ノート:セバスチャン・ベッテル/エピソードの記載内容について

最新のコメント:12 年前 | トピック:エピソードの記載内容について | 投稿者:とんこつしょうゆ

エピソードの記載内容について 編集

再三再四内容を削除している方がいますが、削除意図を確認したところ『内容に具体性なく曖昧、出典執筆者が不明、特筆性なし』との返答がありました。 まず内容に具体性がないとはどういうことでしょう?ベッテルに対してこのような評価があるということを十分に具体的に表しています。個々の事例を指して具体性などと言っているのでしたら、見当違いも甚だしいです。個々の事例など必要ありません。世界的にこのような評価があるということを記載しており、その出典は明確にされています。出典のメディアはSky Sportsが運営する世界的に最も信憑性の高いメディアのひとつであり、執筆者名がないことなど理由になりません。また、彼の現在の活躍に対して、世界的にこのような評価があることが、特筆性に欠けるとも思えません。個人的な感情での編集はおやめ下さい。--123.225.40.45 2011年8月2日 (火) 23:40 (UTC)返信

驚いたことに、Wikipedia:存命人物の伝記#悪意のある記述こんなガイドラインを持ち出してきましたが、全くこのガイドラインのどこに抵触するのか詳しくお聞かせください。まず、先に述べたように、出典メディアはかのルパード・マードック氏のニューズ・コーポレーションの傘下であるBスカイBが運営しているSkyのスポーツ部門、Sky Sportsによる世界的に最も信憑性の高いメディアのひとつです。ゴシップ誌か何かと勘違いしているのではないでしょうか?私個人の悪意など無関係です。このような評価があることが間違いない事実だということは、この世界的なメディアが責任を持って世界中に報道しているわけですが、これが執筆者個人の悪意だというのでしょうか?むしろこれは、Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#ルールの悪用に該当するかと思います--123.225.40.45 2011年8月2日 (火) 23:54 (UTC)返信


個々の具体的な事例を挙げてネガティブな内容をアップするならともかく、出典の執筆者も誰だかわかりません。明らかにWikipedia:存命人物の伝記#悪意のある記述に該当します。またあなたの書き込みはWikipedia:個人攻撃はしないにも該当します。記事の是非のみで議論してください。--122.130.216.163 2011年8月3日 (水) 00:57 (UTC)とんこつしょうゆ返信


出典に執筆者がないことなど理由になりません。問題は出典の信憑性であって、現在の出典はこれを十分に満たしています。いったいwikipediaのどこに執筆者名がないと出典として不適切だとあるのでしょうか?先に2度も言いましたが、この出典のメディアは十分信頼に足りるものです。『個々の具体的な事例を挙げてネガティブな内容をアップするならともかく』についてですが、個々の事例は必要ありませんと言ったはずです。このような評価があることを検証可能にすればいいだけであり、現在の出典はそれを検証可能にしていますし、十分に信頼に足ります。レーシングドライバーに限らず、あらゆるスポーツ選手の評価をwikipediaに記載する際に注意すべきなのは、個々の事例を具体的に書くことではなくそのような評価が検証可能な事実として存在しているかどうかです。あなたのガイドラインの解釈は、完全にWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#ルールの悪用に抵触しています。個人的な感情での編集はおやめください。--123.225.40.45 2011年8月3日 (水) 01:32 (UTC)返信


あなたの書き込みのベッテルのレーシング技術が常に疑問が持たれてるのなら、具体的な事例を挙げてください。あなたが書き込んだ内容では、抽象的で曖昧です。根拠となる出典も執筆者が不明です。在命人物の伝記にネガティブな内容を書き込むのなら、抽象的ではなく具体的な事例でなければいけません。あなたの書き込みと出典は、Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#ルールの悪用
『証拠の悪用→証拠の悪用とは、記事を作成する場合や、議論あるいは合意形成を行う場合などに、検証可能な事実や出典中立的でない方法で用い、都合のいいように利用することを意味します。これもルールの悪用に該当します。多くの場合、コミュニティ全体の見解や中立的な観点に反する自分の主張を、何とかウィキペディア上に反映させようとするときに、証拠の悪用が発生します。そのような中立的でない解釈をともなった証拠への訴求は、当然無効です。』
に抵触しています。引退したドライバーならいざしらず、グランプリによってマシンのセッティングやライバルの競争力も異なるのに、現役レーシングドライバーの記事に書き込む内容ではありません。
またあなたの書き込みは未だにWikipedia:個人攻撃はしない#個人攻撃の例
『個人の性格や経験を決めつけて攻撃する。』
に抵触しています。--122.130.216.163 2011年8月3日 (水) 02:04 (UTC)とんこつしょうゆ返信
Wikipedia:説明責任のため、ID取得しました。122.130.216.163=とんこつしょうゆです。--とんこつしょうゆ 2011年8月3日 (水) 02:35 (UTC)返信


ですからどこに執筆者名のない出典が不適切だとあるのですか?明確に提示してください。執筆者名などなくとも出典は十分に信頼できうることは明白です。『ベッテルのレーシング技術が常に疑問が持たれてるのなら、具体的な事例を挙げてください。』とおっしゃっていますが、あなたは検証の可能性をまるで理解されていないようですね。現在の出典が『ベッテルのレーシング技術が常に疑問が持たれてる』こと自体を検証可能にしているのですから、個々の具体例など提示する必要はありません。『引退したドライバーならいざしらず、グランプリによってマシンのセッティングやライバルの競争力も異なるのに』とはどういうことでしょう?これこそあなたの独自研究です。私が私見でベッテルの能力云々を述べているのではなく、そのような評価があることを検証可能にしているのですよ。現在ある評価を記載するのに『グランプリによってマシンのセッティングやライバルの競争力も異なるのに』とは的外れもいいところです。そういった貴方なりの独自研究に基づいた意見は、私ではなく出典元にでも言ってください。あなたがいくら不満に思っても、この出典元が信頼のおけるソースであることは間違いありません。信頼できるソースから引用した出典に何が問題があるのですか?わたしが個人的にベッテルの評価をしているわけではなく、そのような評価が検証可能な事実として存在しているのですよ。何か勘違いをされているのではないですか?貴方の持ち出してきたガイドライン、中立的でない方法で用い、都合のいいように利用するは、ネガティブな内容を掲載しないためのものではありません。中立な観点は出典によって十分に満たしています。

Wikipedia:個人攻撃はしない#個人攻撃の例個人の性格や経験を決めつけて攻撃する。に抵触しています。』についてですが、やはり完全に誤解をしているようですが、私個人がベッテルの評価をしているのではありません。そのような評価があるという事実を検証可能にしているだけです。貴方は検証の可能性をまるで理解できていないようですね。あなたのやっていることはWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#ルールの悪用だと気づいて下さい。--123.225.40.45 2011年8月3日 (水) 02:45 (UTC)返信

ちなみに中立的でない方法で用い、都合のいいように利用するについてですが、この場合、私がこの出典を用いて『ベッテルのレーシング技術は低い』・『ベッテルはオーバーテイクをしたことがない』などと言えばそれに抵触するでしょうけど、『ベッテルのレーシング技術が常に疑問が持たれてる』ことは出典からも検証可能であることは明白であり『都合のいいように利用』などしていませんので、人に提示する前にもう一度そのガイドラインを熟読してみてはいかがですか?それから、Wikipedia:個人攻撃はしない#個人攻撃の例について貴方はこれも完全に履き違えているようですが、これは記事になっている人物に対するガイドラインではなく、執筆者同士のいざこざを避けるためのガイドラインであり、私は一度として貴方個人を攻撃していませんので、他の方に誤解を与えかねないようなガイドラインの提示は避けて下さい。こちらのガイドラインも、合わせて熟読されることをお勧めします。--123.225.40.45 2011年8月3日 (水) 02:57 (UTC)返信


あなたが私に対して発した、「見当違いも甚だしいです」、「個人的な感情での編集はおやめ下さい」、「驚いたことに」、「あなたがいくら不満に思っても、」、「完全に履き違えている」、「気づいてください」、など、十分に煽りと挑発的な物言いですよ。なぜそんなにケンカ腰なのか理解しかねます。
本題に戻ります。出典元の抽象的な内容を、あたかも世界的な常識のように引用して、何でも載せていいというのはおかしいでしょう? それが証拠の悪用だと言ってるんです。 Wikipedia:存命人物の伝記#評論家の意見で、評論家の意見は有用と載ってますが、今回の出典元は誰が執筆者であるかも不明で、誰が書いたか分からない評価を元にして、本記事に書き込む必要性はないし、出典元の曖昧な抽象的な評価を、どうしても書き込まねばならない必要性も感じられません(→Wikipedia:特筆性)。存命人物の伝記の書き込みには、それだけ慎重にならなければいけないのです。
なお、ほかの方の意見も聞きたいのでコメント依頼します。--とんこつしょうゆ 2011年8月3日 (水) 04:02 (UTC)返信
依頼されてました・・・。--とんこつしょうゆ 2011年8月3日 (水) 04:15 (UTC)返信


ですからそれがWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#ルールの悪用だと言っているのです。Wikipedia:存命人物の伝記#評論家の意見は、評論家の意見を引用する際の注意点を記したものであり、『評論家の意見を用いるべきであり、それ以外のソースがあてにならない』などどこにも記されていません。まして執筆者名のない出典が誰が書いたか分からない評価だから出典として不適切など、wikipediaのガイドラインのどこにあるのか何度もたずねていますが明確な答えがありません。私の提示した出典は明らかに信頼のおける情報源であり、それをどのような個人が記したかではなく、情報源として信頼できるか否かが重要であり、この点において何ら問題のないソースであることは間違いありません。繰り返し言いますが、執筆者名のない出典が誰が書いたか分からない評価だから出典として不適切など、wikipediaのガイドラインのどこにあるのか明確にできないのでしたら、貴方のやっていることはWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#ルールの悪用です。また、『出典元の曖昧な抽象的な評価』とは貴方個人の意見であって、いったい何が曖昧で抽象的なのか理解に苦しみます。はっきりとベッテルのレーシング技術に疑問を呈している内容としか受け取れません。『ベッテルのレーシング技術が常に疑問が持たれてる』ことに対する出典としては十分な内容です。また、どこの文章を以って『あたかも世界的な常識のように引用して』などと言っているのでしょうか?このノートの中でその様に発言しましたが、記事本文のどこを読んだら『あたかも世界的な常識のように』誤解させるようになっていますか?貴方はどうやら、ご自分の気に入らない内容にはバイアスがかかってしまうようですね。特筆性については、現在これほど圧倒的な活躍をしていながらその様な意見、評価があることは無視できないと思いますね。特筆性がないなど断言できないと思います。--123.225.40.45 2011年8月3日 (水) 04:25 (UTC)返信

出典の内容が曖昧だと仰っていますが、しっかりとお読みになられたのでしょうか?具体的にイギリスGPでのハミルトンとの攻防を取り上げて、『彼のレース技術は依然として殆ど実証されていない』と結論づけています。ドイツGPについても、2度のコースアウトとマッサとのやり取りについて具体的に記していて、その上でアロンソやハミルトンと比較しています。これのどこが曖昧で抽象的なのでしょうか?そもそも過去のさまざまな事例を提示して評価を下すのは、wikipediaのやり方ではありません。それは、個々の事例をいくつ持ってこようとも独自研究にしかならないからです。だから信頼のおける情報源に基づいた評価が必要になるのです。評価はそれぞれのメディアが責任を持って行っていることであり、それはゴシップ誌でもない限り決していい加減な意見などではありません。--123.225.40.45 2011年8月3日 (水) 05:07 (UTC)返信


>貴方はどうやら、ご自分の気に入らない内容にはバイアスがかかってしまうようですね。→以上、IP 123.225.40.45氏の発言。

↑記事の是非のみで議論してくださいと何度もお願いしてるのに、なぜこのような挑発を続けるのですか? 議論に関係ない個人攻撃はやめてください。
本題に戻ります。繰り返しになりますが「ソースがSky Sportsで世界的に有名だから、それを根拠に何でもWikipediaに書き込んでいい」というあなたの考えこそ、Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#ルールの悪用だと言っているのです。 あなたが書き込んだ内容は何一つ具体例がなく、ソースにも『ベッテルのレーシング技術が常に疑問が持たれてる』の具体例も出ていません。あなたは具体例を示さず、在命人物の伝記にネガティブな内容を書き込もうとしています。批判するなら「(関係者や評論家など専門家の)○○が、(具体的に)×××言ってる」という文をソースと一緒に書き込むべきではないですか? そもそもペナルティを受けたとか、出場停止になったとか、明確かつ具体的な事件があったならともかく、抽象的内容の批判を載せだしたらキリがないですよ。抽象的な評価に特筆性あるとは思えませんし、あなたが書き込んだ内容Wikipedia:言葉を濁さないにも抵触します。--とんこつしょうゆ 2011年8月3日 (水) 06:17 (UTC)返信
ようやく具体例↓が出たので回答します。

>具体的にイギリスGPでのハミルトンとの攻防を取り上げて、『彼のレース技術は依然として殆ど実証されていない』と結論づけています。ドイツGPについても、2度のコースアウトとマッサとのやり取りについて具体的に記していて、その上でアロンソやハミルトンと比較しています。→以上、IP 123.225.40.45氏の発言。

↑原文に具体的なグランプリと相手ドライバーとの対決が掲載されているのなら、なぜ正しくソースから引用せず、このような曖昧で抽象的な内容で書き込んだのですか? あなたの書き込みはソースの改変ではありませんか? それ以前にわずか2戦の結果だけで『ベッテルのレーシング技術が常に疑問が持たれてる』と、匿名の批判的な評論を持ち出すあなたの考えこそが、独自研究に抵触するのではありませんか? 
なお議論が平行線なので、ほかの方の意見を聞くまで一旦私の書き込みは中断します。--とんこつしょうゆ 2011年8月3日 (水) 06:17 (UTC)返信


しっかり出典をお読みになられたのでしょうか?『ようやく具体例が出た』と仰っていますが、はじめから出典に記載されています。あなたが出典をお読みになっていないだけのことです。この一言からも、出典をまるでお読みになっていないことは明らかですね。また、先にも言いましたが、wikipediaでは執筆者が具体例を持ち出して『こうこうこういう事例があるからこういう評価が正しい』というような書き方をすることは独自研究だとされており、wikipediaのやり方ではありません。また信頼できる出典元が1つの評価を下している事例を取り上げる際に、そのソースが『わずか2戦の結果だけで』その様な評価をしている、と判断するのは貴方のバイアスだと言っているのです。この出典では、『彼のレース技術は依然として殆ど実証されていない』と結論づけています。これは今回の2戦を例としているだけであり、これまでの彼のレース技術を総括した評価といえます。とある1人の人物の評価をする際に、全ての事例がないから無意味な評価だということなどありません。では貴方は、いったい幾つの事例がこの出典に書かれていたら納得いくのですか?3つですか?10個ですか?それともベッテルが犯したミスや弱さの全てですか?

この様な評価は実在しており、その情報源は十分信頼に足りるものであるのに、情報源の記事を読みもせずに内容が曖昧で抽象的などと仰っていたとは驚きです。はじめから議論になどなるはずもありません。どういうつもりで出典を全く読みもせずにその様な発言ができ、しかも2つの出典を丸ごと削除できるのか疑問です。

『原文に具体的なグランプリと相手ドライバーとの対決が掲載されているのなら、なぜ正しくソースから引用せず』と仰いますが、何度もいいますが、この様な評価もあるという記事を書く際に、個々の事例を取り上げる必要はwikipediaにはありません。評価が存在しているということを検証可能にすれば良いのです。

それに、この様に世界的に信頼あるメディアの記事を『匿名の批判的な評論』とすること自体、貴方が過剰にベッテルを保護しようと感情的になっていることの現われであり、それに対してバイアスがかかっていると忠告することは大切なことであり、挑発などと受け取る貴方がはじめから感情的過ぎるのではないでしょうか?いったいどこが匿名なのですか?これはplanet.F1という信頼あるサイトが責任を持って世界中に配信している記事であり、匿名などではありません。それを『匿名の批判的な評論』等とすることこそソースの改変です。--123.225.40.45 2011年8月3日 (水) 18:22 (UTC)返信

ちなみにですが、出典を読んでいないという私の指摘について、また挑発的だなどと言われたくないので、【ソースにも『ベッテルのレーシング技術が常に疑問が持たれてる』の具体例も出ていません。】と貴方が明確に仰っていたことを先に指摘しておきますね。ソースには具体例は記載されています。

それから、『「ソースがSky Sportsで世界的に有名だから、それを根拠に何でもWikipediaに書き込んでいい」』と仰っていますが、やはりゴシップ記事か何かと勘違いされているようですね。何でも書き込んでいるわけではありません。彼が昨年終盤から圧倒的な活躍をする一方で、その弱点を指摘する評価があるということは、大切なことかと思います。貴方にはこの記事がベッテルを誹謗中傷しているようにでも見えているのでしょうか?私には、様々な評価がある中の、1つの正当な評価だと思います。彼をセナやシューマッハに準えるような評価もあれば、このようにまだ彼はアロンソやハミルトンにも及ばないという評価もあります。その中の1つの評価を、信頼できる情報源を元に検証可能にしているだけのことです。それを、何でもかんでも書き込んでいるかのような言い方はやめて下さい。--123.225.40.45 2011年8月3日 (水) 20:02 (UTC)返信

それからもう1つ出典をだしておきますね。[1] こちらはモータースポーツファンであればご存知かと思いますが、オートスポーツ誌です。タイトルは『抜けないベッテル”に失望の声』です。この様な評価は検証可能な事実として存在しておりますので、一応参考までに。--123.225.40.45 2011年8月3日 (水) 20:15 (UTC)返信


  • 見出しのタイトルが「エピソードの記載内容について」のままではどのエピソードのことかわかりにくいので、話し合いの主題をはっきりさせるため、見出しを表題のとおりにかえました。
  • 議論の量が増えたので、IP 123.225.40.45氏と私の意見の空間を広げました。私の意見で上げてる段落は『IP 123.225.40.45氏の発言と本記事への書き込み内容』です。
  • 私が過去書き込んだ内容で「以上、IP 123.225.40.45氏の発言」の箇所を段落上げてます。--とんこつしょうゆ 2011年8月4日 (木) 05:01 (UTC)返信

>「しっかり出典をお読みになられたのでしょうか? ~ あなたが出典をお読みになっていないだけのことです。この一言からも、出典をまるでお読みになっていないことは明らかですね。」、「貴方が過剰にベッテルを保護しようと感情的になっていることの現われであり、それに対してバイアスがかかっていると忠告することは大切なことであり、挑発などと受け取る貴方がはじめから感情的過ぎるのではないでしょうか?」、「どういうつもりで出典を全く読みもせずにその様な発言ができ、しかも2つの出典を丸ごと削除できるのか疑問です。」→以上、IP 123.225.40.45氏の発言。

↑このような煽りや挑発はここの議論に全く関係なくWikipedia:個人攻撃はしないに該当すると、何度も言ってますがわかってもらえませんか。議論の主題(あなたの書き込み)のみで話し合うことができないのなら、次からあなたの議論姿勢をコメント依頼したいと思います。
本題に戻ります。出典を全読したからこそ、あなたが出典をこのような曖昧、抽象的な内容に改変したと指摘してるんです。

>「そのレーシング技術には常に疑問を持たれている。接近戦において、攻守ともに弱さを見せることが多く、抜かれるときにはあっけなく抜かれ、遅いマシンをいつまで経ってもオーバーテイクできないということがしばしばある」→以上、IP 123.225.40.45氏の本記事への書き込み

↑とは出典元に一言も書かれてませんよ。 Wikipedia:引用のガイドライン#引用の要件には「(同一性)原則として被引用文を改変しないこと」と定められてます。

>「個々の事例を取り上げる必要はwikipediaにはありません。」→以上、IP 123.225.40.45氏の発言。

あなたの書き込みは、Wikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成に該当します。つまり↓
『もしAが信頼できる媒体で発表されており、Bも信頼できる媒体で発表されているなら、AとBを組み合わせてCという観点を推進するような記事を書いてもよいと誤解するウィキペディア編集者が、しばしば見受けられます。しかしこれは、ジミー・ウェールズの言葉を借りれば「新たな叙述あるいは歴史解釈」を生む「ある観点を推進するような、発表済みの情報の新たな合成」の典型であり、独自研究に相当します。』
今回の場合、A=Conclusions From The Nurburgring - The Vettel Myth Is Beginning To Unravel、B=PF1's Conclusions From The British GP - Silverstone Still Lacking Key Ingredientに該当し、C=あなたの書き込みに該当するのです。
それ以前に出典の記事が、自ら感想と書いてあり、そのような記事が正当な評価として出典になるとは思えません。
なおあなたが示した新たな出典は今回の議論に全く関係ありません。議論の主題と関係ない発言は慎んでください。ちなみに新たな出典にも

>「そのレーシング技術には常に疑問を持たれている。接近戦において、攻守ともに弱さを見せることが多く、抜かれるときにはあっけなく抜かれ、遅いマシンをいつまで経ってもオーバーテイクできないということがしばしばある」→以上、IP 123.225.40.45氏の本記事への書き込み

とは一言も書かれてませんね。--とんこつしょうゆ 2011年8月4日 (木) 05:01 (UTC)返信


追記。議論が膠着してるので既に出てるコメント依頼のほか、本記事に参加されたことがある方による第三者の意見を求めた方がいいと思います。何人かに連絡しますので、ご了承ください。--とんこつしょうゆ 2011年8月4日 (木) 08:00 (UTC)返信
↑履歴が多いので、過去1年以内に本記事に記入されて、IDの方に議論参加のお願いをしました。--とんこつしょうゆ 2011年8月4日 (木) 10:10 (UTC)返信


横入りすみません。Wikipedia:コメント依頼にてセクションへのリンクを使用して本議論への誘導を行っていますので、途中でセクション名が変更されると不都合があります。よって戻させていただきました。また、長すぎるセクション名もいろいろ不都合がありますので、簡潔にお願いします。--けいちゃ 2011年8月4日 (木) 08:10 (UTC)返信


けいちゃさんへ。すみませんでした。--とんこつしょうゆ 2011年8月4日 (木) 08:17 (UTC)返信


『被引用文を改変しないこと』は、文章を引用した際に適用されるガイドラインです。はっきりと、『引用するときは』と書かれています。引用する場合に適用されるガイドラインです。今回私は原文からなんら引用などしておりません。その様な評価があることを記し、それを出典により検証可能にしています。出典から文章を必ず引用しなくてはならないとはwikipediaのどのガイドラインにあるのか教えて下さい。引用した際には文章を改変してはならないとはありますが、出典を提示する際に出典元の文章を必ず引用しなくてはならないとはどこにありますか?この様にガイドラインを曲げて解釈することは、Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#ルールの悪用に該当すると何度も言っていますが、まだご理解頂けないようですね。

今までも、出典には執筆者の名前が必要であるかの様な発言を繰り返していますが、これがどのガイドラインに記載されているのかも答えていませんよね。この2点を合わせてお答え下さい。

『もしAが信頼できる媒体で発表されており、Bも信頼できる媒体で発表されているなら、AとBを組み合わせてCという観点を推進するような記事を書いてもよいと誤解するウィキペディア編集者が、しばしば見受けられます。しかしこれは、ジミー・ウェールズの言葉を借りれば「新たな叙述あるいは歴史解釈」を生む「ある観点を推進するような、発表済みの情報の新たな合成」の典型であり、独自研究に相当します。』など、またしても全くの的外れな話で、AB2つの媒体から、その2つの観点とは異なるCという観点を作り出した場合に情報の新たな合成だと言っているものであり、AもBもベッテルに対する評価は同じであり、それを検証可能にしているだけです。私の書いた記事はCという観点を作りだしたのではなく、AとBという共通する観点を検証可能にしているだけのことです。的外れな引用はおやめ下さい。『ベッテルのレーシング技術が常に疑問が持たれてる』という観点以外になんら新たな観点の合成などしていません。

わたしの記した文章がお気に召さないのであれば、その点を議論すべきであって、何の議論の提起も無しに出典を読む前から全てを丸ごと削除するような編集はすべきではないでしょう。はっきり言って横暴な編集です。

それに、信頼できる情報源であるにもかかわらず、『感想』と書かれていたから『正当な評価として出典にならない』などという断定も横暴もいいところです。評価とは常にそれを下す人の感想です。だからこそ1人の人物に異なる幾つもの評価があるわけで、定まった1つの評価しかない人物などありえません。これを記した人、これを発信しているサイトは、その見解を世界中に発信できるだけの信頼と責任があるからこのように書いているのでしょう。それを『正当な評価として出典にならない』とは横暴すぎではないですか?貴方の個人的な感情だとしか思えません。なぜこの出典が『正当な評価として出典にならない』のか、wikipediaのガイドラインに照らし合わせて明確に教えて下さい。

新たな出典が『今回の議論に全く関係ありません。』とはどういうことでしょうか?今回貴方が丸ごと削除した内容を検証可能にする出典が、なぜ議論に関係ないのですか?この出典も、『ベッテルのレーシング技術が常に疑問が持たれてる』ことを検証可能にしています。情報源をしても十分に信頼のおけるものであることは間違いありません。

私の記した文章が気に入らないのであれば、その点を議論すべきであって、『ベッテルのレーシング技術が常に疑問が持たれてる』という信頼ある情報源により検証可能である事実そのものを否定するのはおかしいのではないですか?『ベッテルのレーシング技術が常に疑問が持たれてる』ことは私の提示した3つの出典により確実に検証可能になっています。その上で、私の記した文章は中立な観点が保たれているのか、全ての部分で検証の可能性が満たされているのかなどを問うのはわかりますが、貴方は出典を読む前から文章すべてを丸ごと削除しましたよね?

私の議論方針にコメント依頼を出されるのは自由ですが、出典を読む前から出典もろとも丸ごと削除するような貴方の編集方針、また出典を読みもしないで議論している議論方針にこそ問題があると思います。はっきり言って、貴方が始めになんの意図も示さずに出典ごとリバート同然の行為をしたときに、かなり独善的でガイドラインをご存知ない方の編集だと感じましたし、もともと貴方から提起すべき議論の場を私から設けているわけですし、正直貴方に議論方針云々を指摘される覚えはありません。貴方の行った行為そのものが、それを記した執筆者に対する挑発的な行為です。私も貴方がいきなり記事を丸ごと削除するのではなく、削除意図を記すなり先に議論を提起していたら、もう少し対応の仕方も違っていたでしょう。

また私がWikipedia:個人攻撃はしないに抵触しているかのように仰っていますが、私の発言のどれがWikipedia:個人攻撃はしないのどの項目にあてはまるのか分かりません。根拠のない非難もしていませんし、貴方の人格や個性を否定したわけでもありませんし、貴方の政治的、社会的立場を決めつけて攻撃もしていません。貴方の性格や経験を決めつけて攻撃もしていません。いったいどの発言がどの項目に該当するのでしょうか?--123.225.40.45 2011年8月4日 (木) 08:45 (UTC)返信

貴方は『ほかの方の意見を聞くまで一旦私の書き込みは中断します。』と言っておきながら他の方の意見が出る前に書き込みをしていますが、この発言は撤回されるのですか?あまり無責任な発言はお控え下さい。--123.225.40.45 2011年8月4日 (木) 08:51 (UTC)返信


>今回私は原文からなんら引用などしておりません。その様な評価があることを記し、それを出典により検証可能にしています。→以上、IP 123.225.40.45氏の発言

評価が書かれてると思えません。以下↓出典A, 出典Bの日本語訳です。

出典A=Conclusions From The Nurburgring - The Vettel Myth Is Beginning To Unravel
ベッテルの謎が解明されつつある
輝かしい統計値もあるが、当てにならない数字もある。そしてすべてを語る数字がある。
別格のマシンに乗る優勝候補として、ベッテル自身、別格のドライバーである。ドイツGP前までセバスチャンは連続14戦でフロント・ローからスタートしており、彼が1位あるいは2位でフィニッシュしなかったのは昨年10月の韓国GPのみで、それも彼のミスではなかった。
ベッテルは、マシンの性能を上回ることが求められるレーサーとしてまだ結果を出していない。2009年ドイツGP以来、セバスチャンは3番グリッドより後ろでレースをスタートした場合は表彰台に乗っていないのだ。
彼は、本物のレーシングが要求されるときに、このレーシング技術があまり得意ではない。
ワールドチャンピオンシップに関しては、その欠点はほとんど問題にならない。非の打ち所のない先頭ランナーを続けている間に、彼の王冠が本当に危うくなるまで、ドライバーズ・チャンピオンシップにおける彼のリードが少なくとも25ポイントの緩衝材となる。彼は心配していないし、残るグランプリを4位あたりでフィニッシュしても、まだ安心していられるだろう。それでも、レース技術が足りないため、彼がF1の偉大なドライバーとして立候補するのは無駄な努力である。
ドイツではスタートからフィニッシュまで、彼の欠点は醜いほど露呈された。彼は凡ミスで2度コースアウトし、1度たりとも一騎打ちでフェリペ・マッサをオーバーテイクできそうには見えず、完璧とはほど遠いマシンでグリップを得ることができずに苦しんでいるドライバーという全体的な印象を常に与えていた。アロンソもやり遂げたし、ハミルトンもやり遂げた。しかしベッテルは見苦しい勝ち方を知らない。だからこそ2011年のチャンピオン候補は、偉大なチャンピオンと見なされないのだろう。
以上、The Vettel Myth Is Beginning To Unravelの日本語訳より。

出典B=PF1's Conclusions From The British GP - Silverstone Still Lacking Key Ingredient
シルバーストンは依然として重要な要素に欠けている
もうひとつ、短い感想。ベッテルが相対的に遅いハミルトンに押さえられたとき、彼は1度たりともマクラーレンを追い越すようには見えなかった。これはルイスの守りがうまく、セバスチャンの攻めがあまりうまくないことを反映しており、彼のレース技術が依然としてほとんど実証されていないという不安を思い出させる。ベッテルがハミルトンを追い越すことができず、すぐにその仕事をあきらめたのに対し、トラックが乾いてフェラーリがレースで最速のパッケージになるやフェルナンドがわずか1周でマクラーレンを抜いたことに気づかずにはいられない。
しかしベッテルの苦戦は、シルバーストンがその素晴らしいレイアウトにもかかわらず、オーバーテイクが非常に難しいサーキットであることを浮き彫りにした。前述したように、アロンソはベッテルのピットストップでの失敗がなくても、ベッテルと直接対決して勝てるだけのペースがあった。しかし直接対決で勝つためには、どこかの段階で、アロンソはオーバーテイクをしなければならなかった。それは書くのは簡単だが実行するのは難しい。そしてそのようなオーバーテイクをするためには「抜くためにピットに戻れ」という指示が必要となる可能性が高い。
訪れた人々の意見を聞くと、シルバーストンは素晴らしい会場になるために改善されつつある。しかしトラックではいつもの欠点が残ったままで、オーバーテイクができる場所が生まれるまでは、本当に偉大なトラックにはなれないままだろう。
以上、Silverstone Still Lacking Key Ingredientの日本語訳より。

あなたは出典A, 出典Bを↓

>AもBもベッテルに対する評価は同じであり、それを検証可能にしているだけです。私の書いた記事はCという観点を作りだしたのではなく、AとBという共通する観点を検証可能にしているだけのことです。→以上、IP 123.225.40.45氏の発言

と仰ってますが、出典A≠出典Bであり、内容は全く異なっています。出典A, 出典Bのそれぞれの主題は
出典A = ベッテルは見苦しい勝ち方を知らないので、2011年のチャンピオン候補だが偉大なチャンピオンと見なされないのだろう。
出典B = シルバーストンは素晴らしいレイアウトだがオーバーテイクができる場所が造られないと、偉大なトラックになれないだろう。
であって、それ以外の文章は執筆者の主題を説明する構成となっています。ベッテルの評価をしてるんではありません。
端的にいえば、
  • 出典Aは「ベッテルのその時点(2011年ドイツグランプリ)の状態に対しての感想」
  • 出典Bは「シルバーストーン・サーキットの問題点を指摘」
ということです。
あなたと私では出典の捉えかたが異なり、あなたのような解釈をする人々もいれば、私のように解釈をする人々もいます。これら以外の解釈をする人々もいます。解釈は読み手それぞれの自由です。しかし読み手により、いろいろな解釈ができる内容の一部を出典とするのは、存命人物の伝記に反してるんではないでしょうか?
ベッテルを否定する文を出典A, 出典Bから抜粋しました。太字は抽象的で曖昧な部分です。
  • 「ベッテルは、マシンの性能を上回ることが求められるレーサーとしてまだ結果を出していない。」
↑マシンの仕様以上に性能を出すのは物理的に無理です。何を言いたいのか、私にはわかりません。
  • 「彼は、本物のレーシングが要求されるときに、このレーシング技術があまり得意ではない。
↑本物の定義は? 本物があるなら、偽物もあるんでしょうか? 本物と偽物の違いは? 「あまり」とはどの程度? 「あまり」の感覚は個人差あります。
  • 「それでも、レース技術が足りないため、~」
↑レース技術の何が足りないでしょう? 一口にレース技術と言われても、いろいろ技術があります。
  • 「彼は凡ミス~」
↑どのようなミスをしたのか、説明が具体的じゃないです。wikipediaの読者は多種多様です。2011ドイツグランプリを観てない読者にも配慮すべきです。
  • 「彼のレース技術が依然としてほとんど実証されていないという不安を思い出させる。」
↑執筆者の不安がどの程度か曖昧。
と、それぞれ具体的な指摘とはいえず、読み手によりいろいろな解釈が出てきて曖昧で抽象的内容です。
在命人物の伝記には、
  • 否定的、批判的、不名誉な記述には特に厳密なソースが求められる
とありますが、ここでいう厳密なソースとは出典元(Sky Sports)だけでなく、「その内容にも厳密さが求められる」ということでしょう。読み手によりいろいろな解釈ができる曖昧で抽象的内容は、存命人物の否定的な記述に不適切なソース(出典)だと思います。
またあなたが書き込んだ内容には出典A, 出典Bにない太字の部分↓
  1. 「そのレーシング技術には常に疑問を持たれている。」
  2. 「接近戦において、攻守ともに弱さを見せることが多く、」
  3. 「抜かれるときにはあっけなく抜かれ、」
  4. 「遅いマシンをいつまで経ってもオーバーテイクできないということがしばしばある
があります。どこに「1~4の太字」と同じ意味の内容が出典A, 出典Bにあるんでしょうか?
出典A, 出典Bの一部を独自の解釈により、「1~4の太字」に改変して、本記事にあなたが書き込んだ内容は、特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成に該当してるんです。
それだけ重要な出典で「ベッテルの評価」と世界的に流布してるんであれば、英語版にも書かれてるでしょうが、「あなたが書き込んだ内容」と同じ意味の書き込みは載ってません。
以上、いままでより掘り下げて詳細に回答しました。--とんこつしょうゆ 2011年8月6日 (土) 01:08 (UTC)返信
追記↓

>出典には執筆者の名前が必要であるかの様な発言~→以上、IP 123.225.40.45氏の発言。

↑『(執筆者名)は~と言っている』と誰が執筆したか具体的になると思い、否定的な記事を書けるかもしれませんという意味で発言しました。あくまでも「~かもしれません」という可能性ですが。
↓以下は議論テーマに関係ないことの回答です。

>新たな出典が『今回の議論に全く関係ありません。』とはどういうことでしょうか?→以上、IP 123.225.40.45氏の発言。

↑議論のテーマは、出典A, 出典Bを根拠にして作成された、あなたの書き込みについて話し合ってるわけです。新たな外部リンクを出して、あなたの書き込みが正しいと主張するのは矛盾してます。

>私の議論方針にコメント依頼を出されるのは自由ですが、→以上、IP 123.225.40.45氏の発言。

「横暴もいいところです。」、「独善的」、「ガイドラインをご存知ない」、「出典を読みもしない」、「貴方に議論方針云々を指摘される覚えはありません。」と、最新のあなたの発言でもと未だに決めつける攻撃されてるんで、後ほど利用者の行為についてにコメント依頼をだします。

>出典を読む前から出典もろとも丸ごと削除するような貴方の編集方針~→以上、IP 123.225.40.45氏の発言。

「存命中の人物に貧弱なソースしかないものは、項目本文およびノートから即刻除去するべきです。」と在命人物の伝記にあるんで、削除しました。要約欄には書いてます。なんども申しあげてますが出典は読んだ上での編集です。

>貴方から提起すべき議論の場を私から設けているわけですし、→以上、IP 123.225.40.45氏の発言。

削除するほうが必ず議論を提起しなくてはいけないというルールがあるんでしょうか? また編集合戦になってしまったことですが、あなたと私の双方に責任があり、どちらか一方が悪いとは思えません。

>また私がWikipedia:個人攻撃はしないに抵触しているかのように仰っていますが、私の発言のどれがWikipedia:個人攻撃はしないのどの項目にあてはまるのか分かりません。

13行上にも書いてますし、今までの私の発言もそのたびに指摘してます。

>貴方は『ほかの方の意見を聞くまで一旦私の書き込みは中断します。』と言っておきながら他の方の意見が出る前に書き込みをしていますが、この発言は撤回されるのですか?あまり無責任な発言はお控え下さい。

あなたの問いかけがあったので回答しました。撤回しそこなっただけで無責任と言われても・・・。中断は解除します。
↑以上、これら議論のテーマに関係ないやりとりはコメント依頼に書き込みます。--とんこつしょうゆ 2011年8月6日 (土) 01:08 (UTC)返信


貴方は出典元の細かな記載についてあれこれ言っていますが、それはwikipediaのやることではありません。その出典元がある1つの観点を提示しており、その観点が存在することをwikipediaに記載した場合、その出典元を提示すればその観点が存在することは検証可能になります。その内容の単語1つを取り上げて、言うならば言葉尻を捕らえて、こいう表現だからこの出典は意味がない、などとするやり方は、明らかにWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#ルールの悪用です。問題は、その出典元そのものの信頼性であって、文章の賛否ではありません。

たとえば「彼は凡ミス~」について、ミスの詳細が書かれていないとしていますが、書かれてある必要などありません。この出典元が現在信頼できるソースである以上、その出典元はそれぞれの責任と信頼を持って報道しています。貴方がその言葉尻を捕らえて具体例が無いソースは出典にならないなどとする行為はWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#ルールの悪用にあたります。

以下、一応議論と関係ないという部分についてコメントしますね。

まず『出典は読んだ上での編集です』についてですが、先に私が指摘したとおり、貴方の発言からは出典をお読みにならずに編集したことは明らかです。 『決め付ける』のではなく、貴方の発言には、出典を読んでいたら出るはずのない言葉が数多くありました。

『出典A, 出典Bを根拠にして作成された、あなたの書き込みについて話し合ってるわけです。新たな外部リンクを出して、あなたの書き込みが正しいと主張するのは矛盾してます』についてですが、1つの記述についてその賛否が問われている際に、新たな出典を提示することは通常の行為です。何が矛盾しているのでしょうか?私が書き込んだ内容をさらに検証可能にするための出典を追加しているのに、それの何が何と矛盾するのですか?貴方は出典の意味や、議論の趣旨をご理解されているのでしょうか?なぜ出典を追加してはいけないのですか?この新たな出典も明らかにベッテルの技術に疑問を呈していることが検証可能です。

私が「横暴もいいところです。」、「独善的」、「ガイドラインをご存知ない」、「出典を読みもしない」、「貴方に議論方針云々を指摘される覚えはありません。」と発言したことに、『決め付ける』などと仰っていますが、出典を読む前から貴方がリバート同然の行為を行ったことは私が指摘して貴方の発言からも明らかです。そのようにマナーもガイドラインもご存知ないような編集をしておいて、それを咎められたらコメント依頼ですか。貴方自身のそのような行為について、貴方は一度として否を認めていませんが、そのような編集方針は咎められてしかるべきだと思いますね。

『削除するほうが必ず議論を提起しなくてはいけないというルールがあるんでしょうか?』についてですが、2つある出典を丸ごと削除するのに、何の削除意図も提示せず、議論も提起せず、しかも結局出典を読んですらいなかったわけですよね?出典を読みもせずに出典ごと削除するのでしたら、先に議論を提起するのは、ルールではなくマナーというものです。それをせずに貴方の個人的な判断だけでそのようなことをするから「独善的」だと感じたのです。出典つ付きの内容を出典ごと削除するのでしたら、明確なガイドラインに照らし合わせた削除意図を記すなり、議論を持ちかけるのが筋でしょう。それが編集のマナーだと思いますがね。それを出典を読みもせずに削除しておきながら『ルールがあるんでしょうか?』ですか・・・

個人攻撃について『13行上にも書いてますし、今までの私の発言もそのたびに指摘してます。』と仰っていますが、具体的にどの発言がどの項目にあてはまるのかお答えになられていません。

『貧弱なソースしかないものは、項目本文およびノートから即刻除去するべきです。』に従ったように仰っていますが、何度も言っているように十分に信頼の置ける情報源であることは間違いありません。

以下は貴方の書き込みですが、

『:ベッテルを否定する文を出典A, 出典Bから抜粋しました。太字は抽象的で曖昧な部分です。

  • 「ベッテルは、マシンの性能を上回ることが求められるレーサーとしてまだ結果を出していない。」
↑マシンの仕様以上に性能を出すのは物理的に無理です。何を言いたいのか、私にはわかりません。
  • 「彼は、本物のレーシングが要求されるときに、このレーシング技術があまり得意ではない。
↑本物の定義は? 本物があるなら、偽物もあるんでしょうか? 本物と偽物の違いは? 「あまり」とはどの程度? 「あまり」の感覚は個人差あります。
  • 「それでも、レース技術が足りないため、~」
↑レース技術の何が足りないでしょう? 一口にレース技術と言われても、いろいろ技術があります。
  • 「彼は凡ミス~」
↑どのようなミスをしたのか、説明が具体的じゃないです。wikipediaの読者は多種多様です。2011ドイツグランプリを観てない読者にも配慮すべきです。
  • 「彼のレース技術が依然としてほとんど実証されていないという不安を思い出させる。」
↑執筆者の不安がどの程度か曖昧。
と、それぞれ具体的な指摘とはいえず、読み手によりいろいろな解釈が出てきて曖昧で抽象的内容です。』

以上の貴方の書き込みの全てが、貴方の独自研究です。納得がいかないのでしたら、このSkySportsの運営するサイトそのものが情報元として不適格かどうかをコメント依頼でもされてはいかがでしょうか?

一応貴方のコメントの中で、あまりにもおかしいものを指摘しておきますね・・・

『↑マシンの仕様以上に性能を出すのは物理的に無理です。何を言いたいのか、私にはわかりません。』についてですが、もはや揚げ足取りでしかありません。「マシンの性能以上のものを引き出す」などというものは、「物理的事実」ではなく、その様な「表現」としてレースの世界ではごくごく一般的に使われています。

『本物の定義は? 本物があるなら、偽物もあるんでしょうか? 本物と偽物の違いは? 「あまり」とはどの程度? 「あまり」の感覚は個人差あります。』についてですが、これも揚げ足取りでしかありません。「本物」とは別に「偽物」の対義語として用いてないでしょう。文脈から「高度なレーシング技術」と訳しても差し支えないでしょう。しっかり読めば、そのような意図で書かれていることは明らかですし。「あまり」の感覚に個人差があるからこの情報元が不適切など、もはや正常な感覚で仰られているとは思えません。「あまり」とは「あまり」でしょう。

ちなみに貴方からご指摘を受けた、私の書き込みの3「抜かれるときにはあっけなく抜かれ、」と4「遅いマシンをいつまで経ってもオーバーテイクできないということがしばしばある」については、確かに私の提示した出典では検証の可能性を満たしていないように思えます。3については出典内容から検証可能と言えなくも無いですが、言葉を変える必要があるでしょう。しかし、1「そのレーシング技術には常に疑問を持たれている。」、2「接近戦において、攻守ともに弱さを見せることが多く、」については出典で検証の可能性を満たしています。もともと、議論されるべきはこのあたりなのではないでしょうか?本来議論されるべきは、検証の可能性と中立な観点であって、存命の人物云々については、その2点をさらに厳密にというだけの話であり、否定的な内容を書くなという主旨のガイドラインではありません。否定的な評価も、検証の可能性と中立な観点を信頼の置ける情報源を元に満たしているのなら、記述することに何の問題もありません。それを貴方が私個人の悪意であるかのように言うことこそ貴方の私に対する個人攻撃ではないですか?はっきり言って、今では貴方の書き込みの多くの部分が本来話し合われるべき部分から逸脱しており、論点があまりにもすりかわってしまっています。記事の詳細な単語の1つにまで言及するなど、その最たるものです。出典記事の単語1つにまで言及するようなやり方は、wikipediaのやり方ではないと思います。--122.29.195.62 2011年8月6日 (土) 03:27 (UTC)返信

IPが変わっていたようです。123.225.40.45です。--122.29.195.62 2011年8月6日 (土) 03:29 (UTC)返信


どっかのサイトの記事、それも単なる記者の感想をいちいちWikipediaに反映するな 同じ事柄に対してその感想が各人違うのは当たり前で、お前はその全てのケースを掲載するつもりなのか? ここはお前の日記帳じゃないんだぜ…そういうのはブログかチラシの裏でやってろよ--以上の署名のないコメントは、121.1.200.30会話投稿記録)さんが 2011年8月7日 (日) 14:54 (UTC) に投稿したものです。返信


いろいろ成り行きを見させて頂きましたが、何だか理責めの不毛な論戦が繰り返されているだけでページに書き込まれた内容だけでなく、この「ノート」にもWikipediaの精神が見受けられなく悲しい限りです。
人はどう捉えるか分かりませんが、この百科事典は人の善意で出来ており、それらの人々が「建設的な話」をし合いながら1つの記事を永遠に完成させていく場所がWikipediaであると解釈しています。しかし、ここには人を人としての尊厳を尊重するノーマライゼーションもなければ、単に頭のいい連中が2、3名集まって一進一退もせずに屁理屈を語っているだけです。
日本語版のWikipediaのノートでは、よく「Wikipediaのルール」だけが語られ、しばしば本来の議題すら忘れて論戦になっている記事が見られます。実はルールとは善意を文面に解釈した場合にそうなったもので、結局は全ての意味を受容すると私がここで何度も語っている「善意」に行き着いてしまいます。では、記事の善意とは?となりますが、それをルールにしてしまうとWikipedia:個人攻撃はしないWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#ルールの悪用でもあるでしょう。Wikipedia:存命人物の伝記についても人としての善意が書かれています。
つまり、確かにこのWikipediaとは全ての人が自由に執筆してよいという環境ではありますが、その執筆には一種のボランティアに近い感覚が必要であるということです。
さて、冒頭長くなりましたが、続いて幾つか変わった比喩をしましょう。


人間という生き物は、常に成功ばかりをしているとは限りません。時には失敗ばかりが続くスランプに近い状態が続くこともあります。これが我々一般人であれば伝記として書かれる事もないでしょう。しかし、これが著名な人物となると時に「批判の対象」として書かれることもある。
“WHY LIFE'S THE PITS FOR FORGOTTEN MAN JENSON”. Express.co.uk. (2007年7月29日). http://www.express.co.uk/posts/view/14939/Why-lifeWhy-life-s-the-pits-for-forgotten-man-JensonWhy-life-s-the-pits-for-forgotten-man-JensonWhy-life-s-the-pits-for-forgotten-man-JensonWhy-life-s-the-pits-for-forgotten-man-JensonWhy-life-s-the-pits-for-forgotten-man-JensonWhy-life-s-the-pits-for-forgotten-man-JensonWhy-life-s-the-pits-for-forgotten-man-JensonWhy-life-s-the-pits-for-forgotten-man-Jenson 2011年8月6日閲覧。 
これは、イギリスのタブロイド紙であるデイリーエクスプレスが書いたバトンに対する批判です。バトンを「忘れさられた男」と題して、12ヶ月前(2006年ハンガリーグランプリの事)はデイモン・ヒル以来の素晴らしく有望とされるドライバーであると絶賛されていたのに「落ちたヒーロー」とか「カス」とかかなり酷評されて書かれています。(この記事が本題ではないので、内容の大半は割愛します)
しかし、その後の彼の活躍は我々の知るところだと思います。2007年2008年のバトンは確かに不毛だった。ところが、ブラウンGPでワールドチャンピオンになり、2010年にはマクラーレンに移籍。この当時まではハミルトンに対して太刀打ち出来るのか?と疑問視されていましたが、結局は彼は素晴らしくタイヤマネジメントが出来る戦略を立てれるドライバーであると評価され、2011年現在での彼の一般的評価は絶大なものになっています。では、そんな彼のライバルであるハミルトンはどうでしょうか?実は彼も批判の対象になっています。


“「悪い見本」「なってない」…ハミルトンへの批判”. AUTO SPORT web. (2011年6月14日). http://as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=34285 2011年8月6日閲覧。 
これはイギリスのレース界では神様(生き仏)的な存在であるスターリング・モスの発言です。ちなみに著名な人物のハミルトン批判は1992年のF1世界選手権でワールドチャンピオンになったナイジェル・マンセルもバトンを引き合いに出して「ハミルトンはバトンほど成熟していないドライバー」であると批判しています。
で、本題ですが、これらがWikipediaに書かれたか?そして、ここで理責めの如く出される「特筆性」という観点から果たして書くべき内容であるか?ということです。
上のリンク?ええ、イギリスでは非常に有名なタブロイド紙ですよ?
下のリンク?ええ、イギリスでは住所を書かず「スターリング・モス」と名前だけ書けば手紙が届くと言われているほど有名な人物の発言ですよ?
ほかの批判?ええ、例えばデイモン・ヒルが1996年にワールドチャンピオンとった時、ほとんどの人が彼を優秀なドライバーだと思わなかったくらい、批判されてましたよ?もちろん、今現在Wikipediaに書かれている内容以上の批判です。あんな生易しいもんじゃないですよ。ミハエル・シューマッハも1991年のベルギーGPの後、フラビオ・ブリアトーレに引き抜かれた時、今現在Wikipediaに書かれている内容以上に批判されてましたよ?
けど彼らは全て「偉人」なんです。時には人は評価を落とす時期もあるが、それは一時的なものであると解釈すべてであると思います。
私は不毛な論戦は嫌いですので、敢えて122.29.195.62さんがおっしゃるように「人物批判」に関して書きましたが、なぜこのように私が書いたか?という意味を汲み取っていただければ幸いです。又、Wikipediaの正しい使い方に気づいて頂き、他の方が読まれて幸せになれるよう、又、読まれた方が喜んでいただけるような知識の入口としての役割を担う内容の記事を多く書いていただける事を願います。--英國紳士 2011年8月6日 (土) 13:19 (UTC)返信


まず、『どっかのサイトの記事、それも単なる記者の感想をいちいちWikipediaに反映するな同じ事柄に対してその感想が各人違うのは当たり前で、お前はその全てのケースを掲載するつもりなのか?ここはお前の日記帳じゃないんだぜ…そういうのはブログかチラシの裏でやってろよ』という荒らしについてコメントします。『同じ事柄に対してその感想が各人違うのは当たり前』と仰っていますが、人物評価とは常にそういうものです。これを言い出したら、どのような出典を持ち出そうが、どのような専門家や評論家の見識を持ち出そうが、全く意味の無いことになります。wikipedia内での人物評価とそれに対する出典の殆ど全てが意味をなさなくなるでしょう。それぞれの異なる人物や出版元からの感想の信頼性を問い、同じ事柄に対してそれぞれ異なる感想を持つ信頼のおける情報元を組み合わせて構成されているのがwikipediaです。『お前はその全てのケースを掲載するつもりなのか?』など、屁理屈ですね。全てのケースなど掲載する必要はありません。1つの評価に対してそれを検証可能にする出典があればよいだけのことです。また、それによって記事の量が増えすぎるようなことがあるなら、それはそのときに議論すればよい話で、今からまるで私が批判記事の全てを書き込む気でいるかのような妄想はおやめ下さい。『そういうのはブログかチラシの裏でやってろよ』については、そっくりそのままお返しします。

英國紳士さんが提起してくださった、「特筆性」についてですが、このような人物評価について議論する場合、ファン心理から過剰に保護するケースがあるので、『あえて削除する理由』について考えるべきかと思います。ベッテルは今ではF1界の中心人物の一人であり、昨シーズン後半から圧倒的な強さを見せ、セナやシューマッハと比較する評価もあります。すでに昨年チャンピオンを獲得し、PPの獲得回数ではシューマッハを除けば現役最多となるドライバーです。そのような現代を代表するドライバーとなった現在、1つの評価を記す「特筆性」はあると考えます。そのような評価が存在することが検証可能である以上、『あえて削除する理由』はないかと思います。また、セナやシューマッハと比較するような声を敢えて記さないのは、こういった評価は才能あるドライバーが現れたときには常に出てくるもので、ありふれていてあまり意味が無いからです。大きな意味があるとは思えません。しかし、今回私が提示した出典は、彼のF1でのキャリアに対する評価であり、ベッテルのレース技術が未熟だと判断しています。数多くの最年少記録を樹立し、すでにタイトルを獲得し、記録的な活躍をしているドライバーに対する評価としては、無視できない声だと思います。

『一時的な評価だから今は評価すべきではない』というのは個人的には疑問です。評価が確立した、と判断することは実際には無理なことで、例えばあのミハエル・シューマッハでさえ、いまだにその評価は変化しつつあります。ベッテルに関しては、このあと大きく評価を上げることもあれば、下げる可能性もあるでしょうが、その評価が定まるときというものは分かりませんので、『評価が定まるまで待つ』というスタイルは疑問に思います。例えば、アイルトン・セナの場合、『若いころはこうだったが、いついつ頃からこのように変化が見られた』というようなスタイルで書かれていますが、それでよいのではないでしょうか?ベッテルについて今は私が書き込んだ様な評価があることは事実として検証可能です。今後ベッテルがこれを覆すような活躍をしてその様な評価が出てこれば、『いついつ頃はこの様な評価もあったが、いついつ頃からこのように変化が見られた』というようなスタイルに変更していけばよいと思います。つまり、評価に対して『一時的』という表現自体が不適合であり、最終的な評価というものも『一時的な評価』の積み重ねの結果にすぎません。実際には『最終的な評価』等というものは存在しえないわけですから、そのときそのときにある検証可能な評価を記していけばよいかと思います。それが時間を経たときには、記述する必要のないほど些細な評価に変化してゆくこともあるでしょう。それはそのときにまた議論されればよいことかと思います。--122.29.97.13 2011年8月6日 (土) 19:12 (UTC)返信


考え方としてはそれも1つだと思います。個人的にはノートという場はブレインストーミングが出来る場として使用したいので。
又、おっしゃるような検証が出来る環境もあるでしょう。確かに二次情報で日本語訳すれば近い解釈が出来る事が書かれていますし、CS版もBBC版も見ている私としては(※:これはWikipediaとしてふさわしくないですが)一次情報でもベッテルがレーススタート後にトップを走行すれば独走するものの、2位以下に沈んだ場合に「彼はライバルをオーバーテイクするのが苦手なのでは?」とか、ファイナルラップにバトンの猛追に遭い、ミスをしてコースオフを喫してバトンが優勝した事で「彼はプレッシャーに弱いのでは?」など囁かれたりしているのも知っています。
ただ、それを記事にするべきか?ということです。私は記事とは冗長になっても構わないと思う派です。したがって、私は記事を圧縮したり短縮したりする(可読性としての意味はいいかもだが)事はあまり良くないと思っています。ですから、正確な情報ならばそれを記事の内容として採用したほうが「その記事」を読んだ人がよりその「物・者・モノ」を詳しく知り得て、読んで知った事によりその読者がさらにそれを知ろうとするきっかけになるならばそれは「善意」で書かれた記事であると思います。
だから、それを果たして記事の一部として採用すべきでしょうか?という疑問符もでてくるわけです。
さらに、余談ですが私的な考えを出すならば、このベッテルという記事は私が訪れる度に常に編集保護になっています。これも私はあまりこの記事に対していい環境ではないと思います。私がジミー・ウェールズが求めるWikipediaの執筆スタイルを解釈すると「比較的その記事に対して知識がある者同士で記事を完成させていく。もちろん、その文面には間違いも中にはあるかもしれないので、それは気づいた人間が修正していく。批判的な内容のあるかもしれないが、それも気づいた人間が少し中立的に修正していく。逆に強調しすぎて商業的に見える記事もあるかもしれないが、それも気づいた人間が少し中立的に修正していく。そうして、いろんな考えの人間が「善意」の下に書いていくと、不思議と上手くいくのがWikipediaである。」と思ってます。
この問題は確かに真実に近い内容かもしれない。しかし、それを書く事が果たして「善意」であるか?という前述にも書いた記事として採用すべきか否か?という事に戻ってきます。
あと、もし自分がこの事を記事として書くならばエピソードではなく『セバスチャン・ベッテル#2011年』に書くべきと思います。なぜならば記事として議論の対象となっている脚注URLはドイツGPとイギリスGPについて書かれている内容のものだからです。あくまで例ですが

開幕戦オーストラリアGPではポールポジションから優勝し、続くマレーシアGPでも同じくポールトゥウィンを記録した。中国GPでもポールポジションを記録したが、ハミルトンに競り負け2位となった。ポールポジションは第4戦トルコGPまで連続4戦記録し、第5戦スペインGPで今期初めてフロントローに沈んだ。その後もシーズンの折り返しとなる第10戦ドイツGPまでにさらに3回のポールポジションを記録し、開幕戦から数え計7回のPPを獲得し、6回の優勝(内、ポールトゥウィンは5回)というシーズン前半ではほぼ独走した戦績を記録している。しかし、第9戦イギリスGPの頃からマクラーレンフェラーリといったライバルチームのアップデートが追いついた事もあり、レースでの戦力が均衡しイギリスGPから優勝を逃している。又、前述のようにライバルがより強力になった事と、2011年の優勝のほとんどがポールトゥウィンを飾っての勝ち方だった事などから「ベッテルは実はオーバーテイクが苦手なのでは?」と囁かれたり[1][2]カナダGPのファイナルラップでもバトンにあっさりとかわされた事で「ベッテルはプレッシャーに弱いのでは?」としばしばドライビングスタイルが賛否両論を巻き起こす結果となった[3]

・・・とかこんな感じ使うなら今後変化していくであろう評価の過程を示す意味ではいいかもしれませんが。又、本来「エピソード」とは
  1. 小説・劇などで本筋の間にはさむ、本筋とは直接関係のない、短くて興味ある話。挿話。
  2. ある人について、あまり知られていない興味ある話。逸話。
で、もちろん「ある人について、あまり知られていない興味ある話。逸話。」という意味で使われているんですが「本筋とは直接関係ない話」という意味も含めているという事を念頭にすべきです。したがって、掲出されたリンクを直接エピソードとして使用すると、かなり批判的な色が濃い文面に見えてしまうという事も理解していただければありがたいです。もちろんこれらの事は「もし、個人的に記事として採用するなら」が前提で書きましたので、実際にこういう記事を書くか?といったら編集保護が解除されてもどうか分かりません。個人的にはあまり有名ではない方やチーム、F1のルールなどを編集するほうが好きですので。--英國紳士 2011年8月7日 (日) 01:37 (UTC)返信


121.1.200.30さん、英國紳士さん。コメントありがとうございます。エピソードの定義は英国紳士さんの仰るとおりだと思います。また121.1.200.30さん、英國紳士さん、私とそれぞれ表現のしかたは違いますが、この内容を特筆する必要性があるのか、と疑問を示しています(Wikipedia:特筆性)。なお英國紳士さんが記事案を提示してくださいましたが、以下は英國紳士さんの記事案をベースにした私の案です。
開幕戦オーストラリアGPではポールポジションから優勝し、続くマレーシアGPでも同じくポールトゥウィンを記録した。中国GPでもポールポジションを記録したが、ハミルトンに競り負け2位となった。ポールポジションは第4戦トルコGPまで連続4戦記録し、第5戦スペインGPで今期初めてフロントローに沈んだが、決勝では2位からピットストップでアロンソの前に出て首位に立ち、終盤ハミルトンに真後ろに迫られたが、そのままポジションを守り優勝した。第6戦モナコGPで2回のセーフティカー導入と1回の赤旗中断があったがポールトゥウィン。第7戦カナダGPもセーフティーカーが5回の出動や、豪雨により2時間のレース中断で首位を守っていたが、レース再開のファイナルラップのターン7でコースアウトし、真後ろにいたバトンに抜かれ、2位となった。第8戦ヨーロッパGPでは再びポールトゥウィン。第9戦イギリスGPではポールポジションからスタートしたが、2回目のタイヤ交換で左リアの装着に時間がかかり、一旦首位から3位に落ちたが、1位アロンソに続く2位となった。第10戦ドイツGPでは予選3位からスタートしたが、序盤は真後ろにいたアロンソと抜きつ抜かれるのバトルをした後、9周目のターン10でコースアウトし、中盤は一時5位まで落ちたが、4位となった。ウエットとドライが入り混じる第11戦ハンガリーGPではポールポジションからスタートした。ハミルトン、バトンに抜かれ2回目のピットストップで一時4位に落ちたが、アロンソを抜き3位に戻ったあとに小雨が降り出し首位のハミルトンがスピン。ベッテルは小雨の中をドライタイヤでコースに残り、1位バトンに続く2位となった。
と、淡々と事実を書けばいいと思いますが、いかがでしょうか。--とんこつしょうゆ 2011年8月7日 (日) 14:54 (UTC)返信
追記
122.29.97.13氏はまたIPが変わったみたいですね。Wikipedia:説明責任のためにもIDを取得してもえませんか? それと前のIPの会話ページにもご連絡しましたが、コメント依頼を出したことをお知らせします。--とんこつしょうゆ 2011年8月7日 (日) 14:54 (UTC)返信


ですね。正直この議題となっている例の批判ともとれる文は記事として採用すべき内容ではないと私は思っています。そして、とんこつしょうゆさんが提出されているような案が最も記事として適切でしょう。確かに記事に面白みを付けるには特に人物像に「エピソード」というものを用いて人間性を表現するのが最も手っ取り早い手段とは思います。しかし、彼らF1ドライバーはスポーツ選手であり、記事としてすべく内容は「競技記録」を主とすべきだと思うんですよ。

2011年ドイツグランプリでは予選3位で、決勝は4位だった。2011年ハンガリーグランプリでは予選1位で、決勝は2位だった。

これが本来の競技記録であり、本来の事実であり結果です。しかし、単に結果だけを書いてしまうとこれでは文面に全くもって面白みがない。だから、その競技の内容や展開が描かれる。もちろん、これは一次情報に限りなく近いんでこういった文面はちょっとグレーゾーンなんですが「レース展開の特筆性」と個人的には解釈しています。それを採用すると、前述のとんこつしょうゆさんが書かれた通りの文面になります。

第10戦ドイツGPでは予選3位からスタートしたが、序盤は真後ろにいたアロンソと抜きつ抜かれるのバトルをした後、9周目のターン10でコースアウトし、中盤は一時5位まで落ちたが、4位となった。ウエットとドライが入り混じる第11戦ハンガリーGPではポールポジションからスタートした。ハミルトン、バトンに抜かれ2回目のピットストップで一時4位に落ちたが、アロンソを抜き3位に戻ったあとに小雨が降り出し首位のハミルトンがスピン。ベッテルは小雨の中をドライタイヤでコースに残り、1位バトンに続く2位となった。

・・・ということです。この内容に例の批判文を組み合わせることで、果たして書く人間にとっても読む人間にとっても良い記事になるのか?という事も全く見えてきません。というか、他言語版を見てもわかると思いますが「キンキーカイリー号」みたいな内容や「ポストシューマッハ」のような内容はベッテルのエピソードとして書かれていますが(実際にエピソードとして相応しいと思います)、前述のような批判的な内容はやはり書かれていません。そして、人間性を描く事の肉付けもされてはいますが、やはりスポーツ選手として実際のレースがどういったものだったか?ということをベッテルを中心に書かれています。これこそがWikipedia的な「真実を書く」という事ではないでしょうか?--英國紳士 2011年8月7日 (日) 15:43 (UTC)返信


英國紳士さんが最初に提示してくださった記述例でしたら、私も納得です。今回あえてエピソードに書き込んだのは、『評価』などの項目を仰々しく作るほどでもないと感じたからですが、2011年の出来事として記述するのは良い形だと思います。(『賛否両論』という表現については賛同する声も出典として必要になってくるでしょう。)

しかしとんこつしょうゆさんの書かれた文章では、個々の事例だけを淡々と書き込んでいるだけで、私が提示した評価が存在する事実を完全に無視しています。今回は個々の事例の話をしているわけではなく、これでは論点のすり替えです。今回私の記述のテーマとなっているのは、『ベッテルはレース技術に疑問がもたれている。』という事実です。

競技記録』を軸にと仰られていますが、この様な評価は彼のパーソナリティーを現しています。スポーツ選手の記事にどうして常に評価を伴う記述が見られるのかは、好意的であれ批判的であれ、技術的な評価というものはスポーツ選手にとってはパーソナリティーの一部だからではないでしょうか?

それから今回の記述に対して、『批判する記事』という書き方をされていますが、批判というより私には『弱点を指摘する記事』と受け取れます。抜くことや守ることが苦手だということは、もはや彼の個性として認識されつつあるということであり、これは無意味に不当に批判しているわけではなく、彼のパーソナリティーの一部を捉えた正当な評価だと思います。Planet-F1の記事とオートスポーツの記事3点を持ってすれば、彼のドライビングに対してその弱点を指摘する声があることは十分に検証可能でしょう。

もう1度言いますが、英國紳士さんが最初に提示してくださった記述例でしたら、私も賛成です。

それから、とんこつしょうゆさんコメント依頼ありがとうございました。現在1件のコメントがありますが、『とんこつしょうゆ氏の初期対応に大きな問題があった』と仰ってくれているようです。--122.16.109.71 2011年8月7日 (日) 23:11 (UTC)返信

すみません、またIPが変わっていたようですが、これまでのIPと同じ人物です。--122.16.109.71 2011年8月7日 (日) 23:13 (UTC)返信


122.16.109.71さん。EULEさんがおっしゃったコメントはもっと深い意味があると思います。確かに誰もが人格を否定することは良くないし、やはり「受容と傾聴」というものがどのような場面でも重要であることは私も思います。
これと別にEULEさんのコメントは3割方から5割は実は貴方にもおっしゃってるんですよ。
結局、上記前述の文面も他者のコメントに同調して都合の良い解釈(つまりは揚げ足取り)で返している。これがEULEさんがおっしゃった「売り言葉に買い言葉」なっているとまだ気付いていませんか?これの繰り返しが双方がやれ水掛け論だといったり、やれ個人攻撃だといったり・・・堂々巡りになってしまうんです。
さて、こういった話は置いといてですが、私は自分が書いた文章はパブリックドメインだと思っていますので、122.16.109.71さんがそのまんま引用していただいてぜんぜん構わないです。ただ、私はあの文章をこのセバスチャン・ベッテルという記事に書こうとは思いません。理由は私が再三言っている「善意」です。私がもしあれを書くならば、私は私自身の中に悪意を感じます。ベッテルを知りたいと思っている人にも、他の言語の世界で日本語に関心がある方がベッテルは日本でどのように思われているのだろうか?とその外国人が翻訳を試みた時、その意味が分かった瞬間にどのような顔をするか?考えたならば、私にはそれを載せる事が出来ません。
私が話した限り、122.16.109.71さんはあのリンクに悪意は感じられないということと、それを掲載することが「善意」であると思ってらっしゃるようですので、もしそうであれば私に止める権利はありません。前述のように私が書いた文章を引用されて掲載されれば宜しいでしょう。しかし、他の方にも貴方とは違った形で「善意」があることを理解してあげてください。
私の予想ですが、恐らく多くの方はその記事の一部を除去したり削除することを善意であると感じていると思います。もちろん貴方と同じ価値観の善意の方もいらっしゃると思いますが、善意によって書き込まれる文面もあれば、善意によって除去される文面も同時にあるということも理解してください。
そして、その論戦の果てがいま我々が書いている議題の進行状況でもあり、編集保護が解除されれば同じようになるかもしれません。その時、我々に出来ることはどうか理責めで頭でっかちにならず、とにかく相手の話も聞いてあげることです。私に出来ることもそのくらいです。--英國紳士 2011年8月8日 (月) 12:22 (UTC)返信


英國紳士さん、コメント依頼の件、仰るとおりだと思いますよ。私ととんこつしょうゆさん双方の行動に問題があるのでしょう。だからこそ、一方的に私に非があるかのようにコメント依頼されたとんこつしょうゆさんに、ご自身にも非がある意見があったということを認識してほしくて言っているのです。何もこの1つのコメントのみを元に「自分は間違ってない、貴方が間違っている」などと言うつもりはありません。別に「同調して都合の良い解釈(つまりは揚げ足取り)で返している。」わけではなく、とんこつしょうゆさんご自身に、とんこつしょうゆさんの行動の不都合を指摘する声があることを分かってほしいだけのことです。一方的にわたしに非があるかのようにコメント依頼された時点で、とんこつしょうゆさんにはそれが全く分かっていないと思いますので。

「売り言葉に買い言葉で被依頼者の言動が個人攻撃に抵触しないとは思わない。」というEULEさんのコメントは真摯に受け止めていますが、しかし「EULEさんのコメントは3割方から5割は実は貴方にもおっしゃってるんですよ。」というのはいかがでしょうか・・・・他者のコメントをそう断定的に言われてましても、仮に実際にそうだったとしても、これこそ「都合の良い解釈」になってしまいませんか?

いづれにしろ、私ははじめから双方のやり取りに問題があることは認識しています。なので、「私も貴方がいきなり記事を丸ごと削除するのではなく、削除意図を記すなり先に議論を提起していたら、もう少し対応の仕方も違っていたでしょう。」と先に述べました。

本題に戻りますが、英國紳士さんの仰る「善意」は、wikipediaで言われている「善意」とは少々異なる物のように感じるのですが、どうでしょうか?wikipediaでいう「善意」とは、先に英國紳士さんご自身が仰られたとおり、「ボランティアに近い感覚が必要であるということ」に他なりません。しかし今回のコメントを拝見すると、「批判的な記事を読んだ人がどのような顔をするか?」という主旨の発言がありますが、これを考慮すると「みんなが不愉快にならないような内容を書く」ということが善意だということのように見受けられます。これは、「ボランティアに近い感覚」とは全くの無関係なのではないでしょうか?今回はスポーツ選手の記事ですが、ファンというのは批判的な評価は受け入れがたいものでしょう。しかし、不当に誹謗中傷する内容でないのならば、それはその選手のパーソナリティーを現すために大切な側面ではありませんか?これはwikipediaを執筆する精神で言うところの「善意」とは無関係に思えます。私は今回の内容を批判的というより、圧倒的な活躍をする彼にも弱点が存在するという個性を指摘する記事であり、記すことにより読者はより多くのベッテルのパーソナリティーを知りうることができると思います。こうした多角的な視点を提供することが「善意」なのだと思っております。その選手に都合の悪いこと、ファンが眉をひそめるような内容を記さないことが「善意」だとは思えません。--122.16.109.71 2011年8月8日 (月) 13:01 (UTC)返信

まず今回の記事を「批判的な記事」と定義づけることから私は違和感を覚えます。「ネガティブな側面を指摘した評価」であり、なにもベッテルを批判している記事だとは思えませんので・・・これを批判的と捉えるのは、少なからずファン心理が働いているように見受けられてしまいます。

こういった、ネガティブな側面というものを全て排除していくことが「善意」なのだとしたら、wikipdiaでは、より正確な人物像を示すことができなくなるのではないかと思います。不当な誹謗中傷などは削除されて然るべきですが、今回の出典はそれには当たらないと思います。私は、1人の人物の記事については「より多角的に捉えた正確な人物像を示すこと」が要求されると思っております。たとえある種の読者にとって受け入れ難い内容であっても、それが検証可能な事実であれば、読者にそれを提供することが「善意」だと思います。--122.16.109.71 2011年8月8日 (月) 13:21 (UTC)返信


英國紳士さんへ。私の原稿案に同意いただきありがとうございます。
122.16.109.71さんへ
私が書いた原稿案にはベッテルの具体的ミスを書いてます。ですからファン心理どうこうは関係ないんですよ。それとくりかえしになりますが、今回の出典は『「ベッテルはレース技術に疑問がもたれている。」と(一部のマスメディアやF1関係者に)見られている』という報道の事実があるだけで、ベッテルのレース技術に否定的評価があるということではないんです。
↑これを私は出典を執筆した人の感想と既に上で書き込みましたが、これがIP122.16.109.71さんが主張する評価という考えと私では認識の違いがあるわけです。
で、問題の評価ですが『技術的評価』は確かにスポーツ選手の一部だと思いますよ。ほかのスポーツでは「プレースタイル」「選手としての特徴」などを独立した節で掲載されてますから。以下リオネル・メッシのプレイスタイル(選手としての特徴)節です。

身長が低いが、スピードに優れ、クリスティアーノ・ロナウドと変わらぬスピードを持ち、高いパスセンスも持つ[1]

相手DFのマークを外すための技術を持ち、MFとしてもWGとしても、そしてCFとしても対応できるなど適応力も高い。身体的にも強靭で、自分より大きなDFにも対応できる。こぼれ球の処理にも秀でている[2]

メッシ自身は自らのプレーがラ・マシアで培われたバルセロナのスタイルに起因するところが大きいとし、また直感を重視して本能的にプレーしていると述べている[3]
  1. ^ 選手名鑑 【アルゼンチン】リオネル・メッシ jiji.com
  2. ^ リオネル・メッシ FCBARCELONA.JP
  3. ^ メッシ「バルサのスタイルは、まるで僕のために作られたかのよう」Livedoorスポーツ 2011年4月4日

内容は「スピードに優れ」、「高いパスセンス」など抽象的表現がいくつかありますが、出典があるので問題ないと思います。仮にこのメッシのプレイスタイル節が否定的評価なら、この内容ではNoだと思います。というのはいままで再三申し上げてるとおり、厳密なソースではないからです。各出典はSky Sportと同様にそれぞれ信憑性の高いメディアですが。
否定的評価なら全ての読者が同じ理解できるような表現、つまり内容に具体性が求められるべきだと思います。それが在命人物の伝記に求められる厳密なソースだと思います。この厳密なソースの認識違いがIP122.16.109.71さんと私の間にあるので、合意できないのでしょう・・・。
ではどのような否定的評価ならいいのか?ということになりますが、以下はマイケル・ジョーダンのプレイスタイル(選手としての特徴)節にあった否定的評価です。
一方で、長距離シュートを担うことが多いSGでありながら、3ポイントシュート試投数、成功数はあまり多くなかった。成功数が100本を超えたのは1995-961996-97の2シーズンのみである。名シューターと呼ばれた選手の多くがキャリアで1000本以上を記録する昨今において、ジョーダンの通算成功数は581本(レギュラーシーズンに限る)と決して多くなかった。
内容は1,2試合の試投数、成功数の数値データではなく、シーズン単位の数値データが示されており、ジョーダンの3ポイントシュートの技術的評価を否定的に掲載しています。この内容なら全ての読者は同じ理解ができると思います。
否定的評価を執筆する場合に大事なことは、その否定的評価が何を根拠にしているかではないでしょうか。何をは今回のケースの場合、出典が「世界的に信憑性の高い出版社やサイト」などではなく、否定的根拠とする具体的内容、つまり数値データが一番具体的だと思います。これがWikipedia:存命人物の伝記で意味する、厳密なソースを元に執筆された否定的評価ではないでしょうか。ですから今回の出典を根拠に、『技術的評価』とするのは賛同しかねるんです。
ちなみにプロジェクト:スポーツ人物伝#選手の身体や技術の能力についてには
  • 選手が所属する競技機関や競技規約が能力の基準を設けている場合はそれに準じ、どの基準における定義であるかを明確に記述する。
とあります。
能力の基準というのは、F1の場合は優勝数(更に分類するならサーキット別やパーマネント・公道の区別、グリッド何番手からスタートしたとか)、PP数、FL数やウェットレースでの優勝数などになると思います。ベッテルに限らずF1ドライバーのプレイスタイル(選手としての特徴)節をもし編集するなら、以上のような情報を盛り込んで執筆すべきでしょう。そして仮にウェットレースに優勝していなければ、それで雨が苦手と執筆するのではなく、ウェットレースでは優勝していないということを書けばいいのではないでしょうか。もし特定のドライバーのみが持っているレーシング技術(セナ足とか)があるなら、出典ともに書き加えればいいと思います。
スポーツ人物伝には「これらの提案に従う義務があるなどと感じたりするべきではありません。」と記述されておりmustではないですが、十分に参考できるテンプレートだと思いますし、多くのスポーツ選手がこのテンプレを元に執筆されてます。
IP122.16.109.71さんが「より多角的に捉えた正確な人物像を示すこと」と仰ってますが、そのとおりだと私も思います。Sky Sportも信頼できる情報源だということは何度も言ってきました。しかし、何度も申し上げてますとおり在命人物の伝記に否定的内容を執筆するときは、具体的な根拠を元にするというのが、Wikipedia:中立的な観点に則った編集姿勢だと思いますがいかがでしょうか?
そして英國紳士さんが、
と、そのつど表現を変えながらも第三者として、くりかえしご指摘されてくれてることなんだと思います。--とんこつしょうゆ 2011年8月8日 (月) 15:25 (UTC)返信
追記
コメント依頼を出した目的は、不毛な議論を続けるより第三者に客観的に判断してもらうほうがいいと思っただけです。議論テーマに関係ない是非はそこで判断してもらえればいいわけですから。なお、コメント依頼やここで申し上げてるとおり、全保護になった原因はIP122.16.109.71さん、別のIPさんと私の3人に責任があると思ってます。いずれにしてもこの件についてはコメント依頼の場で発言してくださるようお願いします。--とんこつしょうゆ 2011年8月8日 (月) 15:25 (UTC)返信


122.16.109.71さん。そうお感じになられたのであれば、謝ります。
とにかく、少しお互い譲り合ってはいかがでしょうか?私やとんこつしょうゆさんがおっしゃってる事を要約するとこうなります。
1)Wikipedia:善意にとる
まず、ここにいる我々は同じ「セバスチャン・ベッテル」を執筆する人間なんです。もちろん、私にも他のユーザにも様々な興味があるでしょうから、いろんなものを執筆されていらっしゃるでしょう。だからこそ加筆や更新をされることは我々は歓迎しているんです。しかし、同時に間違った方向に進んでいる記事(あるいは執筆者)を正してあげることも大事なんです。又、いわゆる「コテハン」を持ってくださいととんこつしょうゆさんが仰ってましたよね?もちろん、IPのままでも執筆や加筆してもいいんですが、これでは会話もあまりままならないし、自分が言いたいことをハッキリ言う為の会話ページが必要だと考えてらっしゃるからそう答えられたんだと思います。
次に、正直いって私もどういう態度で貴方に接していいのか分からないんです。こういってしまうと貴方を傷つけてしまうかもしれませんが、私もこのルール(というかエチケットですが)が一番Wikipediaで大事にしている部分です。したがって、執筆に協力してくれる方ならばどんな方でも歓迎です。しかし、互いの主張が合致することをしらず、まるでノートの中でリバートしているような感が強い。
2)Wikipedia:安易に荒らしと呼ばない
私が前述のように「善意」に基づいて書かれるもの書けばよいという風にいいましたが、その考えはこれが基幹となっています。誰にでも考えがあるわけですし、勝手にアラシと決めつけるような考えは良くないと私は考えています。だから、自分の中では善意と感じないが、ほかの誰かが善意であると感じるならばそれをしてみたらどうですか?と私は促してみました。
3)Wikipedia:中立的な観点#中立的な観点とは何か? 「偏りのない」「中立的な」というのはここでどのような意味で使われているのか?
ここに書かれる言葉に
>「論争の種になるような立場を主張することなく、単に記述する」
とあります。これがとんこつしょうゆさんが仰る本来の記述の仕方であり、Wikipediaにおける「中立的な観点」の書き方です。論争の種になるような記述はやはり私はするべきではないと思うんです。一応の執筆の心得やWikipediaの原理を書いたつもりではありますが、いろいろとルールを知ってらっしゃるようなので新規参加者の方のように接するのもどうかと思い、はたまたもし仮に古参の方ならばこうした事を今更述べるのもどうかとも思いまして。--英國紳士 2011年8月8日 (月) 17:14 (UTC)返信


>>とんこつしょうゆ さん

『否定的評価なら全ての読者が同じ理解できるような表現、つまり内容に具体性が求められるべき』についてですが、この具体性というものを個々の事例や数値だけで推し量れないのがスポーツです。そのときそのときに数値には残らない評価というものがスポーツには必ず存在します。セナやシューマッハ、王や長島などの『記録に残る選手』と『記憶に残る選手』などの対比が良い例でしょう。そういった時代背景などを無視して『数値データが一番具体的』として書き込んでいくようなスタイルでは、「より多角的に捉えた正確な人物像」を描いて伝えていくことなど不可能になってしまいます。wikipediaはデータ集ではありませんので、そのような数値にはあらわれないパーソナリティーを伝えていくことこそむしろ大切なのだと思います。

『数値データ』のように、真実だけを記すのがwikipediaではありません。真実だけを記すというのは、wikipediaのスタイルではないのです。wikipediaで最も大切なのは、真実よりも、検証可能な事実です。それが検証可能であり中立な観点を満たしている限り、たとえ存命の人物の評価であってもそれは『厳密なソース』なのです。『厳密なソース』とは個々の事例や数字データのような真実を記した具体的なデータ集や客観的事実だとはガイドラインのどこにも記されていません。『厳密なソース』とは、より慎重に検証の可能性と中立な観点を吟味したソースのことです。この点において、私の提示した出典はこの2点、検証の可能性と中立な観点を十分に満たした記述内容になっています。決して具体的根拠のない憶測や誹謗中傷記事などではありません。

私は英國紳士さんが最初に提示して下さった文面では十分に具体性があり、検証の可能性と中立な観点を満たした記述内容になっていると思います。事例をあげ、そのような評価があることを出典により検証可能にしています。とんこつしょうゆさんは、私の提示した出典を、具体性に欠けると仰いますが、そうは思えません。決して素人がいい加減な憶測や一時的な出来事だけを強調して槍玉に挙げているような文章には見受けられません。このサイトそのものが信頼置ける情報源であるということは、その内容に責任を持って世界に配信しているということであり、今回の評価のように過去の彼の戦歴を総括するために、個々の事例全てが具体的に記されている必要はありません。問題はこの情報元そのものが、いい加減な内容の記事を垂れ流すようなサイトなのか、それともその内容に信頼の置けるものであるかということです。信頼の置ける情報源で、なおかつその文面にはその評価を下す根拠も十分に記されています。

また、『競技機関や競技規約が能力の基準を設けている場合はそれに準じ、どの基準における定義であるかを明確に記述する。』というガイドラインについて、『F1の場合は優勝数(更に分類するならサーキット別やパーマネント・公道の区別、グリッド何番手からスタートしたとか)、PP数、FL数やウェットレースでの優勝数などになると思います。』との発言がありましたが、これは明らかな独自研究です。F1では、競技機関や競技規約が能力の基準を設けているという事実はありません。なのでこのガイドラインを持ち出すこと自体が誤りです。もうあまり言いたくはないですが、これもWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#ルールの悪用に当たりかねないのでご注意ください。また『厳密なソース』を『具体性』という表現に置き換え、それを『数値データ』と最終的に断定していることも、注意が必要かと思います。

問題なのは、ベッテルが実際に技術的に未熟であるか否かを数値で表すことではありません。ベッテルが技術的に未熟だという評価なり印象なり感想なりが存在しているということ。そしてそれが信頼できる情報元により検証可能になっているということです。この点で、私ととんこつしょうゆさんの論点は明らかにずれているように感じます。-122.16.109.71 2011年8月8日 (月) 17:57 (UTC)返信

>>英國紳士さん

まず第一に、『少しお互い譲り合ってはいかがでしょうか?』についてですが、私は英國紳士さんの提示して文章に賛同しました。その様な書き方なら良いだろうと思いましたが、私がそれに賛同すると、今度は英國紳士さん自らその文章には英國紳士さんご自身の悪意があるから使うのは勝手だが私は書かない、という主旨の回答を頂きました。あの時点で私は議論に進展があるものだと期待しておりましたが、正直、少々小ばかにされた様な気分でした。議論に進展があるどころか、逆に議論が混乱しただけでした。あの書き込みはいったいどのような意図があったのでしょうか?

第二に、Wikipedia:善意にとるについてですが、タイトルは善意についてですが、内容は私にアカウント取得を勧めているものだと思います。今のところ、私がIPであることによる大きな不都合はないと思いますし、『説明責任』についても果たして来ていると思います。アカウントを取得=説明責任を果たす、に直結するとも思えませんので、このままIPで編集を続けたいと思います。ご提案は感謝します。

次に、Wikipedia:安易に荒らしと呼ばないについてですが、私がこの場で荒らしという表現を用いたのは1回きりだと思いますが、私が荒らしと断定した書き込みは、荒らし以外の何物でもありません。これは安易に荒らしと呼ぶには当たらないと思います。

最後に、「論争の種になるような立場を主張することなく、単に記述する」についてですが、これを満たす書き方は難しいものではありません。

例えば、『ベッテルのレーシング技術には疑問がある』とすると、ベッテルの技術を断定する立場を主張することになるので、これでは駄目でしょう。しかし、『ベッテルのレーシング技術に疑問を投げかける声もある』というのは、なんら立場を主張することなく、『そのような声がある』という検証可能な事実を『単に記述する』にとどまっています。「論争の種になるような立場を主張することなく、単に記述する」とは、出典の内容が批判的だからといって、wikipediaにも同じように批判的な立場で書かれないように注意を喚起したものであり、批判的な内容が存在するという事実を提示するにとどめた中立的な立場で書かれるように促しているのだと思います。これは書き方を注意するものであって、『ベッテルのレーシング技術に疑問を投げかける声もある』というのは客観的に出典の内容を捉えた中立な書き方で、その声の存在は出典により検証可能になります。『批判的な内容=論争の種』ではなく『批判的な記述の仕方=論争の種』だということです。中立な観点とは、批判的な内容を書かないということではありません。批判的であっても好意的であっても、それを検証可能な事実に基づいて、偏った立場を取らずに記すということです。『ベッテルのレーシング技術に疑問を投げかける声もある』という主旨で書き込むことが、偏った立場を取っているようには思えません。批判的な内容を中立に書き記しています。--122.16.109.71 2011年8月8日 (月) 18:42 (UTC)返信


>>122.16.109.71さん
いままでの議論で122.16.109.71さんと私にはWikipedia:特筆性Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかを含む)、Wikipedia:存命人物の伝記Wikipedia:信頼できる情報源を含む)、Wikipedia:中立的な観点の捉え方・解釈のしかたに違いがあるんで、合意できないんだと思います。英國紳士さんに第三者としてコメントしていただきましたが、いまのところ合意に先行きが見えません。この認識には合意していただけると思います。
で、議論はつづけますがWikipedia:保護解除依頼をしませんか? このままだと他の編集者にご迷惑かけたままです。
議論は新たに節をつくり、お互いの意見をまとめ、再びコメント依頼するか?、Wikipedia:特筆性Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかを含む)、Wikipedia:存命人物の伝記Wikipedia:信頼できる情報源を含む)、Wikipedia:中立的な観点の各ノートに問い合わせするか? これらは打ち合わせしてからの話ですが。
よろしくお願いします。--とんこつしょうゆ 2011年8月9日 (火) 11:39 (UTC)返信
上記ご提案ですが、122.16.109.71さんの会話ページにもご連絡させてもらいました。1週間過ぎてもご回答いただけなかった時は、ご同意いただけたと理解し保護解除依頼をいたします。よろしくお願いします。--とんこつしょうゆ 2011年8月9日 (火) 23:09 (UTC)返信


保護解除依頼、賛成です。

まずWikipedia:存命人物の伝記の解釈から違いがあるかと思います。私はこのガイドラインは批判的な記事を記さないためのガイドラインでなく、存命の人物に関しては検証の可能性と中立な観点をより厳密に吟味すべきだということだと思っています。つまり、基本的なwikipediaの方針に従っていれば、実際には普段の編集と何ら変わらないものだと認識しています。wikipediaによくある、安易で短絡的な批判記事や誹謗中傷が、名誉毀損などになることを避けるためにあるガイドラインであり、存命の人物だから使える出典、既に亡くなっている人物だから使える出典、という解釈は間違っていると思います。例えるなら、現在は存命のベッテルに対して用いることが出来ない出典が、仮に(縁起でもなくて申し訳ないのですが)明日にでもベッテルが亡くなったとして、その途端に使えるようになる出典などあってはならないことだと思います。Wikipedia:存命人物の伝記は、普段我々が行っている、検証の可能性と中立な観点の吟味をより厳密に行うことで、誹謗中傷や名誉毀損を無くすことが目的のガイドラインだと認識しております。

次に、Wikipedia:信頼できる情報源についても大きな違いがあります。とんこつしょうゆさんは、この情報元が信頼できるものであることは認めて下さっていますが、その表現や具体性のなさが存命の人物の伝記の出典にそぐわないとされています。Wikipedia:信頼できる情報源である以上、この出典が中立的な立場を取っていなかったとしても、その評価を下す際に全ての具体例などがなくても、これはWikipedia:信頼できる情報源であることは間違いありません。『ベッテルのレース技術が未熟だと指摘する声がある』とした場合、この具体例などを出典に問うのはwikipediaのやり方ではないのです。wikipediaでは、そのような声があることが信頼できる情報源を元に検証可能になっていれば問題はありません。これは存命の人物であってもそうでなくても共通するwikipediaの基本方針です。この点では私はとんこつしょうゆさんの、検証の可能性への理解が少々不足しているように感じています。

次に、Wikipedia:中立的な観点についても齟齬があるようです。まず中立な観点とは、これもまた批判的な記事を記さないためのガイドラインではありません。1つの出典を元にした記述の場合、ある1つの立場から記されたものを、どのようにその立場に偏らずに記述するかということです。この点で私の最初の記述の仕方は、明らかに間違っていたと思います。『しばしばある』と断定することにより出典の立場に偏った記述の仕方をしてしまったからです。しかしここで何度かいっているように、『ベッテルのレース技術が未熟だと指摘する声がある』とした場合、中立な観点は保たれています。英國紳士さんが最初に提示してくださった文章もこれに近く、中立な観点に従った良い表現だと感じました。

最後に、Wikipedia:特筆性についてですが、私ははじめからこれこそが最も議論されるべきことかと思っており、削除に値する正当な理由としては、これ以外にはあり得ないと思っています。私は、現在のベッテルの活躍、F1における重要性、立場、地位、様々なものを考慮すると、このような声のあることは無視できないものだと思います。数々の史上最年少記録を打ちたて、最年少チャンピオンであり、PPの数では現役最高だの最速だのと言われるアロンソやハミルトンを凌駕するほどのF1の中心人物の1人となりました。昨シーズン後半からの活躍も記録的なものでした。このような人物が、レース技術の未熟さ指摘されるようなことを見過ごすべきではないと思います。先に述べましたとおり、私は「より多角的に捉えた正確な人物像を示すこと」が大切だと思っております。彼はレーサーです。そのレース技術の是非を問う内容が、Wikipedia:特筆性に欠けるとは思えません。

私の主張をまとめますと、『ベッテルのレース技術が未熟だと指摘する声がある』という主旨の記述をした際に、これは検証の可能性を十分に満たしており、また出典元の立場に偏らない中立な観点に従った記述の仕方であると思います。この点で、wikipediaの基本方針にしっかりと従っており、基本方針に従っているということは、Wikipedia:存命人物の伝記にも従っているということに他なりません。Wikipedia:信頼できる情報源に関しても十分に満たしており、その表現や具体性を問うのは、wikipediaでは逆に独自研究に属すると考えます。--122.16.109.71 2011年8月10日 (水) 00:25 (UTC)返信


すでに保護は期限切れで自動解除されています。ですから、保護解除依頼は不要です。当事者同士がここで議論を続けて再び編集合戦状態としないことを約束するのであれば、改めて保護する必要もなかろうと思います。--けいちゃ 2011年8月10日 (水) 01:37 (UTC)返信


保護解除されてました・・・。けいちゃさんが仰るとおり、編集合戦にならぬよう気をつけます。すみませんでした。

>122.16.109.71さん 賛成いただきありがとうございます。で、次節からは以下のような文面で議論参加者を募りますがいかがですか?



== 経歴に執筆する内容 ==
経歴『セバスチャン・ベッテル#2011年』の編集にて、一部のマスメディアによる「ベッテルのレーシング技術に疑問を投げかける声もある」という報道を出典にして、

*経歴節に「ベッテルのレーシング技術の評価」を特筆する必要が有るのか? ⇒ Wikipedia:特筆性Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかを含む)

で議論が2つに割れています。「レーシング技術に疑問を投げかける声もある」という報道を反映させた原稿案Aと、反映させない原稿案Bがあり、それぞれ理由を記してますので、どちらを当該記事に掲載するべきか、コメントよろしくお願いします。


=== 原稿案A ===

開幕戦オーストラリアGPではポールポジションから優勝し、続くマレーシアGPでも同じくポールトゥウィンを記録した。中国GPでもポールポジションを記録したが、ハミルトンに競り負け2位となった。ポールポジションは第4戦トルコGPまで連続4戦記録し、第5戦スペインGPで今期初めてフロントローに沈んだ。その後もシーズンの折り返しとなる第10戦ドイツGPまでにさらに3回のポールポジションを記録し、開幕戦から数え計7回のPPを獲得し、6回の優勝(内、ポールトゥウィンは5回)というシーズン前半ではほぼ独走した戦績を記録している。しかし、第9戦イギリスGPの頃からマクラーレンフェラーリといったライバルチームのアップデートが追いついた事もあり、レースでの戦力が均衡しイギリスGPから優勝を逃している。又、前述のようにライバルがより強力になった事と、2011年の優勝のほとんどがポールトゥウィンを飾っての勝ち方だった事などから「ベッテルは実はオーバーテイクが苦手なのでは?」と囁かれたり[1][2]カナダGPのファイナルラップでもバトンにあっさりとかわされた事で「ベッテルはプレッシャーに弱いのでは?」としばしばドライビングスタイルが賛否両論を巻き起こす結果となった[3]


【出典の日本語訳】
(出典1)
⇒ シルバーストンは依然として重要な要素に欠けている(Silverstone Still Lacking Key Ingredientの日本語訳より)

もうひとつ、短い感想。ベッテルが相対的に遅いハミルトンに押さえられたとき、彼は1度たりともマクラーレンを追い越すようには見えなかった。これはルイスの守りがうまく、セバスチャンの攻めがあまりうまくないことを反映しており、彼のレース技術が依然としてほとんど実証されていないという不安を思い出させる。ベッテルがハミルトンを追い越すことができず、すぐにその仕事をあきらめたのに対し、トラックが乾いてフェラーリがレースで最速のパッケージになるやフェルナンドがわずか1周でマクラーレンを抜いたことに気づかずにはいられない。
しかしベッテルの苦戦は、シルバーストンがその素晴らしいレイアウトにもかかわらず、オーバーテイクが非常に難しいサーキットであることを浮き彫りにした。前述したように、アロンソはベッテルのピットストップでの失敗がなくても、ベッテルと直接対決して勝てるだけのペースがあった。しかし直接対決で勝つためには、どこかの段階で、アロンソはオーバーテイクをしなければならなかった。それは書くのは簡単だが実行するのは難しい。そしてそのようなオーバーテイクをするためには「抜くためにピットに戻れ」という指示が必要となる可能性が高い。
訪れた人々の意見を聞くと、シルバーストンは素晴らしい会場になるために改善されつつある。しかしトラックではいつもの欠点が残ったままで、オーバーテイクができる場所が生まれるまでは、本当に偉大なトラックにはなれないままだろう。

(出典2)
⇒ ベッテルの謎が解明されつつある(The Vettel Myth Is Beginning To Unravelの日本語訳より)

輝かしい統計値もあるが、当てにならない数字もある。そしてすべてを語る数字がある。別格のマシンに乗る優勝候補として、ベッテル自身、別格のドライバーである。ドイツGP前までセバスチャンは連続14戦でフロント・ローからスタートしており、彼が1位あるいは2位でフィニッシュしなかったのは昨年10月の韓国GPのみで、それも彼のミスではなかった。
ベッテルは、マシンの性能を上回ることが求められるレーサーとしてまだ結果を出していない。2009年ドイツGP以来、セバスチャンは3番グリッドより後ろでレースをスタートした場合は表彰台に乗っていないのだ。彼は、本物のレーシングが要求されるときに、このレーシング技術があまり得意ではない。
ワールドチャンピオンシップに関しては、その欠点はほとんど問題にならない。非の打ち所のない先頭ランナーを続けている間に、彼の王冠が本当に危うくなるまで、ドライバーズ・チャンピオンシップにおける彼のリードが少なくとも25ポイントの緩衝材となる。彼は心配していないし、残るグランプリを4位あたりでフィニッシュしても、まだ安心していられるだろう。それでも、レース技術が足りないため、彼がF1の偉大なドライバーとして立候補するのは無駄な努力である。
ドイツではスタートからフィニッシュまで、彼の欠点は醜いほど露呈された。彼は凡ミスで2度コースアウトし、1度たりとも一騎打ちでフェリペ・マッサをオーバーテイクできそうには見えず、完璧とはほど遠いマシンでグリップを得ることができずに苦しんでいるドライバーという全体的な印象を常に与えていた。アロンソもやり遂げたし、ハミルトンもやり遂げた。しかしベッテルは見苦しい勝ち方を知らない。だからこそ2011年のチャンピオン候補は、偉大なチャンピオンと見なされないのだろう。


==== 122.16.109.71の主張 ====
まずWikipedia:存命人物の伝記の解釈から違いがあるかと思います。私はこのガイドラインは批判的な記事を記さないためのガイドラインでなく、存命の人物に関しては検証の可能性と中立な観点をより厳密に吟味すべきだということだと思っています。つまり、基本的なwikipediaの方針に従っていれば、実際には普段の編集と何ら変わらないものだと認識しています。wikipediaによくある、安易で短絡的な批判記事や誹謗中傷が、名誉毀損などになることを避けるためにあるガイドラインであり、存命の人物だから使える出典、既に亡くなっている人物だから使える出典、という解釈は間違っていると思います。例えるなら、現在は存命のベッテルに対して用いることが出来ない出典が、仮に(縁起でもなくて申し訳ないのですが)明日にでもベッテルが亡くなったとして、その途端に使えるようになる出典などあってはならないことだと思います。Wikipedia:存命人物の伝記は、普段我々が行っている、検証の可能性と中立な観点の吟味をより厳密に行うことで、誹謗中傷や名誉毀損を無くすことが目的のガイドラインだと認識しております。

次に、Wikipedia:信頼できる情報源についても大きな違いがあります。とんこつしょうゆさんは、この情報元が信頼できるものであることは認めて下さっていますが、その表現や具体性のなさが存命の人物の伝記の出典にそぐわないとされています。Wikipedia:信頼できる情報源である以上、この出典が中立的な立場を取っていなかったとしても、その評価を下す際に全ての具体例などがなくても、これはWikipedia:信頼できる情報源であることは間違いありません。『ベッテルのレース技術が未熟だと指摘する声がある』とした場合、この具体例などを出典に問うのはwikipediaのやり方ではないのです。wikipediaでは、そのような声があることが信頼できる情報源を元に検証可能になっていれば問題はありません。これは存命の人物であってもそうでなくても共通するwikipediaの基本方針です。この点では私はとんこつしょうゆさんの、検証の可能性への理解が少々不足しているように感じています。

次に、Wikipedia:中立的な観点についても齟齬があるようです。まず中立な観点とは、これもまた批判的な記事を記さないためのガイドラインではありません。1つの出典を元にした記述の場合、ある1つの立場から記されたものを、どのようにその立場に偏らずに記述するかということです。この点で私の最初の記述の仕方は、明らかに間違っていたと思います。『しばしばある』と断定することにより出典の立場に偏った記述の仕方をしてしまったからです。しかしここで何度かいっているように、『ベッテルのレース技術が未熟だと指摘する声がある』とした場合、中立な観点は保たれています。英國紳士さんが最初に提示してくださった文章もこれに近く、中立な観点に従った良い表現だと感じました。

最後に、Wikipedia:特筆性についてですが、私ははじめからこれこそが最も議論されるべきことかと思っており、削除に値する正当な理由としては、これ以外にはあり得ないと思っています。私は、現在のベッテルの活躍、F1における重要性、立場、地位、様々なものを考慮すると、このような声のあることは無視できないものだと思います。数々の史上最年少記録を打ちたて、最年少チャンピオンであり、PPの数では現役最高だの最速だのと言われるアロンソやハミルトンを凌駕するほどのF1の中心人物の1人となりました。昨シーズン後半からの活躍も記録的なものでした。このような人物が、レース技術の未熟さ指摘されるようなことを見過ごすべきではないと思います。先に述べましたとおり、私は「より多角的に捉えた正確な人物像を示すこと」が大切だと思っております。彼はレーサーです。そのレース技術の是非を問う内容が、Wikipedia:特筆性に欠けるとは思えません。 私の主張をまとめますと、『ベッテルのレース技術が未熟だと指摘する声がある』という主旨の記述をした際に、これは検証の可能性を十分に満たしており、また出典元の立場に偏らない中立な観点に従った記述の仕方であると思います。この点で、wikipediaの基本方針にしっかりと従っており、基本方針に従っているということは、Wikipedia:存命人物の伝記にも従っているということに他なりません。Wikipedia:信頼できる情報源に関しても十分に満たしており、その表現や具体性を問うのは、wikipediaでは逆に独自研究に属すると考えます。--122.16.109.71 2011年8月10日 (水) 00:25 (UTC)返信

=== 原稿案B ===

開幕戦オーストラリアGPではポールポジションから優勝し、続くマレーシアGPでも同じくポールトゥウィンを記録した。中国GPでもポールポジションを記録したが、ハミルトンに競り負け2位となった。ポールポジションは第4戦トルコGPまで連続4戦記録し、第5戦スペインGPで今期初めてフロントローに沈んだが、決勝では2位からピットストップでアロンソの前に出て首位に立ち、終盤ハミルトンに真後ろに迫られたが、そのままポジションを守り優勝した。第6戦モナコGPで2回のセーフティカー導入と1回の赤旗中断があったがポールトゥウィン。第7戦カナダGPもセーフティーカーが5回の出動や、豪雨により2時間のレース中断で首位を守っていたが、レース再開のファイナルラップのターン7でコースアウトし、真後ろにいたバトンに抜かれ、2位となった。 ヨーロッパに再び戻り、第8戦ヨーロッパGPでは再びポールトゥウィン。第9戦イギリスGPではポールポジションからスタートしたが、2回目のタイヤ交換で左リアの装着に時間がかかり、一旦首位から3位に落ちたが、1位アロンソに続く2位となった。第10戦ドイツGPでは予選3位からスタートしたが、序盤は真後ろにいたアロンソと抜きつ抜かれるのバトルをした後、9周目のターン10でコースアウトし、中盤は一時5位まで落ちたが、4位となった。ウエットとドライが入り混じる第11戦ハンガリーGPではポールポジションからスタートした。ハミルトン、バトンに抜かれ2回目のピットストップで一時4位に落ちたが、アロンソを抜き3位に戻ったあとに小雨が降り出し首位のハミルトンがスピン。ベッテルは小雨の中をドライタイヤでコースに残り、1位バトンに続く2位となった。

==== とんこつしょうゆの主張 ====
原稿Bは、ベッテルのレース中の具体的ミスも記載されているので、経歴として十分である。仮にレーシング技術を評価する記事を執筆するなら、「プレースタイル」「選手としての特徴」を別節を設けるべきで、経歴に加える内容ではない(⇒プロジェクト:スポーツ人物伝#選手の身体や技術の能力について)。

そのほかにも原稿Aは以下のことに抵触している。

1) (ベッテルの)レーシング技術の特筆性を示すための証明には、2つのメディアから報道された3つのレースでは不十分である。
2) 「巻き起こす」とあるが、数多くあるF1メディアの中で、2つ媒体のみが報道しているだけ。WikipediaはF1専門誌・F1専門サイトではない。⇒Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか
3) これら出典が世界的に特筆性ある報道なら、他言語版にも掲載されてるべき記事なのに、確認しただけでも出典の報道元である英語版をはじめ、ドイツ語版、フランス語版、スペイン語版、イタリア語版には掲載されてない。
論争の種になるような「~という声もある」という類の報道なら、経歴に加える必要はない。スポーツ選手として、「実際のレースがどういったものだったか」、ということを具体的に記述すれば十分である。
1) 「不特定読者にいろいろな解釈ができる出典を示して、あとは個々の読者の捉えかたに任せる」という批判的・否定的記事は、こと存命人物の伝記には当てはまらない。
2) 批判的・否定的記事を執筆する場合の厳密なソースとは、「有名で信憑性の高い出版社やサイト」と媒体のみがクリアしていればいいのではなく、その内容が曖昧で抽象的でなく具体的であること。
ちなみに経歴にそのほか書き加えるべきこと(特筆性)は、
a. 2014年まで契約更新したこと、
b. トルコGPのFP1でクラッシュしたこと、
c. ヨーロッパGPでエンジンマッピングのレギュレーション変更があったこと
d. イギリスGPでもレギュ変更があり、チームーオーダーがでたこと
ぐらいである。

以上になりますが、第三者の客観的コメントをよろしくお願いします。


上記で良ければこれからですが、コメント依頼だと参加者が集まらない可能性もあるので、

  1. Wikipedia:存命人物の伝記Wikipedia:信頼できる情報源を含む)
  2. Wikipedia:中立的な観点
  3. Wikipedia:特筆性Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかを含む)

の順にノートに問い合わせするか、もしくはそこのノート上で議論を進めさせてもらうかだと思いますが、いかがでしょうか?--とんこつしょうゆ 2011年8月11日 (木) 12:32 (UTC)返信

私の会話ページで私は本議論には参加しないと申し上げましたが、議論内容とは別に一つ提案があります。この節の議論だけで大分テキストサイズが膨大となってきており、このままでは別件でこのノートを利用したい人にとって大きな妨げになります。議論終結したのであれば過去ログとしてサブページに移動すればいいのですが、もしまだまだまとまりそうにない状況であるのなら、ノート:セバスチャン・ベッテル/エピソードの記載内容についてのような本議論専用のサブページを作成し、そちらで続けることにしませんか?各方針の観点からの意見を募るにしても、それぞれの方針文書のノートページにて、そのサブページにコメントを寄せていただけるように依頼してはどうかと思います。--けいちゃ 2011年8月11日 (木) 14:27 (UTC)返信

ひとつだけ指摘させて頂きます。やはりとんこつしょうゆさんには一つ誤解されている節があるようです。『レーシング技術の特筆性を示すための証明』が『2つのメディアから報道された3つのレースでは不十分』と主張されていますが、ここで問われているのは『レーシング技術の特筆性』ではありません。『評価の存在の特筆性』です。これは些細な違いのように感じられるかもしれませんが、wikipediaでは大きな違いです。何を検証可能にすべきかの対象が変わってくるからです。とんこつしょうゆさんの主張ですが、これらの出典メディアがレーシング技術を説明しきれていないと受け取れますが、wikipediaで問われるのはメディアの具体性ではなく、信頼性です。なぜなら具体性というものも、主観に よって千差万別であり、議論したところで独自研究にすぎないからです。ですからwikipediaではそのような判断は信頼ある外部の出典に求め、それを検証可能にするというスタイルなわけです。このメディアは僅か2つや3つの事例を槍玉に挙げて誹謗中傷するような信頼の置けないサイトではなく、今回の事例を元にこれまでのベッテルの経歴からレース技術を判断し指摘したものです。その具体例が4つならよいのか、10個ならよいのか、全ての具体例がないと出典のして成立しないのか、こういう独自研究に相当するような議論はwikipediaでは避けるべきかと思います。

これを『レーシング技術の特筆性』について問うのであれば、具体的な技術に言及した出典が必要で、詳細な技術を検証可能にする必要があるでしょうけど、私の記述は技術についてではなく『評価の存在』についてです。そのような評価が信頼置ける2つの情報源から発信されているということを検証可能にすれば良いわけで、『レーシング技術』を詳細に検証可能にする必要はありません。--122.16.109.71 2011年8月11日 (木) 22:22 (UTC)返信


けいちゃさんの提案、私は賛成です。
122.16.109.71さん、認識が違うところは次節で第三者からコメントもらえばいいと思います。いずれしてもこの節のテキストサイズが膨大になってますので・・・。--とんこつしょうゆ 2011年8月14日 (日) 10:27 (UTC)返信


『認識の違い』と『論点のすり替え』は別問題です。そもそも論点が違っているようでは、議論になりません。現在何について議論しているのかをしっかり把握しないことには、話は先に進まないでしょう。現在話し合っているのは、私の記した記述の特筆性についてでしょうけど、私が記した文章の主旨はベッテルのレーシング技術の詳細の是非を問うものではなく、その様な評価があるという検証可能な事実を記しているだけですので、この場合『レーシング技術の特筆性』というのは『認識の違い』ではなく、根本的に論点が違っています。--114.145.106.187 2011年8月14日 (日) 17:05 (UTC)返信


あなたは「論点をすり替えてる」と仰って、私は「認識の違い」と言い、平行線です。ですから次節の議論の場で第三者からコメントもらえばいいと申しあげたんです。議論のテーマは、第三者に入ってもらい原稿案A, 原稿案Bのどちらにするかですよ。で、けいちゃさんの提案どうしますか?--とんこつしょうゆ 2011年8月15日 (月) 12:54 (UTC)返信


私の記述の主旨がレーシング技術の是非を問うものでないことがわかりませんか?その主旨をあなたが歪めてとらえ、『レーシング技術の特筆性』の問題だとしているのですからこれは大きな問題でしょう。平行線なのは、貴方が私の文章の主旨を歪めて捉えているからです。私はベッテルのレーシング技術の是非を問うようなことをするつもりはありません。『評価の存在』を記そうとしているだけです。貴方がどうしても『レーシング技術の特筆性』について議論したいのであれば、それは私の記述の主旨である『評価の存在』とは無関係のことですので、別の場所で議論してください。私の記述の主旨はあくまでも、『評価の存在』であり、レーシング技術の是非を問うものではありません。先に言いましたが、これはwikipediaでは大きな違いなのですが、わかってらっしゃるのでしょうか?あなたはやはり、検証の可能性をよくご存知ないように思えます。

もう一度言いますね。

貴方がどうしても『レーシング技術の特筆性』について議論したいのであれば、それは私の記述の主旨である『評価の存在』とは無関係のことですので、別の場所で議論してください。

無駄にページが肥大するのは私も望むところではありませんので、けいちゃさんのご提案に賛成です。しかし、『議論のテーマは、第三者に入ってもらい原稿案A, 原稿案Bのどちらにするかですよ。』というのはおかしくないですか?これでは最初から第三者の声を遮断してしまっています。それぞれの記述の主旨を理解してもらい、ガイドラインに照らし合わせてその特筆性や検証の可能性、中立な観点などを問うのが議論のテーマではないのですか?第三者が入れば原稿案CやDが生まれることもあると思いますが、それをAかBか問うだけのようなやり方はwikipediaらしくないと思います。『原稿案A, 原稿案Bのどちらにするかですよ。』と断定や限定をしてしまえるほど多くの方に議論にご参加頂けていないのが現状です。けいちゃさんのご提案では、『サブページにコメントを寄せていただけるように』ということであり、AかBか多数決を取りましょうとは仰っていないように見受けられます。なのでけいちゃさんのご提案に賛成ですが、『議論のテーマは、第三者に入ってもらい原稿案A, 原稿案Bのどちらにするかですよ。』ではなく、しっかりとそれぞれの記述の主旨を理解してもらい、ガイドラインに照らし合わせてその特筆性や検証の可能性、中立な観点などについてコメントを頂く必要があると思います。--211.0.186.51 2011年8月16日 (火) 13:17 (UTC)返信


なんども言ってますが、それぞれの記述の主旨を判断するのは第三者ですよ。評価の存在どうこうも第三者が入って議論すればいいことです。『議論のテーマは、第三者に入ってもらい原稿案A, 原稿案Bのどちらにするか』ではじまりますが、議論の結果として原稿案C, 原稿案Dがでてくることもありえるし、原稿案C, 原稿案Dを否定してるわけではありません。逆にでてこないこともありえますが。
もう一度言いますね。
それぞれの記述の主旨を判断するのは第三者です。ここでお互いの記述の主旨をどうこう指摘するのではなく、次節で第三者を交えて議論すればいいことです。--とんこつしょうゆ 2011年8月16日 (火) 21:09 (UTC)返信


遅くなり申し訳ありません。サブページ化の異論はないということなので、一応予告期間として一両日くらい開けて実施させていただきます。それからサブページ移行後も、少し問題を整理して、すでに論点から外れたコメントについては適宜さらに過去ログ化した方がいいですね。この状態では、これから第三者が議論に加わるのはあまりに辛すぎますので(全部読むだけでも頭痛がしそうで・・・)。それと、とんこつしょうゆさんの記された原稿案の部分でタグの対応がおかしくなっている部分があるようで、表示が乱れています。サブページ化以降の際に、直せるところは直そうとしてみますが・・・。--けいちゃ 2011年8月17日 (水) 15:38 (UTC)返信


けいちゃさん、ご迷惑かけてすみません。次節にむけてIPさんと私の主張をまとめたのがこれなので、この節も過去ログ化していいと思います。--とんこつしょうゆ 2011年8月18日 (木) 11:27 (UTC)返信


サブページ化ありがとうございます。

私の主張は初めから一貫しています。

『ベッテルに対してレーシング技術の未熟さを指摘する声がある』という内容は検証可能な事実であり、中立な観点に従った記述ができていれば、削除する理由は特筆性の欠如以外にあり得ません。 しかし、ベッテルはF1界を代表するようなレーシングドライバーの1人であり、レーシング技術の評価が特筆性に欠けるとは思えません。また、現在の活躍や地位や立場などを考慮すれば、やはりこのような評価が出てきたとこは無視できないと思います。

とうのが私の主張です。

とんこつしょうゆ氏は、初めは2度に渡る無言のリバート行為から始まり、『内容に具体性なく曖昧、出典執筆者が不明、特筆性なし』と言う主張から、Wikipedia:存命人物の伝記#悪意のある記述Wikipedia:個人攻撃はしないWikipedia:存命人物の伝記#評論家の意見Wikipedia:引用のガイドライン#引用の要件Wikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成プロジェクト:スポーツ人物伝#選手の身体や技術の能力についてなど次から次へと新しいガイドラインを持ち出しては削除理由を変え、そのたびにそのガイドラインが的外れであることを私に指摘され、それに対しては明確に答えるわけでもなくまた次のガイドラインを持ち出し・・・その繰り返しです。挙句の果てに出典の表現の1つ、単語の1つにまで揚げ足を取り始めて削除理由だとしています。このように次から次に削除理由を変え様々なガイドラインを持ち出すようなやり方は、議論に一貫性がなくなりログが肥大化するだけです。

そもそも、出典には初めから具体例が複数記載されているにもかかわらず、出典に具体例が無いと再三主張し、私が出典の具体例を提示したところ、『ようやく具体例が出た』などと発言していることから、削除した当初、議論当初には、出典をお読みになっていないことは明白です。

出典を読みもせずに出典ごと削除していたということは、そのあとにどのような削除理由を主張したところで、その削除理由は『後付』でしかありません。

だから主張に一貫性がなく、様々な的外れなガイドラインを次々に持ち出しては、あの手この手でなんとか記述しない方向、削除する方向に進めようとしているようにしか受け取れません。これは明らかにWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#ルールの悪用の典型です。

はっきり言って、初動からその後の議論展開に一貫性がなく、過剰にベッテルを保護しようとしているのは明らかだと思います。

私の発言などをコメント依頼に出されていましたが、とんこつしょうゆ氏のこのような議論の展開こそ問題があるように思えます。

以下はとんこつしょうゆ氏の最終的な主張に対する反論です。

(ベッテルの)レーシング技術の特筆性を示すための証明には、2つのメディアから報道された3つのレースでは不十分である
そもそも内容なレーシング技術の具体性に触れたものではなく、『ある1つの評価が存在する』ということであり、レースの数の問題ではなく、評価が存在していることを検証可能にしていれば、出典は1つでも十分です。今回は3つの出典がありますので、さらに十分かと思います。『3つのレースでは不十分』という考え方自体が検証の可能性をあまりご理解されていないように思えます。このような考え方は、5つならいいのか、10ならいいのか、という独自研究的議論の発端になりかねません。
「巻き起こす」とあるが、数多くあるF1メディアの中で、2つ媒体のみが報道しているだけ。WikipediaはF1専門誌・F1専門サイトではない
表現を変えればよいだけのことでしょう。
これら出典が世界的に特筆性ある報道なら、他言語版にも掲載されてるべき記事なのに、確認しただけでも出典の報道元である英語版をはじめ、ドイツ語版、フランス語版、スペイン語版、イタリア語版には掲載されてない。
他国言語に記述がない内容が特筆性に値しないとは、wikipediaではあまり聞いたことのない編集方針です。
論争の種になるような「~という声もある」という類の報道なら、経歴に加える必要はない。スポーツ選手として、「実際のレースがどういったものだったか」、ということを具体的に記述すれば十分である。
wikipediaはデータ集ではありません。真実のみを記すのは、wikipediaの基本方針に反しています。wikipediaで大切なことは、検証可能な事実を記すということです。そもそも中立な観点とは、「偏っていない」ことであり、「~という声もある」という書き方はその声に偏った書き方とは言えません。また、スポーツ選手にとって評価の声は、そのパーソナリティを表す大切な内容であり、『経歴に加える必要はない』とも思えません。
「不特定読者にいろいろな解釈ができる出典を示して、あとは個々の読者の捉えかたに任せる」という批判的・否定的記事は、こと存命人物の伝記には当てはまらない
「不特定読者にいろいろな解釈ができる出典を示して、あとは個々の読者の捉えかたに任せる」というのは中立な観点の基本であり、wikipediaの3大基本方針の1つです。これでは中立な観点を否定しており、結果として存命人物の伝記自体も否定しています。また、『弱点を指摘する評価』を、『批判的・否定的記事』とするのは、ファン心理が働いているのでしょう。
批判的・否定的記事を執筆する場合の厳密なソースとは、「有名で信憑性の高い出版社やサイト」と媒体のみがクリアしていればいいのではなく、その内容が曖昧で抽象的でなく具体的であること
ソースの内容は、『ベッテルのレーシング技術の未熟な点を指摘している』という点で具体的です。何も曖昧なことなどありません。そのソースの内容に更なる出典を求めるようなやり方は、wikipediaのやり方として間違っています。とんこつしょうゆ氏は、『信頼できるソース』がなぜその様な評価を下したのか、幾つの事例を元に評価を出したのか、そのようなことを『具体性』と仰っているようですが、完全に検証の可能性の解釈が間違っています。評価を下すときに、幾つかの事例を取り上げて1つの結論を出すようなやり方はwikipediaでは独自研究とされています。評価は外部の『信頼できるソース』に委ね、それを検証可能にするのがwikipediaのやり方です。その『信頼できるソース』が評価を下した経緯や具体的事例を問うのはwikipediaのやり方として完全に間違っています。--58.88.33.117 2011年8月19日 (金) 07:58 (UTC)返信


ノートが読みにくかったので、可読性の向上を目的とした編集を行いました。この文は無視して下さい。 --英國紳士 2011年8月19日 (金) 12:04 (UTC)返信
  賛成(原稿案Bに対して) --英國紳士 2011年8月19日 (金) 12:10 (UTC)返信


けいちゃさんへ
サブページ化ありがとうございます。
英國紳士さんへ
私の書き込み内容を訂正していただいたことと、再び原稿案Bへの賛成していただいたこと、両方ありがとうございます。
可変IPさんへ
けいちゃさんからも「ここの節を全部読むだけで苦痛」とコメントされてますが、英國紳士さん以外のご意見をいだたこうということで可変IPさんと私の主張をまとめていたものを、次節にアップしました。この節で英國紳士さんに第三者としてご意見していただきましたが、可変IPさんのみが合意されてません。議論の進め方(下記↓小さくした部分)も可変IPさんに以前聞きましたが、これまでご回答いただいてません。

・・・、コメント依頼だと参加者が集まらない可能性もあるので、
  1. Wikipedia:存命人物の伝記Wikipedia:信頼できる情報源を含む)
  2. Wikipedia:中立的な観点
  3. Wikipedia:特筆性Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかを含む)
の順にノートに問い合わせするか?、・・・。--とんこつしょうゆ 2011年8月11日 (木) 12:32 (UTC)返信

私のほうで進めてよければ、次回の書き込み時に1,2,3のどこに問い合わせしたか、もしくは新たにコメント依頼を出したかをご報告します。--とんこつしょうゆ 2011年8月21日 (日) 15:01 (UTC)返信
可変IPさんへ
1週間待ったのですがお返事いただけません。上記を進めようと思ったのですがその前に議論を続けるのかお返事ください。1週間後にお返事いただけないばあい原稿案Bに合意いただいたということで原稿案Bをアップします。よろしくおねがいします。--とんこつしょうゆ 2011年8月29日 (月) 09:26 (UTC)返信
可変IPさんへ
お返事がないので上記実施します。議論告知テンプレも除去しますのでご了承下さい。--とんこつしょうゆ 2011年9月7日 (水) 15:29 (UTC)返信

経歴に執筆する内容 編集

経歴『セバスチャン・ベッテル#2011年』の編集にて、一部のマスメディアによる「ベッテルのレーシング技術に疑問を投げかける声もある」という報道を出典にして、

*経歴節に「ベッテルのレーシング技術の評価」を特筆する必要が有るのか? ⇒ Wikipedia:特筆性Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかを含む)

で議論が2つに割れています。「レーシング技術に疑問を投げかける声もある」という報道を反映させた原稿案Aと、反映させない原稿案Bがあり、それぞれ理由を記してますので、どちらを当該記事に掲載するべきか、コメントよろしくお願いします。


原稿案A 編集

開幕戦オーストラリアGPではポールポジションから優勝し、続くマレーシアGPでも同じくポールトゥウィンを記録した。中国GPでもポールポジションを記録したが、ハミルトンに競り負け2位となった。ポールポジションは第4戦トルコGPまで連続4戦記録し、第5戦スペインGPで今期初めてフロントローに沈んだ。その後もシーズンの折り返しとなる第10戦ドイツGPまでにさらに3回のポールポジションを記録し、開幕戦から数え計7回のPPを獲得し、6回の優勝(内、ポールトゥウィンは5回)というシーズン前半ではほぼ独走した戦績を記録している。しかし、第9戦イギリスGPの頃からマクラーレンフェラーリといったライバルチームのアップデートが追いついた事もあり、レースでの戦力が均衡しイギリスGPから優勝を逃している。又、前述のようにライバルがより強力になった事と、2011年の優勝のほとんどがポールトゥウィンを飾っての勝ち方だった事などから「ベッテルは実はオーバーテイクが苦手なのでは?」と囁かれたり[1][2]カナダGPのファイナルラップでもバトンにあっさりとかわされた事で「ベッテルはプレッシャーに弱いのでは?」としばしばドライビングスタイルが賛否両論を巻き起こす結果となった[3]
  1. ^ “PF1's Conclusions From The British GP”. PLANET F1. (2011年7月11日). http://www.planet-f1.com/race-features/7031645/Conclusions-From-The-Brit-GP 2011年8月2日閲覧。 
  2. ^ “Conclusions From The Nurburgring”. PLANET F1. (2011年7月24日). http://www.planet-f1.com/race-features/7059697/PF1-s-Conclusions-From-Germany 2011年8月2日閲覧。 
  3. ^ “Jenson Button wins chaotic rain-hit Canadian Grand Prix”. James Allen F1. (2011年6月12日). http://www.jamesallenonf1.com/2011/06/jenson-button-wins-chaotic-rain-hit-canadian-grand-prix/ 2011年8月7日閲覧。 

【出典の日本語訳】

(出典1) ⇒シルバーストンは依然として重要な要素に欠けている(Silverstone Still Lacking Key Ingredientの日本語訳より)

もうひとつ、短い感想。ベッテルが相対的に遅いハミルトンに押さえられたとき、彼は1度たりともマクラーレンを追い越すようには見えなかった。これはルイスの守りがうまく、セバスチャンの攻めがあまりうまくないことを反映しており、彼のレース技術が依然としてほとんど実証されていないという不安を思い出させる。ベッテルがハミルトンを追い越すことができず、すぐにその仕事をあきらめたのに対し、トラックが乾いてフェラーリがレースで最速のパッケージになるやフェルナンドがわずか1周でマクラーレンを抜いたことに気づかずにはいられない。
しかしベッテルの苦戦は、シルバーストンがその素晴らしいレイアウトにもかかわらず、オーバーテイクが非常に難しいサーキットであることを浮き彫りにした。前述したように、アロンソはベッテルのピットストップでの失敗がなくても、ベッテルと直接対決して勝てるだけのペースがあった。しかし直接対決で勝つためには、どこかの段階で、アロンソはオーバーテイクをしなければならなかった。それは書くのは簡単だが実行するのは難しい。そしてそのようなオーバーテイクをするためには「抜くためにピットに戻れ」という指示が必要となる可能性が高い。
訪れた人々の意見を聞くと、シルバーストンは素晴らしい会場になるために改善されつつある。しかしトラックではいつもの欠点が残ったままで、オーバーテイクができる場所が生まれるまでは、本当に偉大なトラックにはなれないままだろう。

(出典2) ⇒ベッテルの謎が解明されつつある(The Vettel Myth Is Beginning To Unravelの日本語訳より)

輝かしい統計値もあるが、当てにならない数字もある。そしてすべてを語る数字がある。別格のマシンに乗る優勝候補として、ベッテル自身、別格のドライバーである。ドイツGP前までセバスチャンは連続14戦でフロント・ローからスタートしており、彼が1位あるいは2位でフィニッシュしなかったのは昨年10月の韓国GPのみで、それも彼のミスではなかった。
ベッテルは、マシンの性能を上回ることが求められるレーサーとしてまだ結果を出していない。2009年ドイツGP以来、セバスチャンは3番グリッドより後ろでレースをスタートした場合は表彰台に乗っていないのだ。彼は、本物のレーシングが要求されるときに、このレーシング技術があまり得意ではない。
ワールドチャンピオンシップに関しては、その欠点はほとんど問題にならない。非の打ち所のない先頭ランナーを続けている間に、彼の王冠が本当に危うくなるまで、ドライバーズ・チャンピオンシップにおける彼のリードが少なくとも25ポイントの緩衝材となる。彼は心配していないし、残るグランプリを4位あたりでフィニッシュしても、まだ安心していられるだろう。それでも、レース技術が足りないため、彼がF1の偉大なドライバーとして立候補するのは無駄な努力である。
ドイツではスタートからフィニッシュまで、彼の欠点は醜いほど露呈された。彼は凡ミスで2度コースアウトし、1度たりとも一騎打ちでフェリペ・マッサをオーバーテイクできそうには見えず、完璧とはほど遠いマシンでグリップを得ることができずに苦しんでいるドライバーという全体的な印象を常に与えていた。アロンソもやり遂げたし、ハミルトンもやり遂げた。しかしベッテルは見苦しい勝ち方を知らない。だからこそ2011年のチャンピオン候補は、偉大なチャンピオンと見なされないのだろう。

122.16.109.71(可変IP)の主張 編集

まずWikipedia:存命人物の伝記の解釈から違いがあるかと思います。私はこのガイドラインは批判的な記事を記さないためのガイドラインでなく、存命の人物に関しては検証の可能性と中立な観点をより厳密に吟味すべきだということだと思っています。つまり、基本的なwikipediaの方針に従っていれば、実際には普段の編集と何ら変わらないものだと認識しています。wikipediaによくある、安易で短絡的な批判記事や誹謗中傷が、名誉毀損などになることを避けるためにあるガイドラインであり、存命の人物だから使える出典、既に亡くなっている人物だから使える出典、という解釈は間違っていると思います。例えるなら、現在は存命のベッテルに対して用いることが出来ない出典が、仮に(縁起でもなくて申し訳ないのですが)明日にでもベッテルが亡くなったとして、その途端に使えるようになる出典などあってはならないことだと思います。Wikipedia:存命人物の伝記は、普段我々が行っている、検証の可能性と中立な観点の吟味をより厳密に行うことで、誹謗中傷や名誉毀損を無くすことが目的のガイドラインだと認識しております。

次に、Wikipedia:信頼できる情報源についても大きな違いがあります。とんこつしょうゆさんは、この情報元が信頼できるものであることは認めて下さっていますが、その表現や具体性のなさが存命の人物の伝記の出典にそぐわないとされています。Wikipedia:信頼できる情報源である以上、この出典が中立的な立場を取っていなかったとしても、その評価を下す際に全ての具体例などがなくても、これはWikipedia:信頼できる情報源であることは間違いありません。『ベッテルのレース技術が未熟だと指摘する声がある』とした場合、この具体例などを出典に問うのはwikipediaのやり方ではないのです。wikipediaでは、そのような声があることが信頼できる情報源を元に検証可能になっていれば問題はありません。これは存命の人物であってもそうでなくても共通するwikipediaの基本方針です。この点では私はとんこつしょうゆさんの、検証の可能性への理解が少々不足しているように感じています。

次に、Wikipedia:中立的な観点についても齟齬があるようです。まず中立な観点とは、これもまた批判的な記事を記さないためのガイドラインではありません。1つの出典を元にした記述の場合、ある1つの立場から記されたものを、どのようにその立場に偏らずに記述するかということです。この点で私の最初の記述の仕方は、明らかに間違っていたと思います。『しばしばある』と断定することにより出典の立場に偏った記述の仕方をしてしまったからです。しかしここで何度かいっているように、『ベッテルのレース技術が未熟だと指摘する声がある』とした場合、中立な観点は保たれています。英國紳士さんが最初に提示してくださった文章もこれに近く、中立な観点に従った良い表現だと感じました。

最後に、Wikipedia:特筆性についてですが、私ははじめからこれこそが最も議論されるべきことかと思っており、削除に値する正当な理由としては、これ以外にはあり得ないと思っています。私は、現在のベッテルの活躍、F1における重要性、立場、地位、様々なものを考慮すると、このような声のあることは無視できないものだと思います。数々の史上最年少記録を打ちたて、最年少チャンピオンであり、PPの数では現役最高だの最速だのと言われるアロンソやハミルトンを凌駕するほどのF1の中心人物の1人となりました。昨シーズン後半からの活躍も記録的なものでした。このような人物が、レース技術の未熟さ指摘されるようなことを見過ごすべきではないと思います。先に述べましたとおり、私は「より多角的に捉えた正確な人物像を示すこと」が大切だと思っております。彼はレーサーです。そのレース技術の是非を問う内容が、Wikipedia:特筆性に欠けるとは思えません。 私の主張をまとめますと、『ベッテルのレース技術が未熟だと指摘する声がある』という主旨の記述をした際に、これは検証の可能性を十分に満たしており、また出典元の立場に偏らない中立な観点に従った記述の仕方であると思います。この点で、wikipediaの基本方針にしっかりと従っており、基本方針に従っているということは、Wikipedia:存命人物の伝記にも従っているということに他なりません。Wikipedia:信頼できる情報源に関しても十分に満たしており、その表現や具体性を問うのは、wikipediaでは逆に独自研究に属すると考えます。--122.16.109.71 2011年8月10日 (水) 00:25 (UTC)返信


原稿案B 編集

開幕戦オーストラリアGPではポールポジションから優勝し、続くマレーシアGPでも同じくポールトゥウィンを記録した。中国GPでもポールポジションを記録したが、ハミルトンに競り負け2位となった。ポールポジションは第4戦トルコGPまで連続4戦記録し、第5戦スペインGPで今期初めてフロントローに沈んだが、決勝では2位からピットストップでアロンソの前に出て首位に立ち、終盤ハミルトンに真後ろに迫られたが、そのままポジションを守り優勝した。第6戦モナコGPで2回のセーフティカー導入と1回の赤旗中断があったがポールトゥウィン。第7戦カナダGPもセーフティーカーが5回の出動や、豪雨により2時間のレース中断で首位を守っていたが、レース再開のファイナルラップのターン7でコースアウトし、真後ろにいたバトンに抜かれ、2位となった。 ヨーロッパに再び戻り、第8戦ヨーロッパGPでは再びポールトゥウィン。第9戦イギリスGPではポールポジションからスタートしたが、2回目のタイヤ交換で左リアの装着に時間がかかり、一旦首位から3位に落ちたが、1位アロンソに続く2位となった。第10戦ドイツGPでは予選3位からスタートしたが、序盤は真後ろにいたアロンソと抜きつ抜かれるのバトルをした後、9周目のターン10でコースアウトし、中盤は一時5位まで落ちたが、4位となった。ウエットとドライが入り混じる第11戦ハンガリーGPではポールポジションからスタートした。ハミルトン、バトンに抜かれ2回目のピットストップで一時4位に落ちたが、アロンソを抜き3位に戻ったあとに小雨が降り出し首位のハミルトンがスピン。ベッテルは小雨の中をドライタイヤでコースに残り、1位バトンに続く2位となった。

とんこつしょうゆの主張 編集

原稿Bは、ベッテルのレース中の具体的ミスも記載されているので、経歴として十分である。仮にレーシング技術を評価する記事を執筆するなら、「プレースタイル」「選手としての特徴」を別節を設けるべきで、経歴に加える内容ではない(⇒プロジェクト:スポーツ人物伝#選手の身体や技術の能力について)。

そのほかにも原稿Aは以下のことに抵触している。

1)(ベッテルの)レーシング技術の特筆性を示すための証明には、2つのメディアから報道された3つのレースでは不十分である。
2)「巻き起こす」とあるが、数多くあるF1メディアの中で、2つ媒体のみが報道しているだけ。WikipediaはF1専門誌・F1専門サイトではない。⇒Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか
3)これら出典が世界的に特筆性ある報道なら、他言語版にも掲載されてるべき記事なのに、確認しただけでも出典の報道元である英語版をはじめ、ドイツ語版、フランス語版、スペイン語版、イタリア語版には掲載されてない。
論争の種になるような「~という声もある」という類の報道なら、経歴に加える必要はない。スポーツ選手として、「実際のレースがどういったものだったか」、ということを具体的に記述すれば十分である。
1)「不特定読者にいろいろな解釈ができる出典を示して、あとは個々の読者の捉えかたに任せる」という批判的・否定的記事は、こと存命人物の伝記には当てはまらない。
2)批判的・否定的記事を執筆する場合の厳密なソースとは、「有名で信憑性の高い出版社やサイト」と媒体のみがクリアしていればいいのではなく、その内容が曖昧で抽象的でなく具体的であること。
ちなみに経歴にそのほか書き加えるべきこと(特筆性)は、
a.2014年まで契約更新した
b.トルコGPのFP1でクラッシュした
c.ヨーロッパGPでエンジンマッピングのレギュレーション変更があった
d.イギリスGPでもレギュ変更があり、チームーオーダーがでた
ぐらいである。--とんこつしょうゆ 2011年8月11日 (木) 12:32 (UTC)返信

以上になりますが、第三者の客観的コメントをよろしくお願いします。--とんこつしょうゆ 2011年8月21日 (日) 14:44 (UTC)返信

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