ジダニ・モスト - シェンティイ線

ジダニ・モスト - シェンティリ線 (スロベニア語: Železniška proga Zidani Most - Šentilj) はスロベニア共和国ジダニ・モストスロベニア語版シェンティリを結ぶ路線である。シェンティリ駅スロベニア語版からオーストリアとの国境を越えるとシュピールフェルト・シュトラス駅ドイツ語版があり、ウィーン方面に直通する。汎ヨーロッパ回廊の10号線A支線(グラーツ - マリボル - ザグレブ)の一部を形成する。

ジダニ・モスト - シェンティリ線
基本情報
スロベニアの旗 スロベニア
起点 ジダニ・モストスロベニア語版
終点 シェンティリ
路線記号 30
開業 1846年
運営者 スロベニア鉄道
路線諸元
路線距離 108.4 km
軌間 1,435 mm
線路数 単線、複線
複線区間 国境 - マリボル区間は除く
電化方式 直流 3,000 V
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1841年に作成されたオーストリア南部鉄道の路線図
停車場・施設・接続路線
ABZg+l
南部線、Rb線
BHF
612.5 シュピールフェルト=シュトラース
GRENZE
610.4 オーストリア / スロベニア
eHST
610.1 旧シェンティイ・メヤ
TUNNEL1
エディギトンネル(235 m)
BHF
608.0 シェンティイ
BUE
道路437号
HST
604.1 ツィルクニツァ
SBRÜCKE
道路437号
BHF
600.3 ペスニツァ
WBRÜCKE1
ペスニツァ川
SKRZ-Ao
自動車道A1
SBRÜCKE
道路430号
TUNNEL1
ヒットロトンネル(665 m)
HST
595.6 コシャキ
BHF
594.0 マリボル
hKRZWae
ドラーヴァ川
ABZgr
マリボル - ホルメツ線
ABZg+r
マリボル三角線
STRo
道路1号
HST
591.3 マリボル・テズノ
STRo
道路430号
BHF
586.9 ホーチェ
SKRZ-Ao
自動車道A1
SKRZ-Au
自動車道A4
HST
583.8 オレホヴァ・ヴァス
BHF
581.7 ラーチェ
STRo
道路2号
ABZg+l
プラゲルスコ三角線
BHF
576.3 プラゲルスコ・ラーヴェ
ABZgl
オロモジュ、ブダペスト方面
BHF
575.2 プラゲルスコ
WBRÜCKE1
Laźnica
BHF
568.8 スローヴェンスカ=ビストリツァ
BHF
561.2 ポルチャーネ 262 m
hKRZWae
ドラヴィニャ川
TUNNEL1
リポグラフトンネル(238 m)
HST
552.8 ドルガ=ゴーラ
HST
550.0 オストロジュノ
BHF
545.8 ポニクヴァ・トヴォルナ
BHF
545.3 ポニクヴァ
SBRÜCKE
道路107号
ABZg+l
ストライク
BHF
541.1 グロベルノ
BHF
537.6 シェンテュル・プリ・ツェリュー
HST
531.8 シュトーレ
WBRÜCKE1
フディニャ川
ABZg+r
ラーヴァント谷線
BHF
526.9 シェリェ
WBRÜCKE1
ヴォグラニャ川
WBRÜCKE1
サーヴィニャ川
BHF
516.6 ラシュコ
WBRÜCKE1
サーヴィニャ川
BHF
509.6 リムスケ=トプリツェ
WBRÜCKE1
サーヴィニャ川
ABZgl+l
ジダニ・モスト - ザグレブ線(ザグレブ方面)
BHF
502.0 ジダニ・モスト
STR
南部鉄道(リュブリャナ方面)

歴史 編集

オーストリア帝国時代の1846年6月2日にウィーン・グロッグニッツ鉄道会社(ドイツ語: Wien-Gloggnitzer Eisenbahn Gesellschaft)によって建設されたオーストリア南部鉄道の一部としてグラーツ - シェンティリ - ツェリェ間が開業したのが始まりである。1843年7月にグラーツ - ツィリ(現在ツェリェ)間の鉄道建設が許可されて、二つの路線経路の中、現在の経路が採択された。当時に鉄道の所有権は南部帝国鉄道(k.k. südliche Staatsbahn)にあり、ウィーン・グロッグニッツ鉄道会社は運営を担当した[1]。1849年8月18日にはツェリェ - ジダニ・モストスロベニア語版 - リュブリャナ間が開業した[2]。その区間の工事は1848年革命の影響で遅延されていた[3]。1854年ゼメリング区間の開通で、ウィーンとライバッハの間に列車運行が可能となった。

1917年7月10日プラーガーホーフ駅(現在プラゲルスコ駅)で貨車に積載された機雷が爆発する事故が発生した。その爆発は並んでいた線路では軍人輸送列車と装甲列車に影響して、装甲車の爆薬ピクリン酸も爆発した。この事故で43人が死亡し75人が負傷を負って、駅区内の8線複線線路は420 m長さで破壊された[4]

第一次世界大戦後、スロベニアはユーゴスラビア王国の一部となり、シェンティリ駅がユーゴスラビアとオーストリアとの国境駅となった。

第二次世界大戦後は社会主義路線を取るユーゴスラビア連邦人民共和国の成立と冷戦の影響でオーストリアとイタリアを結ぶ列車は主にタルヴィージオ経由の路線を使用するようになった。1991年からスロベニア鉄道がこの路線を運営している。

全線が電化されており、複線化工事も進められてきたものの、(ヴェルンドルフ - )国境 - マリボル間は単線となっている。

運行形態 編集

リュブリャナとウィーンを結ぶ国際列車が当線を経由するほか、国内列車も設定されている。

  • IC: ブダペスト - ジェール - ソンバトヘイ - セントゴットハールト - グラーツ - マリボル - チェリエ - ジダニ・モスト - リュブリャナ。
  • EC: ウィーン - ウィーナー・ノイシュタット - ブルック(ムル)- グラーツ - シュピールフェルト=シュトラース - マリボル - プラゲルスコ - チェリエ - ラシュコ - ザグレブ/トリエステ。1日2往復。
  • EN: ブラティスラバ - ウィーン - グラーツ - マリボル - チェリエ - ザグレブ - スプリット。

参考文献 編集

脚注 編集

  1. ^ H. Strach (1898), Band 1.1, pp. 246~248
  2. ^ Herzogthum Krain. Die Geburtsfeier Seiner Majestät Franz Joseph I. (Schluß.). In: Laibacher Zeitung, Nr. 101/1849, 23. August 1849, S. 1, unten links. – Volltext online (PDF)
  3. ^ H. Strach (1898), Band 1.1, p. 252
  4. ^ Ludwig von Stockert (1920) (ドイツ語). Eisenbahnunfälle (Neue Folge). Ein weiterer Beitrag zur Eisenbahn Betriebslehre: Nr. 307. Wien: Urban 

関連項目 編集