上野国

遠国に属する令制国の一つ

上野国(こうずけのくに[1]、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本令制国の一つ。東山道に属する。おおむね現在の群馬県にあたる。別名は、上州(じょうしゅう)、上毛野(かみつけの・かみつけぬ)、上毛(じょうもう・かみつけ)など。

上野国

-上野国
-東山道
別称 上州(じょうしゅう)
上毛(じょうもう・かみつけ)
上毛野(かみつけの・かみつけぬ)
所属 東山道
相当領域 群馬県[注釈 1]
諸元
国力 上国のち大国[注釈 2]
距離 遠国
14郡102郷
国内主要施設
上野国府 群馬県前橋市
上野国分寺 群馬県前橋市高崎市上野国分寺跡
上野国分尼寺 群馬県前橋市高崎市
一宮 一之宮貫前神社群馬県富岡市
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「上野」の由来と読み

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毛野地域の変遷
4世紀頃?毛野
 
 
 
 
 
 
 
 
5世紀末頃?上毛野下毛野那須
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7世紀末上毛野国下毛野国
 
 
 
 
8世紀初頭上野国下野国
 
 
 
 
 
 
 
 
現在の
都道府県
群馬県栃木県

古代関東には「毛野(けの/けぬ)」および「那須(なす)」と呼ばれる地域と、それぞれを拠点とする政治勢力が存在した。そして前者の毛野が上・下に二分されて「上毛野(かみつけの/かみつけぬ)」「下毛野(しもつけの/しもつけぬ)」となったといわれる[2][3]。毛野の起こりについては、『常陸国風土記』によると筑波はもともと紀の国であるといい、この紀の国と毛野が同一かは不詳だが、「毛野河」は筑波西部の郡の境界とある。また『続日本紀』では毛野川は古くから常陸国下総国の境界であると記されているなど、毛野と毛野川(現在の鬼怒川)の深い関わりがうかがわれる。『上野名跡志』では下野国河内郡衣川郷が毛野という名称の由来と推察されている。

国名の上下については、上総国下総国などと同様、一国を「上」と「下」に二分したものとされるが、備・越・筑・豊・肥等のように前後に分けられた国との違いは不詳である[4]。またこの分裂は史書に無く詳細は不明で、古くから議論がある(「毛野#毛野の分裂」を参照)。

大宝律令』の制定においても、上毛野は「上毛野国(かみつけの/かみつけぬ)」として令制国の1つに定められた[5]。その後、上毛野国・下毛野国の国名は「上野国」・「下野国」と改められた。この際、「毛」の字は消えたものの「こうずのくに」として読みにその名残をとどめている。「上毛(じょうもう)」という別称は今でも用いられている。なお「かみつけ」からの転訛であるが、読みは慣用的に「こうづけ」でなく、四つ仮名の混同により(現代仮名遣いでは)「こうずけ」と振られて表記される。

読みについて、『和名抄』には「加三豆介乃」、『万葉集』には「可美都氣努」「可美都氣野」などが見られる。同集で当国名が詠まれた12首のうち11首までは末尾を「努(ヌ)」と詠んでいるのに対し「乃(ノ)」としているのは1首のみで[6]奈良時代頃までは「かみつけぬ」後世に「かみつけの」と読みが変わったものと推定されている。さらに、「美」については「ウ」とも読み[注釈 3]、「ウ」の次の読みは濁ることが多く「ヅ」となり訛って「ノ」を省き「カウヅケ」となったとの解釈がある[7]。そして、「かう〔kau〕二重母音」→「こー〔kɔː〕(長母音円唇後舌半広母音)」のように変化していったものと思われる。

「努」の読みの解釈については「努」は万葉仮名の「ノ(甲類)」であるとし、「けぬ」は江戸時代以来の誤った読みとする説もある[8][9][10][11]。ただし、万葉集では「努」はもとより「野」についても「ヌ」の読みに充てている例もあるため、「毛野」を「けの」または「けぬ」とする例も少なからず見られる[2][12][13]

藤原宮跡出土木簡の中には「上毛野国車評桃井里」の記載が見られる[14]

沿革

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日本書紀』によると、上毛野国造上毛野君崇神天皇長子で東国の統治を任じられた豊城入彦命を祖とするとされる[15]。また上野は日本武尊蝦夷を平定し日高見国から西南の地常陸国に戻って甲斐国に至り、その北にあって従わない信濃およびを征するため武蔵および上野を経由して碓日坂を登り碓日峰で東南を見下ろして「吾嬬者耶」と言ったことで知られる[15]

また、書紀では上毛野君は仁徳天皇の御世に新羅と戦い捕虜を得たといい、またその後天智天皇の御世には百済新羅に攻められた際、百済を軍事的に支援するため朝鮮半島に遣わされたという[15]。この間推古天皇9年(601年)9月8日には新羅人の間諜者である迦摩多が対馬で捕えられ上野に配流されており[15]、上野国と朝鮮半島が古い時期から深く関わりを有していたことがうかがわれる。「国造本紀」では仁徳朝に下毛野国造が分置されたとされる。

和銅4年(711年)に甘楽郡(かむらのこほり)の織裳(おりも)・韓級(からしな)・矢田(やた)・大家(おおや)の4郷、緑野郡(みとののこほり)の武美1郷、片岡郡(かたおかのこほり)の山等(やまな)1郷、計6郷が各郡から分離され多胡郡(たごのこほり)が新設され[16]倭名類聚抄の成立期には碓氷(うすひ)・片岡(かたおか)・甘楽(かむら)・多胡(たご)・緑野(みとの)・那波(なは)・群馬(くるま)・吾妻(あかつま)・利根(とね)・勢多(せた)・佐位(さゐ)・新田(にふた)・山田(やまた)・邑楽(おはらき)の計14郡があった(『倭名類聚抄』)。

親王任国の統治時代

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上野国は、はじめ上国だったが、弘仁2年(811年)、大国に変更となる(『日本後紀』)[17]天長3年(826年)、上野国と常陸国上総国は、親王(皇族)が国守に任命される親王任国となった(『類聚三代格』)[17]。このため、上野介が実際の政務にあたった[17]。良馬の産地として勅旨牧がおかれた。

全国に10余りしか現存しない奈良時代以前の石碑のうち、3つが多胡郡にある。藤原宮木簡には、上毛野国と表記。国衙のあった国府群馬郡にあった。現在の前橋市元総社町付近と推定されているが、その遺跡の所在を確認するには至っていない。その周辺には国分寺跡・国分尼寺跡・総社神社がある。

武士の進出

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天慶年間に関東東部で内乱を起こした平将門は上野国府を落とし、一時上野国を支配するが、藤原秀郷によって討ち取られた。秀郷の子孫は上野各地に進出し、淵名・佐位・吾妻・薗田・大胡・山上などの一族に分かれ、有力な武士団として成長した。

12世紀初頭の天仁元年(1108年)、浅間山の噴火により、上野国一円の農耕地は甚大な被害を受けた。荒廃した耕地は、在地領主の大規模な再開発によって私領となり、その権益を守るために中央の貴族に寄進され、荘園が成立する。上野国の荘園として、八幡荘淵名荘・土井出笠科荘・佐貫荘・吾妻荘・新田荘や、伊勢神宮御厨として玉村御厨・細井御厨・邑楽御厨がみえる。これらの荘園の開発に成功したのは秀郷流藤原氏や、新勢力として進出した源義重に始まる新田氏であった。

守護の統治時代

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鎌倉幕府

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治承4年(1180年)に源頼朝が相模国鎌倉に入り武家政権を樹立すると、源義重は自立を目指し抵抗するが、最後には頼朝の軍門に下った。また、藤原秀郷の系譜を引く藤姓足利氏足利俊綱は、頼朝に抗して没落した。

こうして上野国に鎌倉幕府の秩序が打ち立てられた。守護となったのは安達氏であり、弘安8年(1285年)の霜月騒動安達泰盛が没落するまで、上野国を支配し続けた。その後、守護は幕府滅亡時まで北条得宗家であった。その下に、上野武士団は御家人として鎌倉に出仕した。御家人としては、新田一族をはじめ、佐貫・大胡・山上・沼田・吾妻・那波・淵名氏がみえる。

元弘3年(1333年)、新田荘生品神社で挙兵した新田義貞は鎌倉を攻め、幕府を滅亡させた。

室町幕府

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室町幕府の下、上野守護に任じられたのは上杉氏である。八幡荘が守護領とされ、守護所板鼻に置かれた。ただし、上杉氏は関東管領を兼ねて鎌倉におり、在地支配は守護代の長尾氏に任された。長尾氏は惣社・白井の二家に分かれ、それぞれ上野国府、白井城に拠点を築いた。

関東管領の統治時代

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山内上杉氏統治時代

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天文15年(1546年)、河越夜戦での上杉憲政方が大敗。

天文21年(1552年)、平井城北条氏康に攻め落とされ、関東管領上杉憲政(山内上杉家)が敗走し、越後に逃れた。

天正6年(1578年)、上杉謙信の死去を以って、関東管領の統治が終わった。

後北条氏統治時代

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永禄年間後北条氏が上野国を領国化した。

武田氏統治時代

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永禄4年(1561年)に甲斐国武田信玄による西上野侵攻の結果、西上野が甲斐武田氏支配下となり、城代を置いた。

武田氏滅亡時

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天正10年(1582年)、武田氏が滅亡すると、倉賀野秀景織田信長方の滝川一益に従った。

天正10年(1582年)、神流川の戦いにて後北条氏滝川一益(織田氏)が戦い、後北条氏方が勝利した。

小田原征伐

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天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が行われると、上野国の武将の一部は後北条氏武将として小田原城に籠城した。

江戸時代

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江戸時代には、沼田藩前橋藩安中藩高崎藩伊勢崎藩七日市藩吉井藩小幡藩、および館林藩が置かれた。この他、明治維新まで実質的に命運を保つことができなかった藩として総社藩那波藩板鼻藩矢田藩上野豊岡藩大胡藩白井藩青柳藩上里見藩および篠塚藩がある。

国内の施設

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全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML

国府

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宮鍋神社(前橋市元総社町)
上野国府推定地。

群馬郡国府村にあったとする説(『上野名跡考』)があり、のちに群馬郡旧元総社村(現在の群馬県前橋市元総社町付近)の蒼海城跡とする説(『群馬郡村誌』など)が定説になったが、近藤義雄による群馬郡大友村(現在の群馬県前橋市大友町付近)の南の平坦地とする説が一時定説化していた[18]

国府域を確定させるため近藤説に基づいて1961年(昭和36年)から尾崎喜左雄らによって発掘調査が行われたが、むしろ元総社地区が最有力という結論になった[18]。ただし、国府域や国衙跡は不明のままである[18]

国分寺・国分尼寺

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神社

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延喜式内社

延喜式神名帳』には、大社3座3社・小社9座9社の計12座12社が記載されている(「上野国の式内社一覧」参照)。大社3社は以下に示すもので、全て名神大社である。

総社一宮以下

『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[19]

安国寺利生塔

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  • 安国寺:慈光山常昭院安国寺 (高崎市通町) - 浄土宗、本尊:阿弥陀如来

利生塔は未詳。

地域

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領域

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明治維新直前の領域は、現在の桐生市の一部(菱町の全域および梅田町四・五丁目の一部[注釈 4])を除く群馬県の全域と、栃木県足利市の一部(南大町・里矢場町・新宿町・藤本町・荒金町)に相当する。

かつて群馬県は上野国と完全に同一の領域であったが、1959年昭和34年)に栃木県(旧下野国足利郡菱村が、1968年(昭和43年)に栃木県安蘇郡田沼町の入飛駒地区がいずれも桐生市に越境合併。また、1960年(昭和35年)に山田郡矢場川村の一部が栃木県足利市に編入された結果、上野国とは完全には一致しなくなっている。群馬県の方が上野国よりわずかに面積が大きくなっている。

人口

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  • 1721年(享保6年) - 56万9550人
  • 1750年(寛延3年) - 57万6075人
  • 1756年(宝暦6年) - 57万9987人
  • 1786年(天明6年) - 52万2869人
  • 1792年(寛政4年) - 51万3915人
  • 1798年(寛政10年)- 51万4172人
  • 1804年(文化元年)- 49万7034人
  • 1822年(文政5年) - 45万6950人
  • 1828年(文政11年)- 46万4226人
  • 1834年(天保5年) - 45万1830人
  • 1840年(天保11年)- 42万6073人
  • 1846年(弘化3年) - 42万8092人
  • 1872年(明治5年) - 50万7235人

出典: 内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林

近代以降の沿革

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人物

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国司

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国司は天皇より叙任され、国内の政治事すべてを司った。

上野守

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※日付=旧暦 ※在任期間中、「 」内は、史書で在任が確認できる最後の年月日を指す。

上野太守

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上野介

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上野掾

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守護

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鎌倉幕府

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室町幕府

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脚注

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注釈

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  1. ^ 桐生市のうち桐生川以東は含まない。
  2. ^ 記紀』・『六国史』での格は811年弘仁2年)までは上国、以後は大国。
  3. ^ 助動詞「む」から「う」が生まれたように、「mi(み)」の「i(い)」が取れて、「m(む)」になり、さらに「ウ音便化」したものと想定される。
  4. ^ 概ね桐生川以東。

出典

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  1. ^ 「上野国」『国史大辞典』吉川弘文館。
  2. ^ a b 『世界大百科事典』(平凡社)毛野(けぬ)項。
  3. ^ 『国造本記』(『先代旧事本紀』第10巻)下毛野国造条。
  4. ^ レファレンス協同データベース - 栃木県立図書館回答
  5. ^ 『日本の地名 群馬県の地名』(平凡社)上野国節。
  6. ^ 『万葉集』。
  7. ^ 古事記伝
  8. ^ 日本古典文学大系本『萬葉集 一』(岩波書店、昭和32年)。
  9. ^ 万葉集検索システム(山口大学教育学部)、佐佐木信綱『新訓萬葉集』(岩波文庫)参照。
  10. ^ 『大辞林』(第三版)毛野項。
  11. ^ 熊倉浩靖 『古代東国の王者 上毛野氏の研究 2008年改訂増補版』(雄山閣)p.5。
  12. ^ 日本大百科全書、ニッポニカ・プラス(小学館)
  13. ^ 大辞泉(JapanKnowledge)
  14. ^ 『国史大辞典』(吉川弘文館)上野国項。
  15. ^ a b c d 日本書紀
  16. ^ 続日本紀
  17. ^ a b c 太田市 1997, p. 3.
  18. ^ a b c 金沢清則. “上野国府とその付近の東山道、および群馬、佐位駅家について”. 2022年10月23日閲覧。
  19. ^ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 276-283。
  20. ^ 吉井藩領の「旧高旧領取調帳」の記載は岩鼻県。本項では「角川日本地名大辞典」の記述による。

参考文献

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関連項目

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