佐々木芳郎
佐々木 芳郎(ささき よしろう、1959年(昭和34年)1月3日)[1]は、日本の写真家映像ディレクター。大阪市出身。株式会社フォトライブ代表取締役。元日本写真家協会。1985年11月、フォトライブ法人化にあたり常務取締役員として桂南光(3代目)(当時べかこ)を招聘[2]。
佐々木芳郎 | |
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本名 | 佐々木芳郎 |
ふりがな | ささき・よしろう |
国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府大阪市 |
生年月日 | 1959年1月3日 |
血液型 | A型 |
身長 | 173cm |
言語 | 日本語 |
最終学歴 | 関西大学中退 |
事務所 | 株式会社PHOTO LIVE |
公式サイト | http://www.photolive.jp |
来歴 編集
生い立ち 編集
日本一長い天神橋筋商店街8丁目(旧9丁目)にあったクリーニング店の二男。母は佐々木が13歳のときに子宮ガンで病死している。小学4年生で初めてのカメラミノルタ16を手にする。中学ではフォークギターを弾くようになり、将来は吉田拓郎を目指す。一方、写真好きの父親から暗室作業を習う。大阪市立扇町高校時代はハンドボールのゴールキーパーとサッカーのバックスを掛け持つ。また入学同時にフォークバンド「クレパス」を結成。高校三年間は全く勉強しなかった。
大学時代 編集
現役大学受験でまったく試験問題がわからず、関関同立を目指し一年間の浪人生活。関西大学に合格するも、学費が高かったため自宅から歩いて通学でき、同じ教授で10分の1の学費だった天六学舎の第二商学部(夜間)に行くことにする。まわりは皆苦学生で、自分も昼間仕事をしようと、応募したのが放送業界の下請け会社エキスプレス。そこから毎日放送報道映像部堂島に配属され、1978年6月から1980年3月までニュース番組『MBSナウ』の撮影助手になる。三菱銀行人質事件を体験し、自分の企画したニュースも番組で採用される面白さを知り、ミュージシャンではなく報道カメラマンを志す。
写真家 編集
<フリーランス・カメラマンとしてスタート> 編集
1980年4月にフリーランスになり、写真事務所フォトライブ設立。宝石の鑑定・鑑別写真やカレンダーを撮り始める。1982年6月、梅田コマ劇場(現梅田芸術劇場)に売り込み、同年7月に美空ひばり、8月に9代目松本幸四郎(現2代目松本白鸚の『ラ・マンチャの男』を練習で撮る。しかし専属カメラマンが、美空ひばりのカラーでの記念撮影の注文や舞台が暗い『ラ・マンチャの男』の撮影にいずれも失敗。佐々木の写真があったことで、この2公演の公式写真がないという同劇場のピンチを救うこととなる。この功績によって、同劇場の専属カメラマンとなる。同年12月に行われた橋幸夫公演で、バカラ賭博疑惑で取材に来ていた平凡出版(現マガジンハウス)大阪連絡所のトップである高橋靖にスカウトされ、雑誌の世界に入る。
<雑誌のグラビア撮影&専属契約記者へ> 編集
- 1983年1月、マガジンハウスで雑誌の仕事を始め、『週刊平凡』『平凡パンチ』『ポパイ』『アンアン』を手がける。
- 1983年8月、「ポパイ」で初の1カ月にわたる海外取材。
- 1984年7月、渡辺二郎WBA・WBCジュニアバンタム級統一タイトルマッチを『平凡パンチ』で企画・取材する。この時、担当編集者が『文藝春秋』に移籍し、花田紀凱(現『月刊Hanada』編集長)を紹介され『週刊文春』のグラビアの特派記者となる。
- 1984年10月、講談社の雑誌『フライデー』創刊と同時に専属契約。[3]
- 1985年4月、文藝春秋『エンマ』創刊と同時に専属契約。創刊号の企画としてマスコミに出たことがなかった「吉本興業会長の林正之助を1カ月かけて口説き落とし、初めて密着取材・特写に成功。
- 1985年12月、「WBCジュニアバンタム級チャンピン・渡辺二郎海外初防衛戦」を韓国で企画・撮影。
- 2006年4月、米朝事務所専属カメラマンになる[4]。
<写真集・書籍カバー撮影へ> 編集
- 1986年12月〜1月 『文藝春秋』にて立花隆とブラジル・アルゼンチン・パラグワイの伝導村を取材。
- 1987年5月号『文藝春秋』で「神の王国」、1987年8月号『太陽』で「ラテンアメリカのキリスト教美術」発表。
- 1987年6月、原田知世写真集『Schmatz』をロンドンにて撮影。
- 1987年8月初の個展「インディオの聖像」写真展をパラグワイ首都アスンシオンで開催。
- 1987年8月号『文藝春秋』で大英図書館と原田知世写真集『Schmatz』を撮影と執筆。
- 1988年5月、「インディオの聖像」写真展を東京・表参道で開催。しかし販売予定の写真集は、立花隆の原稿が遅れて間に合わなかった[5]。その写真集は、パラグアイでヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)に献本する予定となっていた。結局、写真だけ印刷した本を4部製作[6]。教皇68歳の誕生日に謁見し献本、そのお礼として佐々木は教皇から直接ロザリオを授与される[7]。
<CM・VP制作を経て雑誌・書籍の現場復帰へ> 編集
1994年から1997年までは、雑誌の撮影を離れ、CM、VP制作をする。
- 1997年12月、月刊誌『UNO!』(朝日新聞)とともに雑誌現場復帰。雑誌では事件報道及び海外取材を担当。
- 1999年4月、隔週誌『メンズウォーカー』(角川書店)で事件報道及び海外取材を企画・取材。画家・横尾忠則とクロムハーツ社長・リチャード・スタークの特写&対談企画で、ロサンジェルスへ行く。
- 2001年4月〜2002年10月、月刊誌『編集会議』(宣伝会議)にて作家の表紙撮影の連載開始。六本木スタジオにてすべて大型カメラ4×5での特写を行う。
- 2003年6月 月刊誌『Invitation』(ぴあ)にてヴェネツィア・ビエンナーレ企画で村上隆を現地で取材・撮影。また、当時インディペンデント・キュレーターだった原田マハと共に、スイスのアート・バーゼルやバイエラー財団、ドイツのヴィトラ・デザイン・ミュージアムを取材。[8]。同号のモダン・アートの企画では、奈良美智やヤノベケンジなど現代アート作家を一挙に撮影。
- 2004年6月 19年前の企画第2弾、吉本興業の社長・林裕章撮影。雑誌『インビテーション』の表紙になる。
- 2004年7月7日 中島らも×町田康の七夕ライブをプライベートで撮影。その2週間後に急死したため。「中島らも追悼写真展」を11月大阪・心斎橋で開催。
- 2004年12月 吉本興業会長の林裕章、最後の写真を月刊誌『プレジデント』にて発表。
- 2005年3月 「中島らも追悼写真展」を東京・渋谷パルコ・ロゴスギャラリーで開催2400人を集客 「中島らも追悼写真展」を東京渋谷パルコ・ロゴスギャラリーで開催2400人を集客[9]。
- 2005年3月 「愛・地球博」(2005年日本国際博覧会)をヤノベケンジと取材。
- 2005年7月 イサム・ノグチ展のモエレ沼公園を建築家の竹山聖と取材。
- 2015年7月 「時代小説家が古地図で巡る江戸史跡の旅『山本一力さん、人情と橋の町深川をゆく』」で、富岡八幡宮で時代小説家・山本一力を特写。(「一個人」2015年7月号(KKベストセラーズ)。
- 2016年1月 対談 内田樹 vs 釈徹宗「日本人が初詣に出かける理由」(「一個人」2016年1月号(KKベストセラーズ)。10年ぶりに内田樹を取材し、これ以降「ふくふく会」が、開催される[10]。
主な仕事 編集
期間 | 雑誌名(出版・新聞社) | 連載タイトル | 撮影人物など |
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1983.4〜1984.12 | サンケイスポーツ新聞(産業経済新聞社) | 「アタック和ちゃん」 | 女子大生がさまざまなスポーツにチャレンジする |
1989.8〜1991.3 | 週刊現代(文藝春秋) | なにわ・毒舌ふたり旅 | 上岡龍太郎がホストとなり対談。必ず特写をする企画 |
1992.8〜1993.12 | マルコポーロ(文藝春秋) | 「マルコの輪」 | タモリの友達の輪の雑誌版リレーインタビュー。扮装の特写をする |
1997.8〜9 | スポーツニッポン(大阪本社) | 「ワールドNOW」 | カリブ海クルーズ |
2001.4〜2002.10 | 編集会議(宣伝会議) | 「作家と担当編集者の特写表紙」 | 作家・の表紙撮影及び特集撮影 |
2006.8〜2007 | スポーツニッポン(大阪本社) | 「実写版間違いさがし」 | 女優のプライベート空間での撮影 |
期間 | 演目 | 劇場名 | 出演者 |
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1982年7月 | 「鳳仙花」 | 梅田コマ劇場 | 島倉千代子 |
1982年8月 | 「ラ・マンチャの男」 | 梅田コマ劇場 | 松本幸四郎 |
1982年8月 | 「松田聖子フェスティバル」 | 梅田コマ劇場 | 松田聖子 |
1982年9月 | 「木場の女」 | 梅田コマ劇場 | 美空ひばり |
1982年9月 | 「弥次喜多大阪に現る」 | 梅田コマ劇場 | 橋幸夫 |
1982年9月 | 「大月みやこリサイタル」 | 梅田コマ劇場 | 大月みやこ |
1982年10月 | 「西陣息子」 | 梅田コマ劇場 | 中村扇雀 |
1982年10月 | 女は度胸でございます」 | 梅田コマ劇場 | 小林幸子 |
1982年11月 | 「夫婦善哉」 | 梅田コマ劇場 | 村田英雄 |
1982年12月 | 「弥次喜多大阪に現る」 | 梅田コマ劇場 | 橋幸夫 |
1982年12月 | 「カルメン」 | 梅田コマ劇場 | 長嶺ヤス子 |
1983年1月 | 「関の弥太っぺ」 | 梅田コマ劇場 | 鶴田浩二 |
1983年2月 | 「舟遊女」 | 梅田コマ劇場 | 市川猿之助 |
1983年3月 | 「春姿一番纚」 | 梅田コマ劇場 | 森進一 |
1983年3月〜4月 | 「愉快な海賊大冒険」 | 梅田コマ劇場 | 千葉真一・志穂美悦子・真田広之 |
1983年5月 | 「みちのくひとり旅」 | 梅田コマ劇場 | 山本譲二 |
1983年6月 | 「ねんねころいち」 | 梅田コマ劇場 | 川中美幸 |
1983年6月 | 「北酒場」 | 梅田コマ劇場 | 細川たかし |
1983年7月 | 「加山雄三とたからじぇんぬ」 | 宝塚大劇場 | 加山雄三・黒木瞳・大地真央・麻美れい・遥くらら |
1983年9月 | 「水仙の詩」 | 梅田コマ劇場 | 美空ひばり |
1983年11月 | 「愛のシンフォニー」 | 梅田コマ劇場 | 松本伊代・阪上二郎 |
1983年12月 | 「スイートチャリティー」 | 梅田コマ劇場 | MIE・大信田礼子 |
1984年8月 | 「ミズ・今年最高の女性」 | 梅田コマ劇場 | 鳳蘭・細川俊之 |
1985年4〜5月 | 「ゴールデンスペシャル少年隊」 | 梅田コマ劇場 | 錦織一清・植草克秀・東山紀之 |
1986年11月 | 「その男ゾルバ」 | 梅田コマ劇場 | 藤田まこと |
1994年4月 | 「LOVE」 | ドラマシティ | 市村正親・西城秀樹・鳳蘭 |
1994年4月 | 「ゴールド家のたそがれ」 | ドラマシティ | 麻実れい 前田耕陽 河内桃子 福井貴一 勝部演之 |
1995年4月 | 「元禄おんな舞」 | 梅田コマ劇場 | 美空ひばり |
1995年6月 | 「チーターの歌う弥次喜多道中」 | 梅田コマ劇場 | 水前寺清子 |
1995年6月 | 「ファニー」 | ドラマシティ | 島田 歌穂・宝田明・ミッキーカーチス・財津一郎 |
1995年6月 | 「花の生涯」 | 梅田コマ劇場 | 鶴田浩二 |
2000年4月 | 「ハウ・トゥ・サクシード」 | 梅田コマ劇場 | 高嶋政伸 |
期間 | 企画名 | 媒体名(出版・新聞社) | 国名 |
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1983年 | 「フットボールは史上最強のフィジカルゲーム」 | 「POPYE」8月号(マガジンハウス) | アメリカ |
1984年 | 「KLMオランダ航空 アムステルダムーソウル就航記念」 | (KLMオランダ航空) | オランダ・イタリア・フランス |
1985年 | 「WBCジュニアバンタム級チャンピン渡辺二郎海外初防衛戦」 | 「平凡パンチ」8月号(マガジンハウス) | 韓国 |
1986年12月 | 「立花隆『神の王国』」 | 月刊「文藝春秋」5月号 | ブラジル・アルゼンチン・パラグアイ |
1986年5月 | 「立花隆『インディオの聖像』」(再撮影) | 月刊「文藝春秋」5月号 | パラグアイ |
1987年7月 | 「原田知世写真集『Schmatz』」 | ウルトラ企画 | イギリス |
1987年8月 | 「ローマ教皇ヨハネ・パウロII世 謁見」 | 『インディオの聖像』 | パラグアイ |
1995年 | 「香港魅惑の街に誘われて」 | 朝日新聞10月4日 | 香港 |
1995年 | 「アンディ・ラウ単独インタビュー」 | マレーシア | マレーシア |
1997年 | 「日本に一番近い玄関口 『釜山』」 | 「UNO!」1月号(朝日新聞) | 韓国 |
1997年 | 「『スピード2』で知ったバハマの船旅へあなたも」 | 「UNO!」10月号(朝日新聞) | バハマ |
1997年 | 「アトランタの旅『タラで観たオズの魔法使い』」 | 「UNO!」12月号(朝日新聞) | アメリカ |
1998年 | 「スペインバルセロナの旅『カヴァの故郷を訪ねて』」 | 「UNO!」1月号(朝日新聞) | スペイン |
1998年 | 香港の映画王『チャン・ラン』 | 「UNO!」2月号(朝日新聞) | 香港 |
1998年 | ニュージーランドの旅『甲賀瑞穂のNZの大冒険』 | 「UNO!」7月号(朝日新聞) | ニュージーランド |
1999年 | 「カリフォルニア・ナパバレーの旅『ワインと戯れる旅』」 | 「Men's Walker」10月号(角川書店) | アメリカ |
1999年 | 「伊能静の好食好旅」 | 「Men's Walker」9月号(角川書店) | 台湾 |
1999年 | 「観迎光臨台湾」 | 「Men's Walker」12月号(角川書店) | 台湾 |
2000年 | 「ソーサの夢ボニータの夢・葉巻の共和国ドミニカ」 | 「Men's Walker」6月号(角川書店) | ドミニカ共和国 |
2000年 | 「横尾忠則×クロムハーツ リチャード・スターク」 | 「Men's Walker」(角川書店) | アメリカ |
2000年 | 「世界で一番過酷(高低差810m)コムレーズ100キロマラソン」 | 「Men's Walker」8月号(角川書店) | 南アフリカ共和国 |
2001年 | 「KinKi Kidsとアジアが出会った日」 | 「Men's Walker」5月号(角川書店) | 香港 |
2001年 | 「タイタンズを忘れない」フットボールに青春を懸けて | 「映画館へ!」6月号(宣伝会議) | アメリカ |
2001年 | 「光と歌に包まれた島と人々」 | 「feature」2月号(角川書店) | キューバ |
2002年 | 「近しい国がもっと近くなる」 | 「サンデー毎日」4月号(毎日新聞) | モンゴル |
2003年 | 「モダンアート経済白書」 | 「インビテーション」9月号(ぴあ) | イタリア・スイス・ドイツ |
2006年 | 「杭州に誕生 デザイナーズホテル・アマンリゾート」 | 「カラフル」10月号(ぴあ) | 中国 |
2007年 | 「上方落語in北京大学」桂小米朝(現米團治) | 「笑って学んでin北京」(和泉書院) | 中国 |
2016年 | 「ギリシャ・エーゲ海の旅」 | 「一個人」8月号(KKベストセラーズ) | ギリシャ |
期間 | 企画名・雑誌(出版社など) | 撮影人物 |
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1992年8月〜1993年12月 | 「MARCO SHOCKING どこまで続くか関西の輪 〜リレーインタビュー&扮装特写〜」『マルコポーロ』(文藝春秋) | 佐々木芳郎→上岡龍太郎→井上章一→前田日明→新田達夫→大森一樹→阪本順治→藤本義一→松尾貴史→森 毅→安藤忠雄→谷川浩司→桂小米朝→釜本邦茂→玉木正之→朝比奈千足→高市早苗→辰巳琢郎 |
2001年4月〜2002年10月 | 表紙・特集『編集会議』(宣伝会議) | 林真理子・柳美里・椎名誠・安西水丸・伊集院静・町田康・しりあがり寿・阿川佐和子・小池真理子・西原理恵子・山本容子・秋元康・大田垣晴子・小松成美・爆笑問題 |
期間 | タイトル | ジャンル(出版社など) | 内容 |
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1983年6月 | 「杉原輝雄カレンダー」 | カレンダー(杉原輝雄) | 杉原輝雄 |
1984年11月 | 「桂べかこ初独演会」(サンケイホール) | ポスター(産経ホール) | 桂べかこ |
1985年7月 | 「もめん家族:わくわく子育て」 | 書籍カバー・他(企画者) | 仁科克子 |
1987年1月 | 「インディオの聖像」 | 写真集(講談社) | ※共著者立花隆の原稿なしの幻の写真集 |
1987年8月 | 「Schmatz TOMOYO HARADA '87 CONCERT TOUR」 | 写真集(ウルトラ企画) | 原田知世 |
1988年11月 | 「ファッション好きやねん」 | 書籍カバー・他(たる出版) | 小篠 綾子 |
1991年1月 | 「その男 ゾルバ」(梅田コマ) | カレンダー・パンフレット(梅田コマ) | 藤田まこと |
1990年2月 | 「TOMOHIRO NISHIURA PHOTO COLLECTION VOL.1」 | 写真集(Muse389) | 西村智宏 |
1983年1月 | 「OBELISK」 | カレンダー(上岡龍太郎事務所) | 上岡龍太郎 |
2001年8月 | 「ピンクのアオザイの裾を夜風にあそばせ」 | CDジャケット(サザン・ライト) | 堀ちえみ |
2004年10月 | 中島らも「彼の世でアンコール!」(心斎橋アセンス) | 追悼写真集(中島らも追悼写真展実行委員会) | 中島らも |
2005年3月 | 中島らも「彼の世でアンコール!」(渋谷パルコ ロゴスギャラリー) | 追悼写真集(PHOTOLIVE) | 中島らも |
2005年5月 | 「牢屋でやせるダイエット」 | 文庫本カバー・巻頭グラビア(青春出版) | 中島らも |
2005年5月 | 「心が雨漏りする日には」 | 文庫本カバー・巻頭グラビア(青春出版) | 中島らも |
2011年6月 | 「阪神の女房」 | 書籍カバー(朝日新聞出版)(青春出版) | 矢野燿大 |
2018年2月 | 「THE 独裁者 国難を呼ぶ男! 安倍晋三」 | 書籍カバー(KKベストセラーズ) | 古賀茂明・望月衣塑子 |
2018年6月 | 「洛中洛外をゆく。」 | 書籍カバー・巻頭グラビア(KKベストセラーズ) | 葉室麟&洛中洛外編集部 |
2018年8月 | 『近江商人の哲学「たねや」に学ぶ商いの基本』 | 書籍カバー・他(講談社現代新書) | 山本昌人 |
2019年5月 | 「安倍晋三 大研究」望月衣塑子&特別取材班 | 書籍カバー全撮影(KKベストセラーズ) | 望月衣塑子・内田樹・他 |
2022年2月 | 「洛中洛外をゆく。」 | 書籍カバー(角川文庫) | 葉室麟 |
2022年4月 | 「インディオの聖像」 | 書籍カバー巻頭グラビア(文藝春秋) | 立花隆・遺跡・彫刻 |
2022年9月 | 「Espina」 | CDジャケット(株式会社音楽センター) | 川口真由美 |
2022年9月 | 「Espina」 | 川口真由美写真集&DVD(株式会社音楽センター) | 川口真由美 |
期間 | タイトル | 場所 |
---|---|---|
1987年7月 | 「神の王国」写真展 | アスンシオン(パラグアイ) |
1988年5月 | 「インディオの聖像」写真展 | ギャラリー・ラミア(表参道) |
1988年5月 | 「インディオの聖像」写真展 | ギャラリ-もみの木栃木と長野で開催 |
2004年10月 | 「中島らも『ENCORE IN HEVAEN!』」 | 心斎橋アセンス(心斎橋) |
2005年3月 | 「中島らも『ENCORE IN HEVAEN!』写真展」 | PARCOギャラリー(原宿) |
2022年6月 | 「立花隆を魅了したインディオの聖像」1日だけの写真展 | 大阪市立中央公会堂1階ロビー(大阪・中之島) |
2023年4月 | 写真展「インディオの聖像」 | ギャラリーPlaceM(東京・新宿) |
期間 | タイトル | 媒体名&番組名(会社名) |
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1980年10月 | 「わたしのシャッターチャンスを公開する」 | 「CAPA」10月号(学習研究社) |
1986年6月 | 「ビートたけしFRIDAY襲撃事件判決について」 | ハウ原田YOU(ラジオ大阪OBC) |
1987年7月 | 「神の王国」 | NEWS(パラグアイ国営放送/FM) |
1987年8月 | 「インディオの聖像」 | 「心のともしび」(日本テレビ) |
1996年4月 | 「写真家はデジタルウェーブにどうのるか」 | Imagazin」 NO.2 (株式会社イマ) |
2022年4月 | 「見えた何が永遠が〜立花隆最後の旅」 | 現代スペシャル(NHK) |
2022年4月 | 完全版「見えた何が永遠が〜立花隆最後の旅」 | 現代スペシャル(NHK-BS) |
2022年5月 | 「インディオの聖像と立花隆」 | 「原田年晴のかぶりつきマンデー」(ラジオ大阪) |
脚注 編集
注釈 編集
出典 編集
- ^ 佐々木芳郎|著者プロフィール|KKベストセラーズ|2024年3月14日閲覧
- ^ 桂南光|Wikipediaプロフィール|2024年3月14日閲覧
- ^ 佐々木芳郎|著者プロフィール|KKベストセラーズ|2024年3月14日閲覧
- ^ 米朝事務務所HP|2024年3月14日閲覧
- ^ 朝日新聞 夕刊 「しごとの周辺『ローマ法王への献本」』(立花隆)|1988年6月23日|2024年4月2日閲覧
- ^ 「現代ビジネス」|2022年5月27日|2024年3月14日閲覧
- ^ 産経新聞|2022年5月11日|2024年3月14日閲覧
- ^ 原田マハはスイス・ドイツだけでなく、N.Y取材も行った。同雑誌がライターとしての彼女の初仕事となる。|原田マハ公式ウェブサイト「マハの展示室」PROFILE|2024年4月3日閲覧|
- ^ ロゴスギャラリー展示会内容archives|2024年3月14日閲覧
- ^ 内田樹X(旧Twitter)|2016年2月6日|2024年3月14日閲覧