優旃(ゆうせん、旃という名の俳優[1])は、古代中国宮廷道化師[2]始皇帝二世皇帝に仕え、遠回しな諫言(諷諫[3])をした。『史記滑稽列伝に3つのエピソードが伝わる[4][1]

エピソード 編集

侏儒 編集

優旃は、古代の宮廷芸人の多くがそうだったように「侏儒」(しゅじゅ、小人)であり[1]笑い話や歌舞で始皇帝を楽しませていた。

あるとき、始皇帝が宮中で宴に興じていると、雨が降り出し、門前に立っている衛兵たちがずぶ濡れになっていた。それを不憫に思った優旃は、衛兵たちを呼び寄せて次のように言った。「君たちは背が高いから、雨の中でも見張りができるんだなあ。私は背が低いから、中で休んでいられるよ」 これを聞いた始皇帝は、衛兵たちを輪番で休ませるよう命じた。

園林 編集

あるとき、始皇帝は皇室の園林を拡大して、東は函谷関、西は雍県陳倉県にまで広げようとした。優旃は次のように言った。「いいですね。そこに動物を放し飼いにしておけば、敵が攻めてきても鹿が角で突いて撃退してくれるでしょう」 これを聞いた始皇帝は計画を中止した。

漆の城 編集

二世皇帝が即位すると、城壁を全面漆塗りにしようとした。優旃は言った。「いいですね。民は出費を不安に思うでしょうが、それでも綺麗でしょう。つるつるの城壁なら敵が来たって登れません。ただ、漆を固めるには日光を遮る暗室が必要です。城をまるごと覆えるほど大きな暗室を作るのは、至難の業でしょうね」 これを聞いた二世皇帝は笑い、計画を中止した。

ほどなくして秦が滅ぶと、優旃はに帰順し、数年後に没した[1]

関連項目 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c d 青木五郎『新釈漢文大系115 史記 十三(列伝 六)』明治書院、2013年。ISBN 9784625673184 218-221頁。
  2. ^ 倡優』 - コトバンク
  3. ^ 釜谷武志「賦に難解な字が多いのはなぜか——―前漢における賦の讀まれかた―」『日本中国学会報』第48号、日本中国学会、1996年https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/2015 25頁。
  4. ^ 大田加代子「『史記』における「辯」と「滑稽」(下)」『名古屋大學中國語學文學論集』第6号、名古屋大學中國語學文學會、1993年。 NAID 120006220203https://doi.org/10.18999/joucll.6.(15) 19頁。