戸沢正実

江戸時代の藩主 (1833-1896)

戸沢 正実(とざわ まさざね)は、出羽新庄藩の第11代藩主。

 
戸沢 正実
時代 江戸時代後期(幕末) - 明治時代
生誕 天保3年閏11月17日1833年1月7日
死没 明治29年(1896年8月16日
改名 千代鶴(幼名)→正実
墓所 東京都港区三田の常林寺瑞雲院
官位 従四位下、上総介、中務大輔、子爵、贈従二位
幕府 江戸幕府
出羽国新庄藩
氏族 戸沢氏
父母 父:戸沢正令、母:貢子(桃令院
兄弟 正実本多忠貫中条信汎戸田直一正時岩城隆永正室
正室:小笠原忠徴の娘
継室:青山忠良の娘
継室:松平忠固の娘
継室:松平信順の娘
継室:酒井忠発の娘
正定(長男)、富寿(次男)、よし(島津隼彦室)、ます(米津政賢正室)、たか(岩倉具徳室)
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生涯

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天保3年(1832年)閏11月17日、第10代藩主・正令の長男として生まれる。天保14年(1843年)に父が江戸にて死去したため家督を継ぐが、幼少であったために、隠居していた祖父の第9代藩主・正胤の補佐を受けた。正胤の死後は母親の桃令院が補佐したと伝わる。弘化3年(1846年)からは家老の吉高勘解由によって藩政改革が行なわれた。

慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、はじめ新政府軍に協力したが、庄内藩に敗れて奥羽越列藩同盟に参加することとなり、新政府軍と敵対することになった。一時は庄内藩と協力して新政府軍を圧倒したが、間もなく反撃に遭った際に新庄藩は勝手に戦線を離脱し、同盟軍敗走の一因を作った。これに激怒した庄内藩は、新庄藩を敵と見なして新庄城を攻め落とした。この時、新庄の城下町は灰燼と化し、正実ら藩主一族や藩士らは命からがら久保田藩に落ち延びた。以後、新庄藩は新政府軍が反撃するまでの70日間、庄内藩によって占領された。この新庄藩の基本的に新政府方としての動向は、薩摩藩島津家出身であった桃令院の影響が大きいと推測される。

当初は新政府方を離脱したとして、裏切りを問われたが、薩摩藩の大山格之助を通じて釈明し許された。明治2年(1869年6月2日、戦線離脱によって新政府軍優位を作り出した功績を賞されて、1万5,000石を加増された。同年6月には版籍奉還により、新庄藩知事となった。城は消失していたため城下の常盤町の別邸に住んだが、明治3年(1870年)8月、新庄城の仮復旧が成り、政庁と知藩事屋敷が城内に戻った。

明治4年(1871年)7月の廃藩置県によって知藩事職を免職となり、8月には東京に移住した。1884年(明治17年)7月8日、子爵に叙爵された[1]

明治29年(1896年)8月16日に死去した。享年65。

家族

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父母

側室

  • 美重

子女

栄典

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脚注

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  1. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  2. ^ 『官報』第1351号、「叙任及辞令」1887年12月28日。
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
新庄戸沢家初代
1884年 - 1896年
次代
戸沢正己