仙台裸参り

宮城県仙台市の伝統行事

仙台裸参り(せんだいはだかまいり)は、宮城県仙台市の伝統行事。一年のうちでも最も寒い時期(1月頃)に、晒に草履や草鞋など裸に近い格好で神社に参詣する。仙台裸参りは大崎八幡宮の松焚祭(どんと祭)より広まったとされる宮城県下のどんと祭との関係が強く、県内各地でも裸参りが行われている。

大崎八幡宮松焚祭 仙台裸参り参道をゆく
雪の日の仙台裸参り-2013  大崎八幡宮松焚祭

仙台裸参りは南部杜氏をはじめとする酒造業にその起源があると考察されている(詳細後述)が、20世紀後半以降は酒造りの職人から一般市民へと参加者は変化し、企業・大学・病院職員・教員・介護職員・団体などへと広がりを見せている。裸参りの参加者は、1992年(平成4年)の200団体/7,500人をピークに、その後は100団体前後/3,000人前後の規模の参加となっている[要出典]。2021年は、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、もっとも規模の大きな大崎八幡宮松焚祭でも参加申し込み者が前年の約3,000人から50団体・368人に激減し、県内の他地域では中止するところもあった[1]

裸参りの歴史 編集

 
嘉永年間(1848-1854)『仙台年中行事絵巻』「正月風俗」から

『仙臺始源』(安永 - 文化年間成立)に「木下薬師の通夜 木下祭祀の事は三月にあり堂塔の眞圖は爰に出す正月七日の夜諸人群をなして木下薬師に賽す是を七日堂と云通夜する者多し夜籠りといふ寒候薄衣を着て詣る者ある裸参りといふ」とある記述が仙台周辺の「裸参り」の初出とされる[2]

1849年(嘉永2年)刊行の二世十遍舎一九(著)『奥羽一覧同中膝栗毛』第四篇に掲載された仙台の年中行事(別名『仙臺年中行事大意』)の中には「十五日。大崎入幡宮。十四日夜 より参詣群集す。 この日、門松を入幡の社内にて焚失るなり。」 という記載がある[3]。さらに、1850年(嘉永3年)頃成立と推定される『仙臺年中行事絵巻』の『正月風俗の図』には、注連縄と鉢巻きだけの男性3人(それぞれ、鐘・三方・「菅原」と書かれた桶を持参)の絵と「裸まうて(で)」という注書きが記されており、これらの資料から1840年代後半には「裸参り」が実施されていたと考えられている[3]。『仙臺年中行事絵巻』の絵にある桶に書かれた「菅原」が国分町にあった造り酒屋「菅原家」と推定されることなどから、2006年の仙台市教育委員会作成の資料では、「裸参り」をしていたのが酒屋または杜氏であることは「ほぼ確実であろうと見られている」と記している[3]

前記仙台市教育委員会資料は、「仙臺では十四日から暁かけて大崎八幡宮に松焚祭を執行され、みちも社もうずまるばかりの盛況である、中にも数百人の裸体詣りが神鈴を鳴らして雪を踏んで寒中の中を進むのが威勢よく見られる、これらを暁詣でといふてゐる。[4]」という郷土資料の記述から、「酒屋の安全祈願」であった「裸参り」が「暁詣で」(アカツキモウデ)という民衆習俗と習合した「『参拝行事』の一形態 と化していった」としている[3]

大崎八幡宮松焚祭(どんと祭) 編集

大崎八幡宮の松焚祭(どんと祭)は、厳かに進められる神道的儀礼を中心にして社家が深くかかわる祭礼行事であることが明らかである。しかし、それとともに暁参りや裸参り、古くは鳥追いなどのかたちで周辺住民が多数かかわる民俗的要素から成り立っていることもまた事実である[5]

参詣者が持参した注連縄・松飾りを境内に積み上げて焼く松焚祭(大正期以降に「どんと」の呼称が定着したとされる)は、西日本における「左義長」「お柴燈焼き」等と同じ性質の行事と考えられているが、宮城県に関しては近世以前に同様の祭礼がほとんど確認されないため、ほとんどが大崎八幡宮のどんと祭を起点として普及したとみられている[6][7][8][9]

裸参りには、裸形の人々が神聖性をともなうほど 来訪神化・まれびと化している側面が感じとれる。そういう意味においても、今や裸参りは大崎八幡宮の松焚祭(どんと祭)には欠かすことのできない貴重な民俗習俗となっていると考えられる[5]

酒造業との関連 編集

前記の通り1850年頃『仙臺年中行事絵巻』に描かれた裸参りの男性は酒造業に携わっていたとみられている。

菊地勝之助「仙台郷土事物起原考」(1964年(昭和39年)8月初版)には、「仙台年中行事絵巻に載せてある裸参り姿は、今より約百余年前、仙台城下国分町酒醸家菅原屋(今の千松島醸元菅原家の先代)が醸造の安全を祈願された際のものであるという。」 と記載している[10]

平成16年版大崎八幡宮のどんと祭のパンフレット「どんと祭 裸まいりの御案内」では「二百五十年余の歴史をもつ、全国でも最大級の正月神送りの神事である大崎八幡神社(ママ)の松焚祭裸まいりは、神々が神の国へ登られるための炎を目指し、厳寒の中、裸で参られるものですが、前述の通り、寒の仕込みに入る酒杜氏の新酒祈願のための神詣でありました。」と記している[6]

長らく大崎八幡宮の近傍に位置し、氏子総代として神社の運営に携わってきた天賞酒造は、大崎八幡宮の裸参りとは特別に緊密な関係を持ってきたとされる[11]

佐藤雅也は2000年の『宮城県文化財調査報告書第82集 宮城県の祭り・行事』(宮城県教育委員会)掲載の「大崎八幡宮のどんと祭」において、下記のように指摘した(引用は『大崎八幡宮の松焚祭りと裸参り』による)[12]

なお、現在、南部杜氏の里、岩手県紫波町の志和八幡宮(一月五日の五か日祭)や盛岡市盛岡八幡宮(一月十五日)には「裸参り」の行事が伝わっている。文化年間(1804~1818)以降には、杜氏、蔵人が仙台地方へ冬場の出稼ぎにくるようになるが、大崎八幡宮の松焚祭における裸参りが、これらの南部杜氏、蔵人たちによって広められたのではないだろうか。 — 佐藤雅成、宮城県教育委員会、2000

天賞酒造の蔵人の多くは石鳥谷町の北部に位置する紫波町と、隣接する矢巾町からの出稼ぎ労働者で構成された[13]

岩手県紫波町の志和八幡宮で は「五元日祭」(1月5日)と合わせて町の酒蔵や醤油蔵に勤める若者たちが醸造安全を祈願して裸参りをおこなったといわれている[誰によって?]。紫波町は石鳥谷町(現・花巻市)とならんで南部杜氏の里として知られている。このように、南部杜氏の伝統行事として新酒奉納のための裸参りの習俗があったことが知られている[5]

大崎八幡宮の小正月の裸参りの起源について、文化年間以降に南部杜氏、蔵人が仙台方面へ冬場に出稼ぎに来るようになり、これらの人々が大崎八幡の松焚祭(どんと祭)において裸参りをはじめたのではないかとの推察がある(前掲『宮城県文化財調査報告書第82集 宮城県の祭り・行事』2000年)。 同じく、裸参りは造り酒屋の「杜氏連中」が素裸 の腰に注連飾りを下げただけで鈴を鳴らしつつ寒風をついて参拝して醸造祈願をしたのがはじまりであるとしている[5]

現在[いつ?]の紫波町青年団高橋一弘会長によると、紫波町でも古くより裸参りが行われており、戦時中一時中断するも青年団の古参より伝播され、現在も続けられている(毎年1月5日志和八幡宮「五元日祭」にて実施)[要出典]

 
「天賞裸参り絵巻」平山蘆江作-1941年[5]

1941年(昭和16年)に平山蘆江により描かれた「天賞裸参り絵巻」には、1940年および1941年に大崎八幡宮松焚祭の裸参りに参加した平山蘆江自身の目で見た裸参りの様子を知ることができる[11][14]。以下絵巻中解説文。

(一)

昭和十五年一月十四日
奇縁ありてわか天江富弥氏にさそはれ仙台に松焚祭を見る
天江家の実家丸屋勘兵衛ハ青葉城下に名高き旧家の酒造家なり
嘉例としてこの夜大崎八幡へ裸参りする行事あり
有縁の衆として且ある心願の仔細あり
おのれもまた裸参りの一行に加はる
かしわ手二度打ちて水を二杯あびる
自木綿の行衣に大きな牛薯じめを腰にまき
向鉢まきをしめ口に力紙をくはへる
片手に振鈴
片手に提灯
夜八時お蔵の前に勢揃ひをして 一行三十余人高提灯を先登に
お蔵のまはりを三度まはりて
のっしのっしと大またに力あしをふみしめつつ
約三四丁はなれし大崎八幡へまゐり
御社殿の雪をふみつつここも亦
三度まはりてお神酒を頂き
社殿のどんどの火焔中に ごぼうじめを投げて
おまゐりは終る也
その日を思い出を偲びつつ 辛巳画
平山蘆江

(二)

辛巳正月再び大崎八幡に零す このとし丸屋は新築なりて裸参りの行事亦賑やか也
辰どしは寒さ殊の外強く根雪悉く凍りて
肌をつんざく寒風烈しかりしが
巳どしは我が故郷長崎の冬とおなじほどの温かさなり
先登は高はり提灯
ご主人名代文弥君
杜氏の親方
十九歳の青年 この人威勢甚だよく道々閥歩せり
御神酒
おさかな
おそなえ
武運長久
夜九時頃おまゐり終りて夜あかしの酒宴あり
かくし垂いろいろ
諸々たる和気の中に行事を終わる
昭和辛巳
早春
平山蘆江

裸参りの変容 編集

前記の起源から、「仙台裸参り」の正当な作法は酒造業者によるものとされてきた[15][注釈 1]。しかし、1960年代以降に酒造業とは関係のない各種団体が宣伝を兼ねて参加するようになる一方、日本酒消費量の減退に伴う酒造業者の減少が続き、氏子総代だった天賞酒造も川崎町に移転したことで2004年を最後に裸参りに参加しなくなった[15][16][注釈 2]。このため、酒造業者の作法の伝承を目的に2006年(平成18年)からは、市民有志による「仙臺伝統裸参り保存会[18]」が結成されて裸参りに参加している[15]。保存会は使用する道具類を天賞酒造より借用している[15][16]。また、1992年には伝統的な様式の参拝者が減少した大崎八幡宮から、近隣の別の神社に参拝先を変更した酒造業者がいたと地元紙の河北新報に報じられている[16]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 後述する保存会の設立趣意書に記載された正統な天賞酒造の裸参りは「1.水をかぶって体を清める」「2.ゆっくりと歩み、行きも帰りも私語を慎むために『含み紙』をくわえ、列から離れない」「3.鈴をそろって鳴らす」「4.列の順番にしきたりがあり、動かさない」というものである[15]
  2. ^ さらにその後、2011年の東日本大震災が原因で自社醸造を断念し、銘柄を同県内の中勇酒造に譲渡している[17]

出典 編集

  1. ^ “コロナ終息願い「どんと祭」 「裸参り」参加者は激減 仙台・大崎八幡宮”. 毎日新聞. (2021年1月15日). https://mainichi.jp/articles/20210114/k00/00m/040/288000c 2021年1月23日閲覧。 
  2. ^ 仙台市教育委員会 2006b, p. 22.
  3. ^ a b c d 仙台市教育委員会 2006b, pp. 11–12.
  4. ^ 特集号「郷土の伝承」第1輯『封内年中行事』. 宮城教育. (1931年10月) 
  5. ^ a b c d e 『どんと祭の歴史と民俗』大崎八幡宮、2016年。 
  6. ^ a b 仙台市教育委員会 2006b, p. 9.
  7. ^ 仙台市教育委員会 2006b, pp. 11–13.
  8. ^ 仙台市教育委員会 2006b, pp. 13–15.
  9. ^ 仙台市教育委員会 2006a, p. 167.
  10. ^ 菊地勝之助『「仙台事物起原考」』郵辨社、1964年。 
  11. ^ a b 仙台市教育委員会 2006a, pp. 173–174.
  12. ^ 仙台市教育委員会 2006b, p. 12.
  13. ^ 仙台市教育委員会 2006a, p. 101.
  14. ^ 仙台市教育委員会 2006b, p. 103.
  15. ^ a b c d e 仙台市教育委員会 2006b, p. 47.
  16. ^ a b c 仙台市教育委員会 2006b, pp. 99–100.
  17. ^ “まるや天賞醸造断念 震災で設備損傷 中勇に商標権譲渡”. 河北新報. (2011年7月16日). オリジナルの2011年7月19日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110719201936/http://www.kahoku.co.jp/news/2011/07/20110716t12008.htm 2021年1月25日閲覧。 
  18. ^ 仙臺伝統裸参り保存会

参考文献 編集

  • 「封内年中行事」『宮城教育』特集「郷土の伝承」第1輯、1931年
  • 菊地勝之助『仙台事物起原考』郵辨社、1964年
  • 仙台市教育委員会『宮城県の祭りと行事』仙台市教育委員会〈仙台市文化財調査報告書82〉、2000年。 
  • 仙台市教育委員会『天賞酒造に係る文化財調査報告書』仙台市教育委員会〈仙台市文化財調査報告書304〉、2006年11月。 
  • 仙台市教育委員会『大崎八幡宮の松焚祭りと裸参り』仙台市教育委員会〈仙台市文化財調査報告書305〉、2006年12月。 
  • 「どんと祭の歴史と民俗」大崎八幡宮、2016年

関連文献 編集

  • 『仙臺年中行事絵巻 附仙臺年中行事大意』(絵巻所蔵:常盤雄五郎、解説:三原良吉)仙臺昔話会、1940年
  • 『天賞酒造期限2600年記念アルバム』天賞酒造、1940年 ※従業員等への配布品
  • 「会議所ニュース」(仙台の正月 幕末の正月行事)仙台商工会議所、1972年
  • 前田憲二『日本のまつり どろんこ取材記』造形社、1975年
  • 佐々木久・竹内利美(監修)『ふるさとみやぎ文化百選 まつり』1984年、宝文堂出版 
  • 「八幡町とその周辺の民俗」仙台歴史民俗資料館
  • 『仙台郷土研究』復刊第19巻1号〈特集〉佐々久著作集、仙台郷土研究会出版、1994年
  • 『りらく』2000年(平成12年)1月号
  • 『せんだいタウン情報』2003年1月号
  • 『machinavi PRESS仙台』2016年(平成28年)1月号、ハートアンドブレーン 

関連項目 編集