Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/クサヴェラ・レーメ 20200211

クサヴェラ・レーメ - ノート 編集

選考終了日時:2020年2月24日 (月) 18:26 (UTC)

  • 「1889年(明治22年)は、……「君が代」が国歌として制定された翌年であった[8]。 」当時君が代は国歌とはなっていないはず?なおこの行は個人的には不要という気もします。
  • 「ドイツから日本への旅程は、昭和期には空路が開通するものの、当時はまだ船旅に頼る他なく、移動には2か月間を要した[17]。」当時既にシベリア鉄道があり「船旅に頼る他なく」というのは違和感があります(「いだてん」でも1912年ストックホルム五輪にシベリア鉄道経由で行くシーンがありました)。--Iso10970会話2020年2月15日 (土) 08:46 (UTC)[返信]
  • 初版投稿者です。ご査読ありがとうございます。
「君が代」の件、今回の参考文献の内で最初に『続々 ほっかいどう百年物語』(中西出版、2003年)を読んでクサヴェラ・レーメ氏を知りまして、同書では氏の生まれ(1889年)が日本と縁のある旨の説明として「誕生した年に大日本帝国憲法が発布され、君が代が国歌として制定された」とあります。しかしウィキペディア上の記事・君が代には1889年制定とはなく、「?」と思っておりました。同書で『クサベラ・レーメ』(北海道テレビ放送、1983年)が参考文献とされており、後にそちらを入手し読んだところ、「君が代が国歌として制定された翌年にクサヴェラが生まれた」とあり、君が代には1888年に対外正式公布」とありましたので、君が代制定と書いた次第です。ウィキペディア記事を鵜呑みにせず、他資料も確認の上で、確かに「制定」はもっと後だとわかり、制定と書いたのは早計でした。「国歌として対外正式公布された翌年」などと書き直そうかとも思いましたが、私も正直、初版投稿当初より「同年ならともかく翌年で縁があるように書くのは、こじつけっぽいのではないか」と迷っておりましたもので、削除させていただき「大日本帝国憲法が公布された年であった」のみ記述とさせていただきました。憲法については、『続々 ほっかいどう百年物語』『クサベラ・レーメ』と、2つの本で共にクサヴェラ氏の生まれと縁のある事柄として紹介されていますので、残すべきかなと迷い、ひとまず残した次第ですが、いかがでしょうか。
次に船旅の件ですが、『北海道開発功労賞 受賞に輝く人々』にて、氏が晩年にドイツに帰郷する記述で「初めて日本に来たときは船旅で2か月間かかったが、この頃は飛行機でひとっ飛びになっていた」とあり、初の訪日時には飛行機が無かった=船旅のみだったと早合点してしまいました。鉄道があったとは存じませんでした。クサヴェラ氏の訪日時に鉄道で訪日可能だったかはまだ確認が取れませんが、「訪日手段が船旅のみだった」といった記述が出典上に無いことは確実ですので、文章表現に迷った挙句「ドイツから日本への船旅による旅程は、昭和期に開通する空路と異なり、移動には2か月間を要した」と、改めさせていただきました。
以上の点、2020年2月15日 (土) 23:34 (UTC)差分)にて改訂しております。早計やら早合点やらでご査読のお手数をおかけしてしまい、大変申し訳ありませんでした。ご助言、ありがとうございました。--逃亡者会話2020年2月16日 (日) 00:06 (UTC)[返信]
逃亡者さん、修正箇所確認しました。  賛成 票とします。なお憲法の記述ですが、たまたま同年だったということで、大日本帝国憲法が彼女に大きな影響を与えたというのでもなければいらないんじゃないかなとは思います(他の1889年生まれの人の記事に一々憲法発布について書きはしないでしょう)。--Iso10970会話2020年2月16日 (日) 07:32 (UTC)[返信]
  •   賛成 良質な記事の目安を満たしていると思います。なお、「クサヴェラの跡を継いで校長に赴任した牧野キク」という記載がありますが、牧野キクはもともとこの学校の教員だったようですから「赴任」ではなく「就任」が正確な記載ではないかとは思います。
「藤高等女学校の創立の理念をいかして立派な家庭婦人を育むことに取り組み」とありますが、それ以前に「藤高等女学校の創立の理念」が触れられていないため、これが「立派な家庭婦人を育む」こととどうつながるのかが気になりました。
「立派な家庭婦人を育む」ことも(その後で出てくる)クサヴェラ・レーメの「徹底した良妻賢母育成の女子教育観」も、肯定的なトーンで触れられていますが、これは今日的な価値観で見れば、古い考え方として必ずしも全面的に肯定されることでもないように思いますし、やや違和感があります。どちらかといえばミッションスクールでは「良妻賢母」的な教育に反発し、家庭よりも信仰やリベラル・アーツの重要性を強調する傾向があるなかで、記事主題の人物が「徹底した良妻賢母育成の女子教育観」をどのようにして身につけたのかというのは気になるところです。例えば大和学園セシリアの沿革では、設立者でカトリック信者の伊東静江が「当時一般的であった良妻賢母型の女子教育の概念を大きく覆し」たものとされています([1])。一方で、井上章一は「カトリックの学校は、良妻賢母主義と妥協する度合いが強かった」(「ファッション主義の精神とプロテスタンティズム」)と述べていますから、それ自体は不思議なことではないのかもしれませんが、クサヴェラ・レーメが守旧的な女子教育のあり方に妥協したという見方も可能なわけで、そういう観点から批判している文献があれば、肯定一辺倒ではない評価も書けるのではないかと思いました。--伊佐坂安物会話/履歴2020年2月16日 (日) 08:29 (UTC)[返信]
  • 細かなところまでのご査読とご助言、ありがとうございます。牧野キク氏は、氏について最も新しい資料と思われる『愛に生き、藤に生きた教育者』(創英社、2019年)でも「校長に就任」との表現でしたので、2020年2月17日 (月) 09:17‎(UTC)差分)にて改めさせていただきました。その他に教育観など、ご助言いただいたような内容ですと、もう少し資料の捜索、読み込みが必要なようです。特に批判となると、少なくとも現在まで読み込んだ資料には批判的な記述がありませんで、なかなか難しそうですが、引き続き捜してみます。よろしくお願いいたします。--逃亡者会話) 2020年2月17日 (月) 09:21 (UTC)【誤字修正】--逃亡者会話2020年2月17日 (月) 19:21 (UTC)[返信]

賛成のみ3票以上の状態が48時間継続のため、早期終了・通過となります。--Tam0031会話2020年2月18日 (火) 13:38 (UTC)[返信]