リカルド・ロセット (Ricardo Rosset, 1968年7月27日 - ) は、ブラジルサンパウロ[1]出身の元レーシングドライバーである。F1では33レースに出走したが、最高成績は8位でポイントを獲得することはできなかった。

リカルド・ロセット
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
出身地 同・サンパウロ
生年月日 (1968-07-27) 1968年7月27日(55歳)
F1での経歴
活動時期 1996年-1998年
所属チーム フットワーク, マスターカード・ローラ, ティレル
出走回数 33 (26 starts)
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1996年オーストラリアグランプリ
最終戦 1998年日本グランプリ
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経歴 編集

F3 編集

フォーミュラオペル・ユーロシリーズに参戦後、1993年アラン・ドッキング・レーシング英語版からイギリス・フォーミュラ3選手権にステップアップ。第13戦シルバーストンで2位のベストリザルトを残し、シリーズランキングは6位(ペドロ・デ・ラ・ロサと同位)であった。1994年にはAJSチームに移籍し、ヤン・マグヌッセンが支配した同年のシリーズを5位という結果で終えた。F3での初優勝は第12戦スネッタートンでのレースであり、このレースではリーダーのマグヌッセンはリタイアしていた。

F3000 編集

1995年にはスーパーノヴァ・レーシングから国際F3000選手権に参戦する。チームメイトは経験豊富なイタリア人ドライバーのヴィンセンツォ・ソスピリであり、ソスピリは同年のシリーズチャンピオンを獲得している。シリーズはスーパーノヴァが支配するものとなり、ロセットはソスピリのバックアップを務め、シーズンで2勝を挙げランキング2位を獲得。翌年のF1ステップアップを希望する。

F1 編集

1996年ヨス・フェルスタッペンのチームメイトとしてフットワーク・アロウズに加入したが、フェルスタッペンのペースからは後れをとった。トム・ウォーキンショーがチームを買収し、車の開発は停止したものの、フェルスタッペンは全てのグランプリの予選においてロセットを上回った。後にロセットはインタビューで「チームは資金難でスペアパーツが不足しているため、2台の同一の車を提供することができず、経験のあるフェルスタッペンに集中した」と述べている。

1997年にはマスターカード・ローラに移籍する。ローラではF3000時代のチームメイトであったソスピリと再びチームメイトとなる。しかしながらチームは開幕戦オーストラリアGPのみの参戦で撤退し、ロセットはシーズンを棒に振ることとなった。

1998年ティレルを買収したクレイグ・ポロックはロセットを「持参金が多い」という理由から高木虎之介のチームメイトとして選択した。皮肉なことにチーム創設者であるケン・ティレルはこの人事決定の前にフェルスタッペンを選択しており、ロセットをレギュラーとしたこの結果に激怒し、ティレルチーム消滅を待たずしてチームを離脱した(フェルスタッペンはリザーブドライバーとなった)。ポロックはB・A・Rを設立するためにティレルを買収したのであり、ロセットを選択した理由は彼の持つ個人スポンサーマネーが不可欠であるとしたためであった。同シーズンが始まってみるとロセットは成績不振であり、マレー・ウォーカーが『ロセットがF1をドライブするレベルにあるかどうか』という議論の存在に言及した際、解説を務めていたマーティン・ブランドルは『それはかなり短い議論だろう』とジョークを言った。後にモナコGPの予選でロセットはジャック・ヴィルヌーヴとの接触で車にダメージを受けスチュワードから警告を受けたが、メカニック達は怒り狂ってロセットがパドック内で乗るスクーターに、彼の姓をもじった「tosser」(自慰野郎)の文字を貼り付けた[2]カナダGP後にはトム・クリステンセンとの交代が囁かれた。

ロセットはまた、スペインGPでは107%ルールに満たせず予選落ちを喫し、ドイツGPでは負傷のため予選を行うことができなかった。ベルギーGPでは豪雨のためスタート直後に12台が関係した多重クラッシュに巻き込まれ、再スタートできなかった。ティレル最後のレースとなった日本GPでは、プラクティス中のクラッシュで首を負傷し、予選では107%ルールにより決勝に出場することもできず、そのF1キャリアを終えることとなった。ケン・ティレル、ハーベイ・ポスルスウェイト、ティレルのメカニックからは忌み嫌われており、「高木を優先し、ポンコツロセットは後回し」といわれるほどの扱いを受け、事実上ティレル自身がロセットを離脱するように導いた。ティレルでの経験は彼の実績に何の利益にもならなかった。

ロセットは後に、「ティレルはホンダから支援されたチームメイトの高木に集中し、日本人ドライバーにアドバンテージを与えた。」と主張し「僕はあまり歓迎されなかった。」と述べた。

セカンドキャリア 編集

シーズン終了後ティレルチームを離れたロセットは、レーサーを引退し故郷のブラジルでスポーツウェアビジネスを手がけた。しかしながら、2008年に現役復帰し、映画制作者のウォルター・サレスと組みブラジルGT3選手権に参戦した[3]。ペアは4勝を挙げ、シリーズ2位でシーズンを終えた[4]

この成果に励まされたロセットは、1996年にドライブしたフットワーク・FA17を購入し、2009年のヒストリックF1シリーズへの参加を計画していた[5]

レース戦績 編集

イギリス・フォーミュラ3選手権 編集

チーム エンジン クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 順位 ポイント
1993年 アラン・ドッキング・レーシング 無限・MF204 A SIL
Ret
THR
8
BRH
6
DON
DNS
BRH
6
SIL
8
OUL
Ret
DON
8
SIL
3
DON
10
SNE
3
PEM
9
SIL
2
SIL
6
THR
6
6位 18
1994年 チーム・AJS A SIL
9
DON
10
BRH1
6
BRH2
10
SIL1
6
SIL2
4
BRH
Ret
THR
6
OUL
5
DON
5
SIL
Ret
SNE
1
PEM1
4
PEM2
3
SIL1
3
SIL2
2
THR
3
THR
Ret
5位 132

国際F3000選手権 編集

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 順位 ポイント
1995年 スーパーノヴァ・レーシング SIL
1
CAT
2
PAU
9
PER
1
HOC
9
SPA
4
EST
5
MAG
Ret
2位 29

F1 編集

チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 順位 ポイント
1996年 フットワーク FA17 AUS
9
BRA
Ret
ARG
Ret
EUR
11
SMR
Ret
MON
Ret
ESP
Ret
CAN
Ret
FRA
11
GBR
Ret
GER
11
HUN
8
BEL
9
ITA
Ret
POR
14
JPN
13
NC 0
1997年 ローラ T97/30 AUS
DNQ
BRA
DNA
ARG
SMR
MON
ESP
CAN
FRA
GBR
GER
HUN
BEL
ITA
AUT
LUX
JPN
EUR
NC 0
1998年 ティレル 026 AUS
Ret
BRA
Ret
ARG
14
SMR
Ret
ESP
DNQ
MON
DNQ
CAN
8
FRA
Ret
GBR
Ret
AUT
12
GER
DNQ
HUN
DNQ
BEL
DNS
ITA
12
LUX
Ret
JPN
DNQ
NC 0

(key)

参照 編集

  1. ^ Jenkins, Richard. “The World Championship drivers - Where are they now?”. OldRacingCars.com. 2007年7月29日閲覧。
  2. ^ Noble, Jonathan (1998). “1998 FIA Formula 1 World Championship: Monaco GP”. In Strang, Simon. Autosport Grand Prix Review 98. Haymarket Publications. p. 93 
  3. ^ Salles-Rosset defeat Xandy-Mattheis (Portuguese)
  4. ^ GT3 Brasil standings
  5. ^ Turner, Kevin (ed.) (April 2009). “Rosset to make F1 racing return in his own Arrows”. Autosport 196 (2): 89. 

外部リンク 編集