Wikipedia:井戸端/subj/Internet上の一次情報源

ネット上に確認される一次情報源について 編集

上の「ファンサイトなどの情報について」に似ているが、分けて考えていただきたく思います。

現在『ドラゴンボールGT』において、「『GT』の由来については、『悟天とトランクス』説や『(好き勝手やって)ごめんなさい、鳥山先生』説などが聞かれた。公式発表は上述のように「Grand Touring」、「Great Touring」又は「Galaxy Touring」である。」という記述の是非について、一月近くにわたって議論が紛糾しております。

「GT」の由来に上記のような説が「存在」していることは、Google検索で300件以上ヒットすることから確認できます。検索の仕方でヒットするページが変わりますので、実際にはおよそ1000のサイトで上記の説が言及されているものと思われます。この事実を基に、上のような記述をすることは、「既に存在している一次資料や二次資料を集めて、情報を整理する調査」であり、検証可能性に反せず、独自の調査にもあたらないと私は考えています。

このような例はマンガ・アニメ、ネット関連の記事では数多く、

  1. キャプテン翼』の「この歌の中に出てくる『チャンバ』には、おばあちゃんの意味だとする説と、ポルトガル語の新聞記者の意味だとする説があるが」という記述(Google検索。インターネット上でこの説が大いに流布していることが確認できる)
  2. テニスの王子様』における「本作を『能力バトル漫画』、『テニスボール使いマンガ』と見るファンもいる」(「テニスボール使い」のgoogle検索)、「スポーツ漫画ではなくファンタジー漫画・ギャグ漫画・能力バトル漫画と見なされることも多い。」(「"テニスの王子様はギャグマンガ"」の検索結果)という記述
  3. 杉田尚#読者の声←これはノートでの議論の末この形に落ち着いた
  4. OVER TIME』における「ネット上での通称は『OT』」という記述(検索結果)
  5. ツギハギ漂流作家』(「バギップ」検索結果)
  6. モナーの「現在では2ちゃんねる内でも『猫』と呼ばれることがある」という記述

などを挙げることができます。他にも数多くあると思います。

インターネット上の公式のもの以外の多くのサイトは、二次情報源としては信用できる情報源ではないと思いますが、一次情報源として用いて「このような意見がある」「このような説がある」という存在は証明できる信頼できる情報源であり、なんら問題が無いのではないでしょうか。Wikipedia:中立的な観点でも、「意見は書いてはいけないが、意見の存在は書いていい」ことになっていますし、ネット上での現象を解説するのにネット上の一次情報以外が得られないケースは多々あり、それをばっさり切り捨ててしまうのが損失となることも多いのではないでしょうか。

「GT=ごめんなさい、鳥山先生」説、「チャンバ=おばあちゃん、新聞記者」説、など、二次情報源は無いけどネット上に一次情報源(すなわちそのような「説」の「存在」が確認できるもの)がある場合、ウィキペディアに記述することは是でしょうか、非でしょうか。ご意見お聞かせください。--Michael Friedrich 2007年6月27日 (水) 14:53 (UTC)[返信]

書きようの問題だと思います。例えば上に挙げられている例について、量の問題は検証不能なので「ファン筋などはインターネット上で斯く斯く云々の説を挙げている。しかし公式には特に何も示されていない」と含みを持たせ複数視点から語る…という感じでは如何ですかね?現象は、できるだけ周辺事象も含めて観測したほうが良さそうです。ただし「匿名論者による説」の存在に関しては、自作自演も実質的に可能なので、よくよく注意する必要がありそうですね。2ちゃんねるPOVとか所定ファンサイトPOVにならないよう、現象の質と規模を十分に検討して、本当に記述が必要か(ローカル過ぎて書く必要も無いような小さな現象ではないのか)といったことも注意が必要そうです。--夜飛/ 2007年6月27日 (水) 15:11 (UTC)[返信]

上記の例はどれもそれなりの数ヒットするもので、ローカルすぎるということは無いのではないかと思います。具体的に「これはいい、これはだめ」「全部いい」「全部だめ」という意見があればお願いします。--Michael Friedrich 2007年6月27日 (水) 16:18 (UTC)[返信]

書き手の著名性にも影響しそうですが、少なくとも社会的地位(所属)も明らかではないのであれば、『風の噂』と同等でしょう。厳密に言えば「本当にその情報が必要なら、とっくに出典があるはずだ」というのが基本スタンスだったと思いますが。--秋月 智絵沙 2007年6月27日 (水) 15:49 (UTC)[返信]
Wikipediaの執筆者が、自らGoogle検索による調査を行い、その調査結果を「○○という説がある」と書くのは、まさに「独自調査」だと思います。(現行の方針の解釈としては、それ以外の解釈は難しいと思います。)
但し、本当に「Google検索で300件以上ヒット[し]・・・実際にはおよそ1000のサイトで上記の説が言及されている」のならば、その中の一番上等なやつを選べば「信頼できる情報源」として充分通用する可能性が高いはずだと思います。(というようなことを、英語版から翻訳して「信頼できる情報源」のところに書いた記憶があります)--Dwy 2007年6月27日 (水) 16:07 (UTC)[返信]
Google検索結果は執筆者が作ったものではなく、世界的に使われているGoogleが製作したものです。誰でも確認できるので検証可能性に反しません。
1000のサイトのどれか一つが信頼できる情報源なのではなく、全体が「説の存在」を示すものであると思います。つまり、1000の中のどれか一つが信頼できる二次情報源なのではなく、散在する1000の一次情報源をまとめる作業であると私は認識しており、それはガイドラインに反さないと思います。なぜなら、上記のような説の「存在」は、誰もがネット上で確認できる事実だからです。Dwyさんは「チャンバ」も「GT」も、上記の例全て記述不可だとお考えでしょうか。できれば、皆さん上記の例で「これはいいけど、これはだめ」「全部いい」「全部だめ」というようなものがあれば具体的にお教えください。お願いします。--Michael Friedrich 2007年6月27日 (水) 16:18 (UTC)[返信]
「およそ1000のサイト」があると見積もることや、その見積りから「『説の存在』を示す」と判断することは、独自の研究にほかならないんじゃないでしょうか。
なお、Googleは個々のウェブページの情報源の信頼性についてなんらの吟味もしていないのはもちろん、検索結果の件数と事実の蓋然性とが相関したものになるように注意を払って情報を収集しているわけでもありません。Googleの検索結果は信頼できる情報源にならないでしょう。
Dwyさんのおっしゃるように、個々のページなり文献なりについて情報源の信頼性を確かめ、適切なものを典拠として選択すべきだとおもいます。 --Hatukanezumi 2007年6月27日 (水) 16:32 (UTC)[返信]

「およそ1000のサイトがある」と記述するわけではないので、それは関係ないと思います。それに、ウェブ上で説を紹介しているサイトが多数見受けられるという事実は、誰もが確認できるものです。

つまり、「個々のウェブページの情報源の信頼性」は、それを二次情報源として用いるときに問題とされるものであり、ここでは個々のウェブページの情報源の信頼性は一切問うていないわけです。

このような書き方はどうでしょうか。「ウェブ上では~という説が存在する」。「ウェブ上では」と入れれば、誰もが事実を確認できる問題ない記述となるのではないでしょうか。--Michael Friedrich 2007年6月27日 (水) 16:45 (UTC)[返信]

Wikipedia:井戸端/subj/2ちゃんねるでは…という記述に通ずるような問題だと思います。傾向が顕著なものであっても信頼できる出典がないからと言って載せないのはどうかと思うし、逆に傾向が顕著でもないのにわざわざ載せるのも問題でしょう。バランスを考えながらやっていくしかないんじゃないんでしょうか?--IRUMA [ 会話 履歴 ] 2007年6月27日 (水) 16:53 (UTC)[返信]
Googleの検索結果に基づく記述は全部ダメです。検索キーワードを選ぶのは誰ですか?検索結果やその件数を判断して「~という説がある」という結論を出すのは誰ですか?Googleじゃないですよね。だから「独自研究」なのです。(たとえばGTの例だと、「ごめんなさい、鳥山」というキーワードで検索していれば違う結論になるかもしれませんし、「数百件のヒットは取るに足らない」という評価だってありうるわけです。)--Dwy 2007年6月27日 (水) 16:56 (UTC)[返信]
Dwyさんと同意見です。思うにWikipediaにおける検証可能性とは単に「ある説が存在するか否か」ではなく「ある説を発表したのは誰か」(あるいは「ある説の存在を確認したのは誰か」)まで問われるものではないでしょうか。Michael Friedrichさんは個々のウェブページの信頼性は一切問わない、とおっしゃいますが、そのように信頼性を棚上げされた「説」を「googleで引っかかるから」という理由だけで追加していくのはWikipediaの質を落とすだけだと考えます。--Metronome 2007年6月27日 (水) 17:05 (UTC)[返信]

「○○に関する部分は、とりあえずGoogleで検索して調べた結果をもとにして書きました。もっと信頼のおける情報源にもとづいた修正をお願いします」とノートに正直に書いておけばいいんじゃないですか。--Kazubon 2007年6月27日 (水) 17:08 (UTC)[返信]

すいません、そもそもノート:ドラゴンボールGTで紛糾している問題なのね…--Kazubon 2007年6月27日 (水) 17:12 (UTC)[返信]
Google などの検索結果はボット(クローラ)によってウェブクロールし取得したデータベースを元にしているので一切、人が関わっていない自動的なものであるので検索結果だけではそういったことに言及している(記述している)サイトが多数存在しているということを実証する程度にしかなりません(しかも検索結果も時と共に大幅に変化する可能性がある)。結局、信頼できる情報源であることを実証できない限り記述するのが難しいんですよね(そういう説が多数存在していると記述しようにもそれが認められないような気も)。こういったことって、仕方ないとはいえなんか歯がゆくてもやもやしますね。Wikipedia:言葉を濁さないなどにも「代表者を記述してください」のようにありますが、そもそもネット上での議論は代表者も何もないので実証できません。 --Mzm5zbC3 2007年6月27日 (水) 17:50 (UTC)[返信]

そうなると、上記の例はもちろん都市伝説一覧なんかは記事の存在自体まるごと削除されるべきとお考えでしょうか。「ネット上で~」と書かれている記事は全て、2ちゃんねる系の記事はかなりの部分が削除され、字引に堕すると思いますが、みなさんどうお考えでしょうか。--Michael Friedrich 2007年6月28日 (木) 01:34 (UTC)[返信]

ざっと見ただけですが都市伝説一覧には出典があるもの(~で取り上げられている、など)もあるように見受けられます。「都市伝説」としての出典の無いものに限りノート等で出典を求め、提示されないものは除去してもよいのでは。
2ちゃんねる系記事の可否などについては別個に検討すべき問題でしょう。「2ちゃんねる記事が成り立たなくなるからジャンプ系記事でも許すべき」ということならそれは理屈としておかしい。そもそも上で挙げられている記述が無くてもこれらのジャンプ系記事は十分成り立ちますし。「他の記事」はさておき、こうして議論の俎上に挙げられており、にもかかわらず明確な出典が示されないのならそれらの記述は除去すべきではないかと思われます。--Metronome 2007年6月28日 (木) 03:15 (UTC)[返信]

別に「2ちゃんねる記事が成り立たなくなるからジャンプ系記事でも許すべき」と言いたいのではありません。ダブルスタンダードではなく、共通基準を作らねば永遠にこの問題は解決しないと言いたいのです。ネット上での一次情報源が確認できるが、公式HPや出版物のような形でまとめられた二次資料がない場合、その情報をウィキペディアに記述することができるか、できないか。できる場合、どのような形であれば許されるか。ということを話し合っているのであって、「2ちゃんねる記事を成り立たせたいんだったらジャンプ系も認めろ」と脅迫しているのではありません。ただどちらも同一基準で記述するべきだと申し上げているのです。--Michael Friedrich 2007年6月28日 (木) 09:36 (UTC)[返信]

こういった記述は、現実的には載せるしかないかなあ、と思っています。ただし、現状で検証可能性を満たさない「独自の研究」であるということも確かであって、あまり堂々と載せられるものではない。このような記述は将来的に検証可能性が満たされる可能性を担保にして(こわごわと)載せるしかないだろうと思います。その可能性が低いものは初めから載せてはいけないでしょう。 -- NiKe 2007年6月28日 (木) 05:58 (UTC)[返信]
あんまり独自研究だ何だ言うとその他の記事も・・・必要とされるものまで書けなくなってしまう気がします。むやみやたらに何でも書けばいいというわけじゃないけど、ネット上の現象は多くが出典や起源が不明ですし・・・。慣習法的な見方と言うか、話し合いながら上手く調整するしかないんじゃないでしょうか?--IRUMA [ 会話 履歴 ] 2007年6月28日 (木) 10:19 (UTC)[返信]

話し合いがうまくいってないから井戸端にまで波及したのでは・・・?
(以下Michaelさん宛)別に「脅迫」とまでは思いませんでしたが、「同一基準で記述するべき」というのは「ジャンプの記事を消したいなら先に2ちゃんねるの記事を消せ」という「脅迫」にも見えます(←もちろん冗談ですが)。私は「同一基準」をここやノート:ドラゴンボールGTで求める意義を感じません。個別の記事と方針文書があれば個別の記事における議論としてはそれで十分なはず。むしろ方針に沿っているかどうかもわからない別の記事を議論に持ち出すべきではないと思います。「同一基準の設定」などのファンダメンタルな議論は方針文書のノート等で提起すべき事柄ではないですか。--Metronome 2007年6月28日 (木) 10:37 (UTC)[返信]

>話し合いがうまくいってないから井戸端にまで波及したのでは・・・?
『GT』のノートでの議論に新しい風をと思ってコメント依頼に出そうと思ったら、コメント依頼は既に出ていて効果が期待できなかったのに対し、こっちは多くの人の目に触れるし、「チャンバ」始め同一の類の記述の包括的な話ができるかと思ったので。
あと、一度は『GT』も話し合いで、「その他」の説に移動して書くことでほとんど合意が取れていたんですよ。その後再び同じ議論が別の人と巻き起こったわけですが。
同一基準の「設定」というよりも、現在の基準がどうなっているのか、基準があるのか無いのか、慣習的な配慮は許されるのか、それとも共通の基準なしで記事によって可だったり不可だったりするものなのか、そのような現状を知りたいというところです。--Michael Friedrich 2007年6月28日 (木) 12:54 (UTC)[返信]
分野ごと、項目ごとに参加者が違うのだから基準や慣習といったものはないんじゃないですか。ポータルページのノートなどで話合われてる場合もあるかもしれませんが、あくまでその分野の内部での基準でしょうし。あと釘を刺すようで何ですが現状のWikipediaにおいて多数の例が見つかるからといってそれが慣習とみなせるわけではないです、念のため。--Metronome 2007年6月29日 (金) 10:00 (UTC)[返信]
その場その場、その時々の議論参加者次第で方針がころころ変わるのっておかしくありませんか?ガイドラインが意味を成さないじゃないですか。それとも、それぐらいウィキペディアってのは適当なものってことですか?--Michael Friedrich 2007年6月29日 (金) 11:20 (UTC)[返信]
方針が変わるんじゃなくて方針の解釈が変わるんです。あなたがファンサイトの記述を一次情報源と見なせるとし、私が見なせないとしているように。「ガイドラインが意味をなさないじゃないか」というのはあなたに対して言いたいところです。方針(独自研究は載せない)に関して上でDwyさんがわかりやすい反論をしているのに、それに対してあなたは「他の記事はどうなるのか」と言ったきりでしょう。繰り返しになりますが方針に厳密さを求めるなら方針に沿っているかもわからない他の記事を持ち出すべきではありません。--Metronome 2007年6月29日 (金) 13:47 (UTC)[返信]
解釈がコロコロ記事によって変わるのはおかしいと言っているんですが。憲法解釈だって政府が変わるごとに変わってたら困るでしょう。それと同じです。「解釈改憲」という言葉があるように、方針の解釈が変わるということは、方針が変わるということと大差ありません。「方針に厳密さを求めるなら方針に沿っているかもわからない他の記事を持ち出すべきではありません」とおっしゃいますが、ここでは「GT」について議論をしているのではなく、この手の記事一般を議論しているので「他の記事を持ち出すべきではありません」という批判は当たらないのでは?--Michael Friedrich 2007年6月30日 (土) 03:35 (UTC)[返信]
>解釈がコロコロ記事によって変わるのはおかしいと言っているんですが
発言の表面上の意味だけ捉えて反論しないでください。同一人物が記事によって方針の解釈を変えていたらそれはおかしいですが、人によって文章の解釈が変わるのは当たり前(かつどうしようもない)でしょう。憲法解釈が政府ごとに変わったら困ると言いますが現実的にそのような「困る」例はいくらでもある。それを回避したいなら上で言ったように同一基準の設定を方針文書で提案してください。あと勘違いされているのかもしれないが私は記事よって方針の解釈が変わることを許容すべきなんてことは一言も言ってないですよ。実現できるかどうかもわからない基準(解釈の統一)を担保にして件の記事群の正当化はできないと言っているんです。
>ここでは「GT」について議論をしているのではなく、この手の記事一般を議論しているので
私も「GT」に限った話はしていません。Dwyさんの意見に対して論理的な反論をせず「他の記事はどうなるのか」と言ったきりであることを批判しているのです。--Metronome 2007年6月30日 (土) 06:07 (UTC)[返信]
>Dwyさんの意見に対して~
「ほかの記事はどうなるのか」とDwyさんの意見をよりはっきり理解するために質問したことがどうして批判されなければならないんですか?以前韓国起源説で同様の議論をしたことがあるのですが、「一次情報を単純にまとめる作業」は「独自の調査」にならないと私は考えていることは既に述べているわけで、Dwyさんは、それを「独自の調査」と考えているのか。そうであれば、根本の考え方が違うのだから、そのままでは平行線をたどるだけだから、議論の仕方自体を考え直さなければならない。その意味で、Dwyさんの意見を誤解無く理解するために質問したことが、どうして批判されねばならないのかまったく分かりません。Dwyさんが、改定鋳物と書いてはいけないものの基準をどこに設定しているのか、上に挙げたものは全部だめと考えているのか、それともここまではいいという基準があるのか、単なるダブルスタンダードであるのか、誤解無く議論をするために相手の考えをちゃんと知りたい、それのどこがいけないのですか?--Michael Friedrich 2007年7月1日 (日) 05:22 (UTC)[返信]
>「ほかの記事はどうなるのか」とDwyさんの意見をよりはっきり理解するために質問したことがどうして批判されなければならないんですか?
その意見(Dwyさんの考え)を誤解なく理解するのに議論に上っているもの以外の「他の記事」を持ち出す必然性がないからです。議論が平行線を辿っているのはあなたが反対者に対して論理的な反論をせずに、質問を繰り返すことによって別の議論を起こし続けているからです。あなたの持論に対して反論が行われているのに、その反論に応答する前から「議論の仕方自体を考え直さなければならない」などと言い始めるのは私には詭弁に見えます。--Metronome 2007年7月1日 (日) 07:03 (UTC)[返信]
どうしてもあなたの言い方は、私のみが「載せてもいいんじゃないか」ということを言っているかのように聞こえます。こちらは、上記の例は「すでに存在する一次情報をまとめる作業」にあたり、独自調査に当たらないと私は考えています。それを否定された場合、こちらにはもう反論の仕様が無い。だから、どこまでが独自調査で、どこから独自調査でないと考えているのかをはっきりさせたい。上記の例は「すでに存在する一次情報をまとめる作業」にあたらないから独自調査なのか、「すでに存在する一次情報をまとめる作業」自体が独自調査なのか、どう考えているのかそれが知りたい。そのために別の例を挙げてみて、どう判断するか意見を伺う。それがどうして悪いのか、ちっともわかりません。
この考えが何に由来するかというと、「Wikipedia:独自の調査」の「一次資料を作り出す独自調査は認められません。しかしながら、既に存在している一次資料や二次資料を集めて、情報を整理する調査は、もちろん、強く推奨されます。」という記述に基づいています(なんでガイドラインが個人のページにあるのか、経緯は知らないんですが、このガイドラインって有効ですか?以前はちゃんと全体のガイドラインとしてあったものが個人のページに移動されたらしいんですが、経緯を知っている人がいらっしゃったらお教えください)。
こっちの主張はこの考え方を基に議論を進めているのであって、これを否定されたら反論の仕様が無い。おそらくあなたが私の意見を「論理的でない」と考えるのは、この前提が違うからで、私はこの全体にたって論理的に議論を進めているつもりです。十分に反論にも応答しているつもりです。
「Googleの検索結果に基づく記述は全部ダメです。検索キーワードを選ぶのは誰ですか?検索結果やその件数を判断して『~という説がある』という結論を出すのは誰ですか?Googleじゃないですよね。だから『独自研究』なのです。」という反論に対して、私は最初から「すでに存在する一次情報をまとめる作業」であるから独自研究ではない、ということを主張しており、これ以上反論する言葉が無いため、Dwyさんが「チャンバ」や「GT」などの例を「すでに存在する一次情報をまとめる作業」にあたらないから独自調査と考えているのか、「すでに存在する一次情報をまとめる作業」自体が独自調査と考えているのかを知りたいので、質問を返したのです。
それじゃあ改めて聞きます。「チャンバ」や「GT」が独自調査だというのは、「それらが『すでに存在する一次情報をまとめる作業』にあたらないから独自調査と考えているから」なのか、「『すでに存在する一次情報をまとめる作業』自体が独自調査と考えているから」なのか、どちらですか。「論理的な反論をする前に質問をする」と批判されるかもしれませんが、後者であった場合、これ以上論理的な反論はできません。なぜならば、これまで私は「私の編集は前者に当たる」ことを論じてきたのであって、前者が否定されればこちらが信じていたガイドラインという前提そのものが崩れることになるからです。--Michael Friedrich 2007年7月1日 (日) 15:33 (UTC)[返信]
>上記の例は「すでに存在する一次情報をまとめる作業」にあたらないから独自調査なのか、「すでに存在する一次情報をまとめる作業」自体が独自調査なのか、どう考えているのかそれが知りたい。そのために別の例を挙げてみて、どう判断するか意見を伺う。それがどうして悪いのか、ちっともわかりません。
失礼ながら意味不明です。ガイドラインにおける「まとめる作業」に当たるかどうか知りたいのなら、あなた自身が今している質問「『チャンバ』や『GT』が独自調査だというのは、それらが『すでに存在する一次情報をまとめる作業』にあたらないから独自調査と考えているからなのか、(それとも)『すでに存在する一次情報をまとめる作業』自体が独自調査と考えているからなのか、どちらですか」を初めから行えば済んだことでしょう(3行で済むじゃないですか)。「(「都市伝説一覧」などの)別の例を挙げてみて、どう判断するか意見を伺う」ことによってなぜこの「『まとめる作業』にあたるかあたらないか」の疑問が解決すると思ったのか、全くわかりません。現に「Dwyさんと同意見」とした上で私がすでに「都市伝説一覧」については答えていますが、まったく解決になっていないじゃないですか。「必然性が無い」とはそういう意味です。
次にその「まとめる作業」について。まずWikipedia:独自研究は載せないを見てください(あなたの挙げたのは草案かなにかでは?)。ここでは何が一次資料で何が二次資料であるかが書かれています(Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料からそのまま抜き出します)。
  • 一次資料とは、考古学的な人工遺物・映画・ビデオ・写真、日記・国勢調査・公聴会の議事録や裁判の記録・インタビューのような歴史的文書、アンケートや調査の結果一覧、実験室での分析・観察の記録、実地調査の記録といった、情報やデータを提供するものです。
  • 二次資料とは、他の情報源から取得した情報やデータの概括、分析、総合、解釈、評価を行うものです。
また独自研究を避けるためには、これらの資料はすべて「信頼できる情報源」から発表されたものでなければなりません。念のためこれもWikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料からそのまま抜き出します。
独自の調査を避けるためには、そしてウィキペディアの記事の質を向上させるためには、あらゆる一次資料、さらには既存の情報やデータの一般化、分析、総合、解釈、評価もすべて、評判の良い第三者による(つまり自費出版ではない)発行物として発表され、ウィキペディア以外のウェブサイトや公共図書館を通じて閲覧者が閲覧できることが必要です。
ここまでが前提の確認です。
次にDwy氏の行った反論をもう一度確認してください(完全に尻馬に乗っている形でDwyさんには申し訳ないですが・・・)。
>検索キーワードを選ぶのは誰ですか?検索結果やその件数を判断して「~という説がある」という結論を出すのは誰ですか?Googleじゃないですよね。だから「独自研究」なのです。
誰ですか?の答えはもちろんあなた(Michael氏)であり、Michael氏はもちろん「信頼できる情報源」ではありません。つまり一次資料(あなたの行ったグーグルの検索結果)自体が独自研究であり、さらにその資料にもとづいて「信頼できる情報源」ではないあなたが(~という説がある、~と噂された、と言う風に)分析、解釈を行っていることも独自研究である、と言っていることは明白です。他に解釈の余地はありません。不安なら(向こうには迷惑ですが)Dwyさんに確認を取ってください。
またガイドラインにおける「(ウィキペディア利用者が)既に存在している一次資料や二次資料を集めて、情報を整理する調査」とは当然「分析、総合、解釈、評価」を行わない作業です。でなければ当のガイドライン自身と矛盾しますから(二つ目の引用参照)。というわけで「『まとめる作業』にあたるか」の質問に対しては「あなたの分析・解釈が含まれているので、『まとめる作業』にはあたらない(だから独自研究)」とはっきり答えることが出来ます(別に「『すでに存在する一次情報をまとめる作業』自体が独自調査と考えている」わけではないことは言うまでも無いですね?)。しかも「まとめる作業」以前に資料自体も独自研究であるということは上で示したとおりです。
それで「まとめる作業」には当たらない、ということになるとどうなるのでしょうか?上で示したようにDwy氏の指摘(および私によるその注釈)はきちんとガイドラインを根拠としているものです。「論理的な反論は出来ないが私は『まとめる作業』にあたると信じている」では済まないと思いますが。--Metronome 2007年7月2日 (月) 20:52 (UTC)[返信]
しばらくウィキペディアからはなれていたので、返答が遅くなって申し訳ありません。
「検索結果やその件数を判断して『~という説がある』という結論を出すのは誰ですか?」ということについてですが、これは裏を返せば「検索結果やその件数からは、万人が『〜という説がある』という結論には到達しない」ということになります。まず、Google検索は情報源の確認のためのものであって、本当に一次情報源として扱っているのは個々のサイトです。複数のサイトで同じ内容が書かれているとき、「〜という説がある」とするとき、そこには個人の判断は入っていません。
例えばある刑事事件に関して、ある弁護士は「有罪である」と言って、別のある弁護士は「無罪である」と言ったとします。上の「〜という説がある」と書くことを個人の判断であり客観性がないととらえるのは、ここで「有罪という意見がある」「無罪という意見もある」と書くことも、弁護士の台詞を「〜という意見がある」と判断したということになり客観性がないということになってしまうのではないでしょうか。つまり、個々のサイトに書かれていた共通内容から「〜という説がある」とすることは、個人の判断、解釈は含まれておらず、客観的事実であると思うのです。そうでないならば、「〜という説がある」ということを否定する判断が可能なはずですが、あるでしょうか。
ガイドラインには「『独自研究』にあてはまる情報とは、信頼できる裏づけ資料が一切見つからず、そのため投稿者の独自の考えなのではないかと考えられるような情報です。」とあり、「ごめんなさい、鳥山先生」説は、二次資料はありませんが、個々のサイトで公表、考察されており、説の内容はともかく、説の存在そのものは裏付け資料が一切見つからないものではないと思います。
あとは慣習法の立場から発言しています。これまでの慣習、判例から、許容されてもいいのではないか、という意見です。
Metronomeさんは、以上の意見を「論理的でない」と思うかもしれませんが、これ以上は、例えば「米国での銃の所持は是か否か」という議論と同じように、互いに自分を「論理的である」と思い、相手を「論理的でない」と言い続ける平行線をたどることと思います。一つの意見について、法律を詳しく勉強したはずの弁護士によっても全く判断が全く異なるように、慣習やこれまでの判例を取り上げることを「論理的」と考える私と、「非論理的」と考えるMetronomeさんとでは、基本がまるで異なるのだと思います。ですから、自分から議論をふっかけておきながら申し訳ありませんが、私の意見はここで打ち止めとしたいと思います。ただ、わかったことは、この手の内容でウィキペディア全体に共通する基準を設けるのは現実的に無理があり、個別にやるしかない、ということです。ご迷惑おかけしました。失礼します。--Michael Friedrich 2007年7月6日 (金) 03:21 (UTC)[返信]
それなら「~説がある」というだけなら何の出典もいらないことになりますね。グーグルなど用いなくても記述者が「自分がその説の提唱者だ」と言い張れば確かに「説の存在」は確認できますから。ただなぜそれが事典に載せるべきことであるかは永久にわかりません。
またWikipediaで多数の例が見つかるからと言ってそれは「慣習」ではないことは予め言いましたし、過去に議論があったと言ってそれはあくまで「前例」であって「判例」ではありません(法律のアナロジーを持ち出すこと自体間違いです)。同様のことは他の方にも指摘されているじゃないですか。あーあ。--Metronome 2007年7月6日 (金) 04:12 (UTC)[返信]
「あーあ」なんて書くのはやめてもらえませんか?議論の場にあるまじき態度です。たとえ言っていることが正しくても、それで反感を呼び込むのはあなたにとっても特ではありません。
私は執筆者個人の意見などとは区別して、Googleのヒット数や、各個別のウェブサイトを引用したつもりです。「『~説がある』というだけなら何の出典もいらない」なんてことは夢にも考えたことはありません。
あと「慣習」と見なすかどうかは、根本的な問題で、私が慣習法という言葉を持ち出したのも、IRUMAさんが6月28日に使った言葉を流用したもので、私一人だけが孤立して荒唐無稽な議論をしているのだとは、どうか思わないでほしいです。--Michael Friedrich 2007年7月6日 (金) 06:30 (UTC)[返信]
情報の出元を確認する(記述がガセ情報であるかどうかの判断など)ために検索を使用するのであればまぁやむなしと言えるでしょうが、絶えず変化するページを出典とするのは難しいかもしれませんね。検索と言うものはページの内容が固定されないし記録も残らないから後から検証することは難しくなると思う・・・。まぁ、ケースバイケースですけど。まとめる云々の意見に反対するわけではなく、また別の問題として見て、の話です。--IRUMA [ 会話 履歴 ] 2007年7月3日 (火) 08:35 (UTC)[返信]

(インデント一旦戻し)この手の問題は、ことWikipediaがファンサイトの一種だと誤解されていることに一因があるようにも思いますが…ことGoogleを含むロボット検索エンジンの検索結果に関しては、観測問題や事実誤認も含まれ、例えば「鳥山先生、ごめんなさい」を検索ワードにした場合に関しても、鳥山明作品をパロディして「ごめんなさい」かもしれないし、誰かが同氏の所定作品を酷評して「ごめんなさい」かもしれないし、まして学校の「鳥山(という苗字の)先生」に対して悪戯を詫びているだけかもしれませんし、「ごめんなさい」が別のニュアンス・別の相手に対して発せられている可能性だってある。こういった問題は多々あり、それを出典とし難い(余りに不確実)点で、何の客観性も持たない資料だといえましょう(「2ちゃんねる出典」みたいなもんで)。いずれにしても各々のケースに於いて判断される事柄であり、共通化されたルールを求めるなんていうのは「自動車は常に(路地裏でも、高速道路でも)50km/hで走行しなさい」というのと同じくらいに無理な話だと思います。--夜飛/ 2007年6月29日 (金) 14:08 (UTC)[返信]

実際にあったケースとして、記事名を決めるときどの名称が最も一般的であるかと言う根拠として検索を使うのがありましたが、これは『あり』でしょう。この場合検索を独自調査としてしまえば執筆者が恣意的な理由により一般的でない名称で記事を作成することが可能になってしまう。「りんご」と言う名称が嫌だから「赤いやつ」とでもする(あえて単純かつ極端に言ってるだけですので事例に対する揚げ足取りは勘弁願いたい)とかね。あんまりです。そう考えると検索サイトを"絶対に"使うべきでないとは言いがたいです。(なるべく誤爆率が減るよう考慮したうえで検索していれば)関係ないページがヒットしていたとしても関係のあるページの数は、それぞれの名称の使用頻度と相関性を持つと考えられます。
でも今回はこれ(誤爆を考慮した上で見て参考に出来るもの)にはちょっと該当しないと思うし、GTに関しては特別書く必要もなさそうな気が・・・。あえて書くなら『さまざまな説があるようだが明確にはされていない』と言ったところでしょうか。積極的に書くべきでないと思いますが名前の由来などを説明をしなかったことで見るだけの人を悩ませるのであれば配慮として分からない旨などを書くことが必要だと感じます。『理由不明』ならばわざわざ書かないでも良いと言われそうですが、時と場合によっては妥協も必要になるでしょう。該当ケースは多くないだろうけど本当にどうしようもないときは書かざるを得ないこともあるだろう、と言ったほうがいいかな?--IRUMA [ 会話 履歴 ] 2007年6月29日 (金) 21:24 (UTC)[返信]