エールウィン (DD-355)

ファラガット級駆逐艦
艦歴
起工 1933年9月23日
進水 1934年7月10日
就役 1935年3月1日
退役 1945年10月16日
その後 1945年12月20日スクラップとして売却
性能諸元
排水量 1,375トン
全長 341 ft 3 in (104.01 m)
全幅 34 ft 3 in (10.44 m)
吃水 16 ft 4 in (4.98m)
機関
最大速 37ノット(69 km/h)
乗員 士官、兵員251名
兵装 建造時
38口径5インチ砲5門
50口径機銃4基
21インチ魚雷発射管8門
1943年
Mk33火器管制システム
38口径5インチ砲4門
21インチ魚雷発射管8門
Mk51 ガンディレクター
ボフォース 40mm機関砲4門
エリコンSS 20mm機銃5門
爆雷投下軌条2軌

エールウィン (USS Aylwin, DD-355) は、アメリカ海軍駆逐艦ファラガット級駆逐艦の1隻。艦名はジョン・C・エールウィン大尉(1778~1812)にちなむ。 その名を持つ艦としては3隻目。

建造 編集

エールウィンは1933年9月23日にフィラデルフィア海軍造船所にて起工され、1934年7月10日進水、1935年3月1日就役した。

1935年から1941年 編集

1935年 編集

3月下旬に艤装した後ロードアイランド州ニューポートの海軍基地に移動し、8機の魚雷発射管を搭載した。試運転を終え、5月8日にフィラデルフィアに戻った。

5月22日、エールウィンはヨーロッパへ向けて出港した。ポルトガルスペインを経由し、フランスシェルブールに入港した。5日後、駐仏米国大使のジェシー・I・ストラウスがエールウィンを視察した。

次にドイツブレーメンスウェーデンヨーテボリを訪れ、その後29日にベルギーに向かった。ベルギーのブリュッセルでは7月8日の朝にレオポルド3世アストリッド女王の訪問を受けた。

エールウィンはイギリスドーバーを経由して7月22日にフィラデルフィアへ帰港し修理を受けた後、10月1日に艦隊に加わった。翌日、同型駆逐艦のハルと共に軽貨物を運搬し、5日にキューバグァンタナモ米軍基地に入港した。10月7日にパナマ運河を通過した後、バルボアで一時停泊した後、10日にグアテマラのチャンペリコ沖航空機警備隊に向かい、試験水上艇XP3Y-1(PBYカタリナの試作機)の計画航路に沿って航行した。エールウィンは10月13日に指定位置に到達し、翌朝航空機の目標位置を知らせるため発煙した。エールウィンの乗組員は12時38分に航空機を目撃し、7分後に上空を通過した。最終的にXP3Y-1は10月15日にサンフランシスコ湾に到着し、3,281.402マイル(5,280.905 km)を飛行、水上飛行機の航続距離において当時では最長となる国際記録を樹立した。

エールウィンは翌日ハルと再び合流し、2隻は19日にカリフォルニアのサンディエゴ港に入った。10月26日から29日までカリフォルニア州ストックトンを訪れた後、エールウィンは小艦隊戦術や、魚雷攻撃などの演習を行った。

1936年から1940年 編集

以下の艦隊演習に参加した。

  • 「Fleet Problem XVII」- 1936年
  • 「Fleet Problem XVIII」- 1937年
  • 「Fleet Problem XIX」- 1938年
  • 「Fleet Problem XX」- 1939年
  • 「Fleet Problem XXI」- 1940年

1941年 編集

3月19日、エールウィンは夜間演習中に同型駆逐艦のファラガットと接触、損傷を負い、乾ドックで大規模な修理を行った。

第二次世界大戦 編集

1941年12月7日の朝、エールウィンは真珠湾に係留されており、船内に電力を供給するためのボイラーが1機稼働しているのみであった。乗組員の約半数は週末の休暇を楽しんでおり、日本軍爆撃機のエンジン音は多くの船員を驚かせた。エールウィンは約半数の船員のみで、スタンレー・B・カプラン少尉指揮のもと、真珠湾を出て対空砲火を行った。対空砲の機関銃手は少なくとも3機の航空機を撃墜したと報告したが、多数の艦から膨大な対空砲撃が行われていたため、エールウィンの砲撃による撃墜であるかは確証がない。その後エールウィンは潜水艦の目撃情報のあった海域を調査したが、発見出来なかった。哨戒中、右舷付近で爆弾が爆発しスクリューに損傷を負う。12月8日に真珠湾に戻り、再び哨戒を行った後、11日に損傷したスクリューの修理を受けた。

エールウィンはレキシントンを旗艦とする第11任務部隊に配属され、12月14日にウェーク島を救援するために出航した。重巡洋艦シカゴポートランド、駆逐艦フェルプス(USS Phelps、DD-360)と共に、レキシントンの前方に停泊した。翌日、駆逐艦デューイウォーデン、重巡洋艦インディアナポリス給油艦ネオショーが加わったが、2隻の日本軍空母がウェーク島攻撃部隊に加わり、ウェーク島は12月23日に陥落した。

1942年 編集

エールウィンは、ハワイ諸島から西海岸に避難者を移送する船団の護衛として真珠湾を出港した。その後、1月の後半にオアフ島へ向かう護送船団を護衛し、ハワイ諸島へ戻った。

1月の最終日には、再び第11任務部隊に配属され、ニューギニアに向かう航行にて空母の護衛を行い、3月8日に真珠湾に帰港した。

珊瑚海海戦ではヨークタウンの護衛に就き、ミッドウェー海戦ではエンタープライズ及びホーネットの護衛として出撃した。

6月11日、エールウィンはハワイに戻る第16任務部隊から離れ、アリューシャン列島に向かう給油艦カスカスキアを護衛した。第8任務部隊の補給を行い、カスカスキアをハワイ諸島まで護衛した後、7月は船体の補修に費やした。

8月2日、エールウィンはロング・アイランド護衛のため真珠湾を出港、フィジースバで待機し、8月17日にガダルカナル島へ向け移動した。エファテ島にて数日間哨戒にあたり、8月30日にロング・アイランドをエスピリトゥサント島まで護衛した。

1943年 編集

1943年の3月までアリューシャン列島で護衛任務を遂行し、その後アッツ島の戦いに参加した。1943年の後半にはギルバート諸島を占領する作戦にて空母サンガモン及びスワニーの護衛を務めた。

1944年 編集

マーシャル諸島に移り、1月末にクェゼリンに到着し、エニウェトク及びマジュロの哨戒を行った。その後バンカー・ヒル、ホーネット、モンテレーカボットを含む第58.2任務群に配属された。3月30日から4月1日にかけて、空母機動部隊は、日本軍の飛行場や艦隊整備施設への集中爆撃を行い、その間エールウィンは空母の護衛に就いた。

4月にはニューギニア沖に向かい、アイタペの戦いタナメラ湾ヨススダルソ島への陸軍上陸を支援した後、主に太平洋での輸送船護衛を行い、8月17日にワシントン州ブレマートンに到着してオーバーホールを行った。その後、エールウィンはハワイに向けて出発し、11月11日までハワイの海域で訓練を行い西太平洋に向かった。11月21日にウルシー環礁に到着し、1944年12月フィリピン近海で行動した。

しかし12月17日のコブラ台風により船体が70傾斜し、機関室まで浸水する損害を受け、翌年1月まで修理を受けた。

1945年 編集

第50.8任務群の護衛として硫黄島に到着し、その後第54任務部隊に配属されタスカルーサを支援した。 2月23日と24日、エールウィンは硫黄島の戦いに参加し、ウルシー環礁に戻った。

沖縄戦では慶良間諸島で活動した。

退役 編集

1945年10月16日にニューヨーク海軍工廠で退役、1945年11月1日に海軍船籍から除外され、12月20日にスクラップとして売却された。

従軍星章 編集

エールウィンは第二次世界大戦中の功績により13個の従軍星章を受章した。

脚注 編集

注釈 編集

出典 編集

外部リンク 編集

関連項目 編集