ラドミル・アンティッチ

セルビアのサッカー選手

ラドミル・アンティッチ(Radomir Antić、セルビア語: Радомир Антић1948年11月22日 - 2020年4月6日 )は、ユーゴスラビア出身のサッカー選手、サッカー指導者。選手時代よりポジションはディフェンダー

ラドミル・アンティッチ
2009年
名前
ラテン文字 Radomir Antić
キリル文字 Радомир Антић
基本情報
国籍 セルビアの旗 セルビア
スペインの旗 スペイン
生年月日 (1948-11-22) 1948年11月22日
出身地 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア ジティシュテ
没年月日 (2020-04-06) 2020年4月6日(71歳没)
選手情報
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1967–1968 セルビアの旗 スロボダ・ウジツェ
1968–1976 セルビアの旗 パルチザン 181 (9)
1976–1978 トルコの旗 フェネルバフチェ 28 (2)
1978–1980 スペインの旗 レアル・サラゴサ 58 (7)
1980–1984 イングランドの旗 ルートン・タウン 100 (9)
通算 367 (27)
代表歴
1973 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア 1 (0)
監督歴
1988–1990 スペインの旗 レアル・サラゴサ
1991–1992 スペインの旗 レアル・マドリード
1992–1995 スペインの旗 レアル・オビエド
1995–1998 スペインの旗 アトレティコ・マドリード
1999 スペインの旗 アトレティコ・マドリード
2000 スペインの旗 アトレティコ・マドリード
2000–2001 スペインの旗 レアル・オビエド
2003 スペインの旗 バルセロナ
2004 スペインの旗 セルタ・ビーゴ
2008–2010 セルビアの旗 セルビア代表
2012–2013 中華人民共和国の旗 山東魯能泰山
2015 中華人民共和国の旗 河北華夏幸福
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アトレティコ・マドリードの監督としては、1995-96シーズンに、ラ・リーガコパ・デル・レイの両方を制し、二冠を達成した。

レアル・マドリードバルセロナ、アトレティコ・マドリードの3クラブの指揮を取った唯一の監督。

経歴 編集

現役時代はディフェンダーパルチザン・ベオグラードフェネルバフチェSKレアル・サラゴサに所属した。ルートン・タウンFCでは、Raddy(ラディ)のニックネームで知られ、1983年5月のマンチェスター・シティFC戦で、クラブを降格から救うゴールを決めた。ルートン時代の監督デイビッド・プリートからは、指導方法について影響を受けた。

引退後、サッカー指導者の道へ進み、レアル・サラゴサレアル・マドリードなどで指揮を執った。1995-96シーズンはアトレティコ・マドリードリーガ・エスパニョーラスペイン国王杯優勝による二冠という偉業を成し遂げている。FCバルセロナにおいても短期間監督を務め、GKビクトル・バルデス、MFアンドレアス・イニエスタら若手選手に出場機会を与えている。

2008年8月19日セルビア代表監督に就任。2010 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選ではフランスルーマニアと同居する組み分けとなったが、従来の守備的なチームに攻撃意識を植え付け、規律を設けてチームを結束させ、首位での予選突破果たした[1] 。しかし2010年本大会では1勝2敗でグループリーグ敗退。また、第3戦のオーストラリア戦において主審の判定に抗議したことにより、国際サッカー連盟から4試合のベンチ入り停止と罰金処分を科された[2][3]。同年9月から始まったUEFA欧州選手権2012予選ではスタンドからの指揮となったが、同年9月7日のスロベニア戦を1-1で引き分けると、処分期間中の9月15日に監督を解任された[4]

2012年12月、中国超級リーグ山東魯能の監督に就任した[5]

2015年、中国超級リーグ河北華夏幸福の監督に就任した。

監督退任後は、主にスペインで解説者を務めていた。

2020年4月7日、スペインマドリードにて71歳で死去した[6][7]

所属クラブ 編集

指導者歴 編集

タイトル 編集

選手時代 編集

パルチザン・ベオグラード
フェネルバフチェSK
ルートン・タウンFC
  • フットボールリーグ・セカンドディビシオン:1回(1981-82)

監督時代 編集

アトレティコ・マドリード
個人

脚注 編集

外部リンク 編集