マッシモ・フランチオーザ

マッシモ・フランチオーザMassimo Franciosa, 1924年7月23日 - 1998年3月30日)は、イタリア脚本家映画監督である。「イタリア式コメディ」の脚本家として知られる。

Massimo Franciosa
マッシモ・フランチオーザ
生年月日 (1924-07-23) 1924年7月23日
没年月日 (1998-03-30) 1998年3月30日(73歳没)
出生地 イタリア王国の旗 イタリア王国 ローマ
死没地 イタリアの旗 イタリア ローマ
職業 脚本家映画監督
ジャンル イタリア式コメディ
活動期間 1955年 - 1995年
主な作品
脚本
若者のすべて
山猫
 
受賞
アカデミー賞
第37回アカデミー賞脚本賞
祖国は誰のものぞ
その他の賞
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来歴・人物 編集

1924年7月23日、イタリアの首都ローマで生まれる。

1955年、マウロ・ボロニーニ監督の映画『Gli innamorati』の共同脚本に参加し、脚本家としてデビューする。同作以降、ほとんどすべての作品をパスクァーレ・フェスタ・カンパニーレと共同執筆している。1958年、マウロ・ボロニーニ監督の『若い夫たち』で第11回カンヌ国際映画祭脚本賞を受賞する。初期のディーノ・リージ、あるいはルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』(1960年)と『山猫』(1963年)の脚本に参加する。1963年、「イタリア式コメディ」の傑作、マルコ・フェレーリ監督の『女王蜂』の共同脚本に参加する。またナンニ・ロイ監督の1961年製作の作品『祖国は誰のものぞ』で、1964年の第37回アカデミー賞アカデミー脚本賞にノミネートされている[1]

1963年、盟友パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ監督と共同で『つかの間の恋心』を演出し、映画監督としてデビューする。しばらくカンパニーレと共同監督をつづけたが、1971年、ソロで監督した『Per amore o per forza』以来、監督業はやめて脚本に専念した。9本の監督作がある。

1998年3月30日、ローマで心臓発作により死去。73歳没。70本におよぶ脚本を書いた。遺作はトニーノ・チェルヴィ監督のテレビ映画『Butterfly』(1995年)の脚本であった。

フィルモグラフィ 編集

本人はクレジット以外は基本的に脚本のみ
監督デビュー以降
脚本専念期

関連事項 編集

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  1. ^ IMDbのMassimo Franciosa - awardsを参照。

外部リンク 編集