藤原高光

平安時代中期の貴族・歌人

藤原 高光(ふじわら の たかみつ)は、平安時代中期の貴族歌人藤原北家右大臣藤原師輔の八男。官位従五位上右近衛少将三十六歌仙の一人。

 
藤原 高光
狩野安信(『三十六歌仙額』)
時代 平安時代中期
生誕 天慶2年(939年)?
死没 正暦5年3月10日994年4月23日[1]
改名 まちをさ(幼名)[2]→高光→如覚
別名 多武峰少将入道
官位 従五位上右近衛少将
主君 村上天皇
氏族 藤原北家九条流
父母 父:藤原師輔
母:雅子内親王醍醐天皇の十皇女)
兄弟 伊尹兼通安子兼家遠量忠君、遠基、遠度登子源高明室、高光愛宮為光尋禅、深覚、公季、怤子、繁子、源重信
正室:藤原敦敏の娘
昭平親王
テンプレートを表示

経歴 編集

天暦2年(948年昇殿を許されると、まもなく父の藤原師輔とともに参内し、村上天皇の前で『文選』『三都賦序』を暗誦して天皇を感嘆させた[3]。天暦9年(955年)姉の中宮藤原安子の給により従五位下叙爵し、翌天暦10年(956年侍従任官する。天徳2年(958年左衛門佐、天徳4年(960年右近衛少将と武官を歴任し、天徳5年(961年)正月に従五位上に叙せられた。

前年の父・藤原師輔の死を契機に発心し[4]、同年12月に同母弟の尋禅が師事・修行していた比叡山延暦寺横川良源の下で出家法名如覚。当時藤原氏の中心的人物であった師輔の子息の出家は世間に衝撃を与えたらしく、『多武峯少将物語』を始めとして、多くの物語に高光の出家に関する逸話が記されている[5]

しかし、良源と尋禅との固い結び付きに入り込めずそれを苦にし[6]、出家の翌年には横川を去り多武峰に移り住んだ。

人物 編集

拾遺和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に23首入集[7]。家集に『高光集』がある。また出家から多武峰に草庵を営むまでを描いた作品に『多武峯少将物語』がある。

今鏡』によると、高光は束帯着用の際持つ必要のあるの代わりに、懐紙を笏の形に畳んだものを所持したことがある、との逸話が語られている[8]

官歴 編集

注記のないものは『三十六人歌仙伝』による。

系譜 編集

妖怪退治 編集

 
岐阜県関市高賀神社にある「高光公とさるとらへび」の像

美濃国さるとらへびという妖怪の存在を知った朝廷は、天暦年間(947年 - 957年)に「藤原高光」を派遣し、これを追討した。詳しくは「さるとらへび」項目を参照。

高賀六社 編集

岐阜県(旧・美濃国)の高賀山を主峰とした山(瓢ケ岳、今渕ケ岳、片知山など)の山麓にあり、高賀山を囲む6つの神社。上記の妖怪伝承に関連し、いずれも「藤原高光」が創建と伝わる。

 
山麓から望む高賀神社の鳥居高賀山
 
矢納ヶ渕

高光が星宮神社の辺りまできた際、道がわからなくなってしまったが、粥川谷の鰻が正しい道を教えたため、無事さるとらへびを退治したという。また、藤原高光に善貴星という神が粥を施した地ともされている。その後の粥川は鰻の捕獲・食事も禁止となった。「粥川ウナギ生息地」は大正13年(1924年)に国の天然記念物に指定されている。また、中流域には藤原高光が用いた矢を納めたと伝わる矢納ヶ渕がある。

その他、菅谷には高光が草鞋を履き替えたとされる草鞋が森、高賀山の神が討伐のための矢を作るように命じ、矢柄を作ったとされる矢作神社がある。矢作神社には宝物として妖怪退治に使った矢、木鉾、獅子頭が所蔵されている。

脚注 編集

  1. ^ 多武峯略記』による。但し、985年寛和元年)に死去した徽子女王重明親王の娘)が、既に亡くなった高光を偲んだ歌が伝わっている(『斎宮女御集』)ため、高光の没年はそれ以前とする説もある。
  2. ^ 栄花物語』巻第一月の宴
  3. ^ 『九暦』天暦2年8月19日条
  4. ^ 『多武峯少将物語』による。『栄花物語』では村上天皇の中宮であった姉の安子の死を契機に出家したとするが、安子の死去は応和4年(964年)であり、史実とは不整合がある(『新編 日本古典文学全集 31 栄花物語 1』小学館、1995年、55頁)。
  5. ^ 『大鏡』『今鏡』『栄花物語』等
  6. ^ 「多武峯少将物語に見る高光出家の周辺」『言語と文芸』、1963年9月
  7. ^ 『勅撰作者部類』
  8. ^ 『今鏡』147段
  9. ^ 『高光集』
  10. ^ 『村上記』
  11. ^ 『新編 日本古典文学全集 31 栄花物語 1』小学館、1995年、56頁

関連書籍 編集

参考文献 編集