ジャンボ堀(ジャンボほり、1962年9月25日 - )は、日本の女子プロレスラー。本名:堀 あゆみ(ほり あゆみ)。

ジャンボ堀
プロフィール
リングネーム ジャンボ堀
本名 堀 あゆみ
身長 180cm[1]
体重 80kg
誕生日 (1962-09-25) 1962年9月25日(61歳)
出身地 東京都武蔵村山市
デビュー 1978年12月2日
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経歴・戦歴 編集

1978年12月2日、全日本女子プロレス常陸太田市民体育館大会において、対平田二三代戦でデビュー。入門後すぐ足首を複雑骨折したため、デビューは同期にくらべ大幅に遅れた。同期には、デビル雅美がいる。

1979年 一年後輩の新人に混ざって新人王決定トーナメントに参加して優勝。

1980年 ピーター・フォーク主演のアメリカ映画「カリフォルニア・ドールズ」にミミ萩原と共に出演。

1980年12月、当時破竹の上昇気流に乗る横田利美とのタッグチームで第72代WWWA世界タッグ王座を獲得するが、シングル指向の横田の意向もあり、すぐに返上。

1981年2月、横浜文化体育館ナンシー久美と組んで第73代WWWA世界タッグ王者となる。2度の防衛後、11月に沖縄県奥武山体育館でミミ・大森ゆかり組に敗れ王座を明け渡す。

1982年1月、千葉公園体育館で空位のオールパシフィック王座をワイルド香月と争い、勝利。第7代王者となる。2度の防衛後王座を返上し、ミミとのコンビでWWWA世界タッグ王座に挑戦するが、当時の王者チーム、デビル雅美&タランチェラ組の牙城を崩せず。

1983年1984年 新たに大森とタッグチーム「ダイナマイト・ギャルズ」を結成し、デビル&タランチェラ組の保持するWWWA世界タッグ王座に挑戦。王者組の反則暴走がエスカレートし、ベルトは協会預かりに。同メンバーで、異例の3番勝負による決着が宣言される。大阪川崎と会場を移しながら1-1のイーブンで迎えた6月14日札幌の決戦も、引き分け裁定。急遽3日後の6月17日旭川大会で4戦目が行われたが、タランチェラの両膝負傷による不本意なTKO勝ちであったが、第76代王者として返り咲いた。

8月後楽園ホールライオネス飛鳥&長与千種の「クラッシュ・ギャルズ」の挑戦を受け勝利するも、少女ファンのブーイングを浴びる。強力なライバル出現で、闘いのモチベーションは急上昇。1984年1月にクラッシュの再挑戦、6月にダンプ松本&クレーン・ユウ組の挑戦を退け、最強王者ぶりをいかんなく発揮。8月に後楽園ホールでクラッシュに敗れるまで、7度の王座防衛に成功した。

1984年 ミミ萩原に次ぎヌード写真集「チャンピオン・ハイウェイ」を出版。撮影はマイク岡田。

1985年 持病の腰痛が悪化し、リング上で精彩を欠くようになる。8月、夢だった日本武道館大会では新人選手に混ざり、第一試合に出場。その後元力士との結婚を理由に引退を発表し、12月大田区体育館で引退試合&セレモニーを行う。

1998年8月14日川崎市体育館で行われたOGマッチ「メモリアル・オールスター戦〜あの時、君は強かった!!」に現役時代から現在まで交流がある親友のダンプ松本、大森ゆかりと共に発起人として参加する。

2005年8月、後楽園ホールで行われたLLPWの「立野記代25周年記念バトルロイヤル」にOGとして参加し、大森と合体攻撃を見せた。

その後、フリーとして現役復帰。LLPWなどで不定期に試合を行っている。2007年には孫が誕生し、日本人初のおばあちゃんレスラーになっている。

2020年からは、放送作家・鈴木おさむがオーナーを務める「メシ酒場 鈴木ちゃん」で勤務[2]。この縁から、鈴木が脚本担当のNetflixドラマ『極悪女王』の構成なども手掛けている[2]

得意技 編集

パワーボム
ジャンボ・スープレックス
振り子投げ

タイトル歴 編集

入場テーマ曲 編集

  • スターレディー

脚注 編集

  1. ^ 2012年11月14日付の日刊ゲンダイに掲載されたインタビューにて「(デビュー当時)身長175cmだったが会社の命令で180cm、80kgを自称させられた」と答えている。
  2. ^ a b 23歳で“寿引退”したジャンボ堀さんは今「また女子プロに関われて幸せ」|あの人は今こうしている”. 日刊ゲンダイDIGITAL (2023年9月11日). 2024年1月21日閲覧。

外部リンク 編集