世良澄衛

島根県出身の騎手

世良 澄衛(せら すみえ、1950年2月9日 - 2018年[1])は、島根県出身の元騎手地方益田所属)。

世良澄衛
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 島根県
生年月日 1950年2月9日
死没 2018年
騎手情報
所属団体 益田市
初免許年 1975年3月15日
免許区分 平地
騎手引退日 2002年8月16日
重賞勝利 14勝
通算勝利 13214戦2244勝
経歴
所属 渡辺進(益田
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経歴 編集

1975年3月15日の益田第2競走・カシマクイン(7着)で初騎乗を果たし、同日の第5競走・フエローシルバーで初勝利を挙げる。1998年10月10日の第8競走アラ系一般B・アグネスグロリーで通算2000勝を達成し、同年からはセリーセクレタリー主戦騎手となり、2001年の同馬引退まで出走全レースに騎乗。同馬はアメリカ産のサラブレッド中央でデビューしたが、気性と脚部に問題を抱えていたこともあり未勝利に終わる。一時はそのまま引退することも検討されたが、装蹄師福永守に引き取られて治療が施された結果、地方での現役続行が可能となり、世良とのコンビで当地の記録となるデビュー16連勝を含む17勝を挙げる活躍を見せた[2]。晩年は益田の所属騎手では最高齢、全国の地方の騎手の中でも一、二の大ベテラン[3]として活躍。かつては「スッポンの世良」と呼ばれて地元ファンに長年愛されてきた[3]が、2000年の人麿特別・スマノカチドキが最後の重賞勝利となる。益田競馬最後の日となった2002年8月16日は4鞍に騎乗し、第8競走A級B級・キアミラウメンで最後の勝利を挙げ、自身も最後の騎乗となった最終レースの第10競走益田競馬ラストラン特別では3歳牝馬のヘイセイグレースとコンビを組む。父は名古屋では15戦無敗を誇ったヘイセイパウエル、母トウコウリュウジン、母の父は名古屋の強豪トキテンリュウという血統のアングロアラブであり、世良とコンビを組んでからは、6月に2回、7月に3回使って3勝していた[3]。前2走は2連勝という絶好調であり、レースでは中団からまくり気味に追い上げての3着に食い込む大健闘を見せる[3]。最終レース終了後は騎手達が勢揃いしてスタンドに挨拶するセレモニーが行われ、場内のスピーカーから蛍の光が流れる中、花束をスタンドに投げ入れるのを合図のように、ファンが馬場になだれこんだが、世良は後輩騎手に「お疲れさん」と声をかけた[3]

引退後は2018年に死去した模様である[1]

通算成績 編集

  • 13214戦2244勝 勝率17.0%、連対率33.8%

主な騎乗馬 編集

  • パールコンノ(1975年人麿特別)
  • ワンバリー(1978年日本海特別)
  • サイクロンケイ(1978年若鮎特別)
  • タマリード(1981年益田大賞典)
  • バビロンニセイ(1984年益田優駿)
  • ファイトサツキ(1985年日本海特別)
  • シノジユニア(1989年若鮎特別、1990年益田優駿)
  • グリーンテイオー(1993年人麿特別)
  • シマシゲジュニア(1994年益田大賞典)
  • ゴールドヒリュウ(1995年若鮎特別)
  • シンシャトル(1997年益田大賞典)
  • ヘイセイバロン(1997年人麿特別)
  • スマノカチドキ(2000年人麿特別)

脚注 編集

  1. ^ a b 2月2日(土) - 益田市
  2. ^ “益田競馬で活躍したセリーセクレタリー号 広島の牧場で種馬として余生=島根” (日本語). 読売新聞 (読売新聞大阪本社): p. 36. (2001年11月13日) 
  3. ^ a b c d e 益田競馬場、最期の日 - king-biscuit WORKS

外部リンク 編集