上洛
上洛(じょうらく)とは、京都に入ることを意味する語である。京の都が漢の古都になぞらえた雅称として「洛陽」「京洛(けいらく)」などと呼ばれたことから。
由来
狭義では、室町時代末期(戦国時代)に、京都にいる室町幕府の将軍を保護することを意味し、結果として全国支配に必要な権威をもたらすことであるとされた。
かつて嵯峨天皇が、平安京の西側(右京)を唐の首都である「長安」、東側(左京)を唐の副都である「洛陽」と名付けた。しかし当時、「長安」である右京は居住に適さない湿地が多かったことなどから平安時代の後半には既に廃れ、市街地は「洛陽」である左京だけとなった。このため京都を「洛陽」と呼ぶようになった。
そのため、京都へ上ることは「上洛」とも称され、広義においては現在の「上京」と同様の意味で用いられていた。
対義語に、下洛(げらく)がある。下洛とは、京都を離れることである。また、上洛という煌びやかイメージとは逆に、落ちぶれた有様を喩えることもある。
戦国時代の上洛
16世紀半ばになると応仁の乱以後100年以上も続く政局不安状態はすでに常態と化しており、いわゆる戦国大名とよばれる領国支配者にとっても庶民にとっても、このような状態は普通になっていた。
各地の勢力が独立した状況において、既に戦火で荒廃した京都の支配に実質的な意味はなかったが、将軍の御所はいまだ京都にあり、将軍を保護することは自らの力を示す最高の機会だった。細川氏や三好氏といった家臣によって追放されていた足利将軍家の将軍を京都に連れ戻して保護を与えることは、失われた秩序の回復者としての名誉を得ることだったからである。
このため、大きな勢力をもつ戦国大名たちはそれぞれに上洛を企画したが、実現は領国における抗争に妨げられ、成功したものはいなかった。例えば駿河国の今川義元は永禄4年(1560年)に上洛の途上で尾張の織田信長軍に討ち取られ(桶狭間の戦い)、越後国の上杉謙信は内紛の不安や雪などに阻まれて加賀国以西に進むことができなかった。また、永禄年間から将軍義昭や義昭を擁する織田氏と接近し甲斐国の武田信玄は、信長打倒を志向する義昭に協力し元亀年間には織田氏と敵対し大規模な三河・遠江方面への軍事的侵攻である西上作戦を行っているが、これには上洛の意図があったかの評価をめぐり議論が行われている。
これらの大名たちの領国は京都から遠く、上洛しようとすれば途上の勢力の抵抗や本国の内紛などを一つ一つ片付けていかなければならなかった。
このような状況下で実際に上洛を果たしたと言えるのは、永正(1508年)に足利義稙を擁して上洛した大内義興と、天文(1546年)に足利義晴を擁して上洛した六角定頼と、永禄(1539年)に上洛した三好長慶と、足利義昭を擁して上洛した織田信長の4人だけである。ただし、六角氏の領国は隣国の近江国である。なお、上杉謙信や青年時代の織田信長は、将軍拝謁などを目的として軍を伴わない、広義での上洛は行ったことはある。
大内義興の上洛の大義名分は、旧秩序の回復を目的、すなわち足利幕府の支配を回復させることにあった。だが、大内氏の場合、それが完成する前に尼子氏ら反大内勢力の挙兵に阻まれて領国への帰還を余儀なくされた。六角定頼の場合は、領国が京都の隣の近江であるものの大内義興と同様の名目で入京しており、幕政にも口入の形で関与しているところも義興と共通している。だが、定頼の没後の六角氏は浅井氏の反抗など国内問題に追われ、三好長慶の上洛を阻止できずに衰退していく。これに続く他の戦国大名の目的もその方針は大内義興や六角定頼と大差のないものであり、かつ実現すら叶わなかった。
それに対し三好長慶の目的は、将軍を傀儡としてその影として実権を掌握し、畿内を支配することにあった。しかし、織田信長は、古い権威ではなく武力によって新しい秩序を作ろうと考え、彼の上洛はその足がかりとして行われた。足利義昭を奉じて上洛したことは、既に一時的な旧秩序の回復ではなく、武力による新秩序の形成と全国支配の手段にすぎなかった。
関連項目
- 上京
- 下向