、ノート:坂口安吾坂口安吾においても、長編小説は『』で表記するが、短編小説は絶対にどんな時でも「」で表記しなくてならないという姿勢を崩さず、それに固執しています。私は、坂口安吾の記事本文において出てくる、「カストリを飲む会」「堕ちきること」「推理を楽しむ小説」「パズルを解くゲーム」などの文言と、著作物(作品名)の「」と『』が入り混じった表記の版が、予備知識のない人が読んだ際に非常に解りにくく混同されやすくなっていたので、著作物名をいったん『』に統一して修正しましたが、新続頭痛さんはそれを有無を言わさずに全て巻き戻して、表記の基準がまばらで、ごちゃごちゃに混在していた版に巻き戻してしまいました。その後、頭痛さんはそこに修正を加えましたが、書き下ろしの中編小説(ほぼ長編に近い小説)まで「」表記にしており、何の一貫性もない表記にしています。

それから、例えば坂口安吾の代表作の列記する際も、

「風博士」(1931年)

「堕落論」(1946年、評論)
「白痴」(1946年)
「桜の森の満開の下」(1947年)

『不連続殺人事件』(1947年)

というふうに、同じように単独で発表された文学作品にもかかわらず、ただ単に作品の「長さ」(表面的な長編・中編・短編の便宜的なジャンル分け)だけで、長編は『』、それ以外は「」というような、機械的なおかしな表記を押しつけています。文学作品は、長編小説でも書籍化されていない作品もあったり、短編小説でも単独で書籍になっていたりと様々です。また、短編だろうが中編だろうが長編だろうが全部、作者がその都度、個別に単独発表していく作品ですので、短編小説や中編小説は、歌手がアルバムを制作する際の、収録楽曲やシングルカット曲のような関係性のものではありえません。同じ作家の代表作品なのに、それを説明する記述において、長編小説は『』、短編小説は「」で表記しなければいけないなどという基準はとてもおかしいと思うので、上記の「著作物の表記ガイド」が、本当に利用者:新続頭痛さんの主張なさっているような性質のものなのか、広く皆さんにご意見、ご感想を募りたいと思います。--みしまるもも会話2014年4月10日 (木) 02:56 (UTC)[返信]

Wikipedia:出典を明記する#書誌情報の書き方(和書)では、「単行本は二重かぎ括弧(『 』)で囲む。」「雑誌論文名は一重かぎ括弧(「 」)で囲む。」「論文が所収されている雑誌や書籍は、二重かぎ括弧(『 』)とする。」となっていますので、私も「長編小説は『』、短編小説は「」で表記しなければいけないなどという基準はとてもおかしい」と思います。--free spirit会話2014年4月10日 (木) 11:51 (UTC)[返信]

  小説のタイトルを単独で表記する場合については、ガイドラインに明記されてないようですね。そもそも、「長編小説は『』、短編小説は「」で表記しなければいけない」なんて現実的に無理でしょう。「長編小説」と「短編小説」ってどこで線引きするんですかね?ガイドラインの記述にそう解釈できる余地があるのなら、文面を改正すべきだと思います。--uaa会話2014年4月10日 (木) 12:20 (UTC)[返信]

日本の慣習として、作品は新聞や雑誌に最初に発表され、その後単行本になるのが普通です。ですから、長編小説でも新聞や雑誌に掲載された作品名としては「」でくくり、単行本が初出(書下ろし)のときは『』でくくるというのが、ガイドラインの趣旨だと理解していましたが。いかがでしょう。 --ねこぱんだ会話2014年4月10日 (木) 15:04 (UTC)[返信]
  • free spiritさんのご説明と、利用者:新続頭痛さんの解釈を総合して考えると、複数の短編小説がまとまって例えば『芥川龍之介短編集』みたいになっていたら、論文が複数所収されている書籍同様、タイトル(芥川龍之介短編集)は『』で収蔵作品が「」(「羅生門」「あばばばば」ほか)ということではないでしょうか。しかし、短編小説であっても収蔵作品としてではなくそれ自体単独で出されていたならば『』で表記するのが正しいと思います。ですから、単独作品か収蔵作品かという区別が必要なんではないでしょうか。--MEGEVAND (会話) 2014年4月10日 (木) 15:28 (UTC) (加筆 --MEGEVAND (会話) 2014年4月10日 (木) 15:37 (UTC))[返信]
  • 上記コメントが中途半端になりました。で、説明・文脈のなかで「収蔵作品」かどうかが分かれば「」で、収蔵する作品が『』となっていたらいいのではないでしょうか?例えば、、、、雑誌『文体』12月号に『閑山』、翌年2月に『紫大納言』、、、というのはみしまるももさんのスタイルですが、これは文脈として2作品が雑誌『文体』の中の収蔵作品であることが明らかなので、、、、雑誌『文体』12月号に「閑山」、翌年2月に「紫大納言」という頭痛さんのスタイルで問題ないと思います。その他のものは全部見ていませんが、だいたいこういう考え方で良いのではないかと思いますが、如何でしょうか。--MEGEVAND (会話) 2014年4月10日 (木) 15:52 (UTC)[返信]

ねこぱんださんがご紹介くださったように、雑誌や新聞のような定期刊行物の一部に含まれる著作物のタイトルに「」を、本という形で出版された著作物のタイトルを『』を使う、というのはひとまずその通りですが、そうした物理的な出版形態とは相対的に独立して存在している作品を指すときにどうするのか、という今回のトピックにとっては必ずしも回答にならないように見受けられます。その点、Megevandさんが言っておられる事情もほぼ同じ。

一方で、定期刊行物や共著のように複数の著作者が関わった著作物の中の一編のタイトルを指すために「」を使うという慣行は確かにあって、例えば日本社会学会の学会誌向けスタイルガイド「社会学評論スタイルガイド」があります。同スタイルガイドの「4.4 邦文の文献」の「(4) 編書論文など」などはその事例でしょう。

ただ、文学作品について言えば、定期刊行物の連載から始まって単行本化され、文庫になり、作品集や全集に収録され…等々と多様な・物理的な出版形態で刊行されるというのは、ある意味で文学作品特有の事情とも言えるように思います。そうした事情がある以上、それを出版物一般に拡大してガイドラインを左右するというのが適当かどうか。物理的な出版形態とは独立に作品を指す表記法について考えていくのが方向としては適切でしょう。

どこにあるのか思い出せないのですが、約物の使い方については文部科学省?国語審議会?文化庁?どこかそのあたりの答申だかガイドラインだかがあったようななかったような。個々人の感覚ではどのみち埒が明かないでしょうから、そういう規準を決めたものを探すという方向に進んだ方がよいように思えます。

蛇足。またこの組み合わせか、と思ったんですが、ガイドラインは気に入らない者どうしで角逐するためのネタじゃないです。喧嘩したいなら、よそでやって下さい。迷惑ですよ。--ikedat76会話2014年4月10日 (木) 16:01 (UTC)[返信]


ああもう、めんどくさいな。
文学分野での(収録作品/収録書籍を示すとき以外の)作品名・雑誌名に対する「」『』の厳密な使い分けの決まりとか支配的な慣行みたいなものはないはずです。媒体や執筆者でばらばら。ただし何かに入っているか否かに関わらず短編小説は「」、長編小説は『』でくくる方法を取る人もたしかに一定数あって、大学でも今適当に検索したところでは青山学院の英文科では論文指導でそのように教えているようです(このPDFの3頁)。私は独文科を出ましたが、論文指導の際には「作品名は『』」と教わり主題の短編名も『』を使いました。ばらばらであることを知ったうえで「執筆者によってばらばらでは困るから表記ガイドに従え」ということを言ったのです。
で、スタイルマニュアルでは「詳細は「Wikipedia:表記ガイド#著作物名」を参照」となっていますから表記ガイドのほうがメインです。こちらの説明ではここで最初に引用されているように
  • 比較的長大な作品あるいは作品群(例示・・・)→『』
  • 比較的短小な作品や作品群に含まれる単一の作品(例示・・・)→「」
となっています。「比較的短小な作品」や「作品群に含まれる単一の作品」と書いているのですから、「何かに収録されている」という関係の中になくても、そのような限定なしに「比較的短小な作品」が「」の使用対象に含まれるのだということが自然に理解できるはずです(「比較的短小な作品や作品群/に含まれる」では明らかにない)。「短編小説」が「比較的長大な作品あるいは作品群」ではなく「比較的短小な作品」であることは誰だってわかります。これは明らかにわからないという者のほうがおかしい。
長編と短編との間の線引き、または中編小説の扱いはどうするのか、などというのは上とはまた別の問題です。厳密な線引きが可能であるだのという話は私も一言も述べていません。私は「単独で刊行されることのほうが多いかどうか」である程度蓋然的な判断ができると思っていますが、別の判断を行う人もいるでしょう。その程度の項目間の表記ゆれは大した問題じゃないです。その項目内で矛盾しないようにさえすればいい。そもそも厳密な線引きが可能な事柄ではないです。中間的な形態のものなどといのはどんなジャンルにだってあり、それがあるからといって上のガイドラインを丸ごと否定する理由になどなりません。Wikipedia‐ノート:表記ガイドなどで話し合えばある程度の範囲で詰めることはできると思いますが、ノート:坂口安吾はそのように論点を整理して話し合えるような状態では明らかにありませんでした。
free spiritさんが示されているのは「出典の書きかた」ですので今の議題に対する直接の論拠にはなりません。表記ガイドのほうを参照してください。
ikedat76さんは一言多いです。あなたが今そのような皮肉を言ったところでご自分の自尊心をくすぐること以外の何の役にも立たないのだということくらいそろそろ気づいてもいいのではないでしょうか。--新続頭痛会話2014年4月10日 (木) 21:22 (UTC)[返信]
プロジェクト:漫画#記事作成の指針には「Wikipedia:スタイルマニュアル#著作物名に従い、書籍化された作品名や雑誌名は『 』で囲んでください。文脈として明らかに「雑誌掲載作品」としてのみ述べている場合や、短編集に収録された作品名などは「 」で囲んでください。」とありますね。これに忠実に従っている桂正和では文脈上掲載・収録に関係のないところでは短編は「」、長編は『』と使い分けられています。類似ジャンルですから参考にはなるでしょう。
私は文中では掲載物か刊本かに関係なく長い作品の名は『』でくくりますが、表記ガイドで「比較的長大な作品」と言っている以上これもおかしな解釈ではないはずです。どちらかに統一したいのであればガイドラインのノートでの議論が必要でしょう。--新続頭痛会話2014年4月11日 (金) 00:18 (UTC)[返信]
◆「作品が長いか短いか」という点に着目したことが実はなかったので、ちょっと適切な意見ではないかも知れないですが。
個人的には文脈によって、「作品があるものに属している場合、親を『』、作品を「」で囲む」というルールで、使い分けます。『雑誌名』「作品名」、『作品名』「サブタイトル」、『作品を単に表す』といった具合ですね。
例:『野性時代』45号収録「遠まわりする雛」・『遠まわりする雛』収録「遠まわりする雛」「やるべきことなら手短に」・アニメ『氷菓』第1話「伝統ある古典部の再生」(原作『やるべきことなら手短に』)
単純に、作品と収録誌・書籍との関係(上下関係)にのみ着目してました。上下関係にのみ着目して記述する、っていうのは他ジャンルでも適用できるルールですし。というか、「作品の長短」は主観に左右されますし(「比較的」っていうことは閾値はひとそれぞれってことでしょう)、であるならば「○○は長編小説である」とか「○○は短編小説である」とか書かれている出典が必要になってくるとか考え始めなきゃいけないんじゃないかとか思ってしまいます。
現状のスタイルマニュアルからはどうも外れているっぽいので今後気を付けます(といってもそう大きく捉えた記事を書くことはあんまりなかったんですが)が、内容そのものではなく単なる作品の表記程度で「作品の長短」まで調べて(少なくとも、ちゃんと考えて)書かないといけないっていうのは個人的には煩わしいと感じるので、その意味ではikedat76さんの「個々人の感覚ではどのみち埒が明かないでしょうから、そういう規準を決めたものを探すという方向に進んだ方がよいように思えます。」に賛意を示しておきます。 --いすか (/) 2014年4月11日 (金) 01:54 (UTC)[返信]
(新続頭痛さんへ) あなたが例示した「青山学院の英文科」の例は、主に海外文学の話でしょう。海外文学では短編は独立で一個で発表されることがほとんどなく、最初からあくまで短編集の中の一作品としてだけ扱われることが多いので、そういう考え方もされてくるのでしょうが、日本文学では、短編小説も独自に個々に発表される一つの作品、一つの「小説」として扱われています。
私はこれまでいろいろと、日本文学の文芸評論、作家論を読んでますが、その作家の作品を語る際に、長編小説は『』、短編小説は「」という理由の元に「表記を区別」しているものなど見たことがないです。ある作品を主体的に語る際に、書籍化されていないような作品や注目度の低い作品名を目立たなくさせる意味で、『』と「」を区別している場合もあることはありますが、その場合は、短編だからという理由にはなってません。長い作品でも「」になってます。でも、だいたいの文芸評論は、作品名は同じ鍵括弧で統一されているものの方が多いです。
それから、このウィキペディアの「表記ガイド」の「比較的短小」「比較的長大」というのは、例えば、「比較的短小」な作品は、ある作品内の「章」や、それ一個単体として独立して発表されにくいような「短詩」のようなものを指すのであって、「短編の小説」のように一個の独立した文章構成を持ち、一つの作品単体として発表されるものは、長編の小説と同格同等のものですから、この「短小」という文言に惑わされて、そちらの方に入れること自体がナンセンスな話です。それなら短いテレビドラマや短い時間の番組名は「」で表記されるんですか?
短編小説だろうが、長編と同じようにその中には、「章」がありますし、ある一定の長さを持つ一つの構成をもった「小説」ですので、それを「章」などと同じ方向の表記にするということ自体が明らかに変です。短編だろうが、映画や戯曲の原作にもなっている一つの作品ですし、芥川賞やその他の章の対象作品になっている立派な一つの小説です。短編と同じくらいの長さの台本の戯曲の方は『』の表記になるのに、短編小説だけが「」になるなんて、どう考えてもナンセンスです。
何か全集や作品集やアンソロジーや雑誌の中に収録されている個別作品として説明される際は、長編だろうが短編だろうが、「」となるのは分かりますが、それ以外の、単体でその文学作品が同等に語られて記述される時に、長編小説が『』で、短編小説が「」などと表記するなどという変な基準は、日本文学や日本の作家を語る際においてはまったく合わない基準ですし、とてもちぐはぐです。--みしまるもも会話) 2014年4月11日 (金) 02:51 (UTC) 誤字修正--みしまるもも会話2014年4月11日 (金) 02:54 (UTC)[返信]
  コメント 作品名が単独で登場するような文脈ではなく、多数の作品が列挙される場面でカッコを使い分けるということは、カッコの違いによって、その内容について何かしらの質的な違いがあることを(少なくとも)暗示することになります。「短篇集の1作品」と「単体で発表された作品」を区別するならまだ意味はあるのですが、単体作品の中で「比較的長いもの」と「比較的短いもの」について違いを示さなければならないほど、両者に質的な違いがあるのかは疑問に感じます。--Jkr2255 2014年4月11日 (金) 03:24 (UTC)[返信]

文化庁の答申というのはここにおかれているこれのことでいいんでしょうか。「フタヘカギを用いることもある」みたいな感じで全然使い分けの指針はないようですね。
「規準を決めたもの」というのはやっぱりないんじゃないかなと思いますよ。夜長姫と耳男を書いたときに使った論文コピーが残っていたのでざっと確認してみましたがやっぱり使い分けはまちまちです。おおむね学者先生が書いているものですから、どこかに指針があるならいくらなんでももうちょっと統制が取れてるはずかと。非常に大雑把な傾向として短編は「」、収録書名は『』という使い分けがされやすいかなという感じなのですが、これは論文の書式のアナロジーで自然にこうなるのかなと思います。
いすかさんのコメントですが、「短編かどうか」ってそこまでややこしいですかね。中編か短編かという領域の曖昧さというのはもちろんありますが、「短編集」に入ってれば普通は全部短編ですよね。たまたまよく知らない作家の記事を書いてるときなんかでは面倒になることもあるかもしれませんが、表記ガイドにあるようにややこしければ適当につけておけばいいだけだと思います。
Jkr2255さんが言われている「多数の作品が列挙される場面」というのは具体的にどういうものを指しているのかよくわからないのですが、リスト的なもののことでしょうか。短編作品のタイトルは収録短編集のタイトルにもなったりしますから、単純な列挙であれば「短編作品」であるか「それを収録した作品集・連作」であるかを区別する役には立ちますよ。そういう使い分けであれば普通に慣行として見られるもので、例えば三島由紀夫賞のサイトの選考委員の経歴部分を見てみてください。川上弘美の「蛇を踏む」も辻原登の「村の名前」も町田康の「くっすん大黒」も中編のタイトルですが、別の作品1~2編を併録した同じ名前の書籍があるので区別のために一重鉤になっています。「作品集」が受賞対象になることもあるので必要な使い分けです。「単体作品」(というのもなにを指しているのかちょっとわかりにくいですが)といっても大江健三郎の『新しい人よ目覚めよ』とか中上健次の『重力の都』とかのようにひとまとまりの連作のなかに同名の一編があったりというようなケースもありますからそういったものの区別に役に立つということもあると思います。長いか短いかというだけの話ではないでしょう。必然性があるか、ということならそれよりも同じ記事内でセクションごとに括弧の規則をいちいち変更する必然性があるか、という論点もあるでしょう。また作品リスト節内では鉤括弧類はつけなくてもいいという指針もあったと思います。
  >海外文学では短編は独立で一個で発表されることがほとんどなく
この発言は単純にただの嘘です。ポーでもマンでもアシモフでもチェーホフでもカーヴァーでも誰でもいいから短編で有名な人の経歴を調べてみてください。--新続頭痛会話2014年4月11日 (金) 04:46 (UTC)[返信]
あと「短詩」も独立で雑誌・新聞に発表されます。「一個の独立した文章構成を持ち、一つの作品単体として発表される」短詩や論文は違うのですか?--新続頭痛会話2014年4月11日 (金) 05:39 (UTC)[返信]

  コメント アシモフだと短編の単独記事が日本語版には無いようですが、小松左京だと短編単独記事もいくつかありまして……適当にチェックしてみましたが、バラバラですね。ヴォミーサは短編タイトルも掲載誌も「」、御先祖様万歳は短編タイトル『』で掲載誌「」、地には平和をはどちらも『』、模型の時代も規則性があるような使い方はされていないようでした。統一性、規則性があったほうが良さそうだとは思いますが。--KoZ会話2014年4月11日 (金) 05:17 (UTC)[返信]
上に書いたようなことですので短編は「」雑誌は『』で統一して大丈夫だと思います。アシモフも英語版の記事は雑誌・長編は斜体、短編はダブルクォーテーションと綺麗に統一されているようです。というか、そのあたりの表記の区別にそれなりに気をつけて書いたエドガー・アラン・ポーをGAにしてもらってるんですけど、あまり参考にはされていないみたいですね。--新続頭痛会話2014年4月12日 (土) 03:54 (UTC)[返信]


新続頭痛さんが示したサイトの選考委員の経歴を見ましたが、そこでは、雑誌掲載時に受賞したものは「」となっていて、短編集や書籍化したのは『』とされているようで、短編だからという理由が元で「」というわけではないでしょう。雑誌掲載時の作品受賞か、書籍化後の書籍受賞かという、そういう意味での受賞作の区別するという場面においては有効かもしれませんが、平野啓一郎のところでは、
文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により
というふうになっていたりもしますから、何かそのサイトも一貫してないですね。そのサイトの規準でいけば、『日蝕』はその局面において、「日蝕」にするべきでしょうに。
ポーのついては、いわゆるロマン(長編小説)を主に書く小説家とは違いますから、ポーのような作家や詩人に近い作家の代表作が、短編小説になるのは当然のことです。そしてポーの短編小説は、日本の作家の短編小説と近い性質のものですから、海外長編作家における短編集の中の一作品というような位置づけの「短編や小品」ではないでしょう。マンの代表作の一つの『ヴェニスに死す』なども、短編(Short story)ではなくて中編小説ですから、日本の文学者の短編小説と同じような、ある一定の長さのある「小説」です。
それから、「短詩」も独立で雑誌・新聞に発表されるならば、その「短詩」の「題名」も、単独でその作品について語られる場合は『』で表記されていいんじゃないですか。「詩」も立派な一つの文学作品ですから、短さや長さは関係ないでしょう。なので、ウィキペディアの「表記ガイド」の説明を変えて、その『作品』と「章」の関係『書籍』と「収録作品」の関係『全集や作品集』と「収録作品」の関係『戯曲作品』と「幕」の関係、での区別の意味の「表記ガイド」の指針にして、ただ単に長編だから『』、短編だから「」などというナンセンスな基準と受け取られて誤解されるような説明は変えた方がいいと思います。--みしまるもも会話2014年4月11日 (金) 07:48 (UTC)[返信]
  •   よくわからない議論になっていますが、カギカッコの話ですよね。カギカッコは、地の文と区別するために使います。カギカッコでさらに区別する必要があるときに、二重カギカッコを使います。作品タイトルをカギカッコにするか二重カギカッコにするかは、文献によってまちまちで、統一した基準はなさそうですが、ウィキペディアでは基本二重カギカッコを使っています。その上で、あえて二重でないカギカッコを使う必要性というのは、例えば大作に対する小品であるとか、短編のタイトルが短篇集のタイトルと同じ場合など、作品の重みや形態に違いがあって、それを示したいときでしょう。つまり、カギカッコには二重カギカッコと同列・並列でないという含意がある、ということです。これらの使い分けは文脈や出典に多く依存しますが、他方で同じページ内の一貫性や分野内の整合性などにも配慮が必要です。
それで、新続頭痛さんがいわれているのは、「変だから」といった個人的な感覚に頼るよりも表記ガイドに従ってはどうか、従えないならガイドラインのノートで問題提起したらどうか、ということでしょう。それ以上のことを主張しているわけではないと思いますが違いますか? とにかく脱線が多すぎます。
坂口安吾」についていえば、同じ記事中で「生涯」・「作品」節と「年譜」節で異なるスタイルのカッコ書きを採る、ということならその旨の注意書きが必要でしょう。でないと、どういう意図なのかとか同名の別作品かといった疑問や混乱の原因になり、この方が「変」です。--みっち会話2014年4月12日 (土) 01:05 (UTC)[返信]
ありがとう、その通りです。
「創作作品名は長短・収録の区別なく全部『』でくくることにしよう」というようなことであれば単に提案としてなら全然ありえるものだと思いますよ。現にそのような表記で文章を書いている人がいくらでもいるのだし、見たところドイツ語版やフランス語版は創作作品はどんなものもすべて斜体で統一しているようです。日本では芥川賞が強い権威を持っていますけど、芥川賞をとった同じくらいの長さの作品でも出版社や時期によって一作品単独で刊行されたり他の中短編と抱き合わせで刊行されたりしているので、いちいちそうした区別の判断をするのが煩わしいという人も少なくないでしょう。先に連作の中に同じタイトルの短編が入っていたりといったケースに触れましたが、別に区別の方法が鉤括弧に限られているわけでもありません。
ただ私は掲載誌・短編集・連作集/収録作品などの区別をつけるのに便利なこと、Wikipediaで広く使われている出典・参考文献の書式と親和性が高いことなどから総合的に判断して、多少の曖昧さはあるにしても現状の方が優れていると考えているのでもし上のような提案をされても反対することになると思いますが。現状のガイドラインの文言が収録関係に限らないことはすでに説明したとおりです。またこのガイドラインをどう読んでも「区別に曖昧なところがあるからどんなに短いものでも全部『』でくくる」というような編集を支持するような内容は導き出せません。
みしまるももさんは、よく知らないことを無理に理屈をつけて説明しようとするべきではないです。海外の作家は短編を独立して発表することが少ないだとか、ポーの短編の性質が云々といった一連の言動は、この議論の参加者の少なくとも一部の人には、文学の基礎的な領域に対して非常に混乱した知識をもたれている方だという強い印象を与えたと思います。Wikipediaには無知な人も参加していますが、無知な人ばかりというわけでもありません。適当なことを書けばわかる人にはわかります。--新続頭痛会話2014年4月12日 (土) 03:54 (UTC)[返信]
(新続頭痛さんへ) ポーが短編小説を得意としていた作家であるのも、マンの『ヴェニスに死す』も短編(Short story)ではなくて中編小説だというのも事実です。そして、海外の長編作家と、日本の作家の短編小説に対する考えの違いのことはデタラメなことではありません。海外長編作家の短編に対する考え方に比べて、日本では短編小説も長編小説もほとんど区別していないことは、作家である三島由紀夫が評論でちゃんと論じていることです。
(みっちさんへ) 私がこの井戸端でご意見を皆さんに伺っている主旨は、新続頭痛さんの言う「表記ガイドに従ったらどうか」という、その新続頭痛さんが解釈しているところの、長編小説は『』、短編小説はどんな時でも「」でくくらなければならないという主張が、本当にこの「表記ガイド」で示されている指針なのかということです。まずはそこのところを、第三者のより多くの人たちのご意見を聞いて知りたかったんです。これまでに寄せられたご意見によると、新続頭痛さんのように、短編小説はどんな時でも「」でくくらなければならないと考えている方は、新続頭痛さん以外には見受けられないようなので(みっちさんもそうかもしれませんが)、皆さんの考えや意見を整理してから「表記ガイド」のノートの方で、説明文の書き方をどうしたらいいかを進めていきたいなと思っています。--みしまるもも会話2014年4月12日 (土) 09:22 (UTC)[返信]

「多く意見を募る」ということで、とりあえずここの井戸端は収穫があったのではないでしょうか。これを元に今後表記ガイドの整理を進めていかればと思います。頭痛さんとみしまるももさんのことに関しては、あまり良く分かりませんが、お互いの考え方の癖や傾向などを色々ご存知ということで、どうしても「中立的」に議論するのが難しいようですので、「〜さんはああだこうだ」という提案するのではなく、「〜のような意見もありますが、皆さんどうお考えですか」とされれば良かったのかなと思います。その後のコメントもしかりです。これはちょっとしたことですが、そのちょっとした注意で回避できる争いもあると思います。私も自分自身で反省するところです。--MEGEVAND (会話) 2014年4月12日 (土) 09:42 (UTC)[返信]

  報告 本トピックに関連しWikipedia:コメント依頼/みしまるもも 20140429‎を提出しています。--新続頭痛会話2014年4月29日 (火) 15:36 (UTC)[返信]

お知らせ 編集

これまでの寄せられたご意見を参考にして、「表記ガイド」のノートで、説明文の改訂を含めた提案をしましたので、ご連絡いたします。

Wikipedia‐ノート:表記ガイド#著作物名の表記について

--みしまるもも会話2014年4月14日 (月) 04:26 (UTC)[返信]

お知らせ2 編集

頭痛さん、みしまるももさんのそれぞれについて、コメント依頼を提出したことをお知らせいたします。 --いすか (/) 2014年5月26日 (月) 09:51 (UTC)[返信]

その他 編集

  コメントみっちさんからももう指摘が出ているから一回書ききりにしますが、前回「蛇足」を書いたとき頭痛さんだけ・みしまるももさんだけを名指ししていません。ご両人に対して書いています。ウィキペディアは共同作業ということになっている。その過程では意見が合わないこともありますが、そういうときに求められているのはWikipedia:議論が白熱しても冷静にのはずです。さて、ご両人の

  • 「思い込み」「押しつけないで」「決めつけている」(みしまるももさん、2014年4月9日 (水) 12:15 (UTC))
  • 「論理が飛んでいてちょっと相手にしていられません」「牽強付会」(頭痛さん、2014年4月9日 (水) 12:37 (UTC))
  • 「この発言は単純にただの嘘です」(頭痛さん、2014年4月9日 (水) 12:37 (UTC))
  • 「どう考えてもナンセンス」(みしまるももさん、2014年4月11日 (金) 02:51 (UTC))

こういう発言がWP:CALMWP:CIVILで、対話を通じての問題の解決や合意形成に寄与するものなのでしょうか。私に切り返す前にご両人ともまず、そこから考えてみたらいかがですか。まして以前からの前歴があるわけで、慎重に振舞う配慮を双方ともしていいはずです。頭痛さんはベテランならベテランにふさわしいふるまいをして欲しいものですし、みしまるももさんもベテランでなくてもそういった点で建設的な結果を生むのに障害になるような行動や言動を慎まれた方がよろしいでしょう。何か言いたいことがあるのならノートでどうぞ。どのみち蛇足ですし、お答えしようと思いません。--ikedat76会話2014年4月12日 (土) 01:56 (UTC)[返信]

いまこのタイミングでそのようにわざわざ対立的な文言を抜き出して列挙することが感情的な対立を煽ることにしかならない、ということがなぜわからないんでしょうか。みっちさんのように具体的な論点を絞って議論自体の解決を促すのが正解です。
あなたが抜き出したその4行のシリーズの下に
  • 「またこの組み合わせか」「ガイドラインは気に入らない者どうしで角逐するためのネタじゃないです」「喧嘩したいなら、よそでやって下さい」(Ikedat76さん、2014年4月10日 (木) 16:01 (UTC))
を加えてもなんら違和感のないことくらいはわかりますよね? あなたに仲裁の才覚はないです。頼むから黙っててください。--新続頭痛会話2014年4月12日 (土) 03:54 (UTC)[返信]

関連する過去の議論へのリンク 編集

過去ログ化されていて必ずしもたどりやすくないので、ノート:表記ガイド、ノート:スタイルマニュアルへのリンクをそろえておきます。ここには意見は書かないこととして、必用があれば気づいた人が追加することにしていただければと思います。--T6n8会話2014年6月11日 (水) 22:23 (UTC)[返信]