最上 義淳(もがみ よしあつ)は、出羽戦国大名最上氏の第8代当主。

 
最上義淳
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永正元年9月9日1504年10月16日
別名 四郎五郎(通称)
戒名 龍壮寺殿天鑑春公大居士
官位 左衛門佐
幕府 室町幕府羽州探題
氏族 最上氏
父母 父:最上満氏
義定中野義建谷地輝幸
テンプレートを表示

第7代当主・最上満氏の嫡男として生まれる。父の死後、家督を継いで第8代当主となる。出羽中野氏の血を引いていたため中野氏の当主を兼ね、中野城を直轄した。次男の義建に中野氏当主として中野城を与えている。永正元年(1504年)に死去。跡を嫡男の義定が継いだ。

先代
最上満氏
出羽中野氏仮当主
次代
中野義建