元気です。』(げんきです。)は、1972年7月21日に吉田拓郎(当時はよしだたくろう)がリリースしたオリジナル・アルバムである。吉田拓郎のアルバムとしては最高のセールスを記録している。

元気です。
よしだたくろうスタジオ・アルバム
リリース
録音 CBS・ソニーレコード
第1スタジオ
ジャンル フォークソング
レーベル Odyssey/CBS Sony
プロデュース 吉田拓郎
チャート最高順位
  • 週間1位(オリコン
  • 1972年度年間2位(オリコン)
  • 1973年度年間4位(オリコン)
よしだたくろう アルバム 年表
人間なんて
(1971年)
元気です。
(1972年)
たくろう オン・ステージ第二集
(1972年)
『元気です。』収録のシングル
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解説 編集

あさま山荘事件が起き、沖縄が日本に返還された1972年、学生運動が退潮し、次の時代への期待と不安が入り混じったこの年、吉田拓郎の最高傑作『元気です。』は生み出された[1]。アルバムリリースは第1次田中角栄内閣発足から二週間後のことだった[1]

それまでフォークを取り上げなかった一般紙までも「フォークの吉田の初アルバム」と書きたてた[2]。拓郎がエレックレコードのようなマイナーレーベル時代に出したアルバムは、そういう世界ではまだ"ないもの"に等しかった[2]

拓郎は、この年6月の四角佳子との結婚式マスメディアからの取材を拒否し、さらにテレビ出演を拒否をし続けた時期で、セールス・プロモーションは、ほとんど行われなかったが[3][4]、リリース直後から話題をさらい、1ヵ月で40万枚を売り上げ、アルバムを手にした若者たちは、この年の夏、取り憑かれたように聞き、没入した[1]

シングルとは別ヴァージョンの「旅の宿」を収録。ヒットしたシングル曲を別アレンジヴァージョンでアルバムに入れるのは当時は異例だった[5]

セールス 編集

オリコン・シングルチャートで1位を獲得した「旅の宿」、モップスに作品提供した「たどりついたらいつも雨ふり」が収録されている。オリコン・アルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を獲得するなど、1972年の年間第2位及び1973年の年間第4位に輝いた。1986年にCD化された。1990年のCD選書のほか、2006年にも再リリースされている。

アルバムが売れない時代に[注釈 1]、これも僅か1ヶ月間で40万枚を売り上げるというシングル並みのセールスを記録[6]、オリコンアルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を独走しアルバム・セールス時代の先鞭をつけた[7]

同年7月1日に発売したシングル「旅の宿」が8月7日付けでオリコンチャート1位を獲得[8]。この週から5週間1位を続けるが、二週目の8月14日付けで『元気です。』がオリコンアルバムチャートで1位を獲得し[9]、以降連続14週(通算15週)トップを独走したため[10]、1972年の8月14日~9月4日まで、拓郎作品がシングル・アルバムの両チャート1位を独占する偉業であった[9]

評価 編集

  • みうらじゅんは「『元気です。』はたぶん僕の人生の中で一番よく聴いたアルバムです。前作の『人間なんて』は宝箱みたいなぐちゃぐちゃ感があったけど、このアルバムは一曲でも曲順違ったら『元気です。』にならないでしょ。プログレの組曲みたいな構成ですから(笑)。一曲目の『春だったね』から『せんこう花火』に続くところなんて俳句の世界でしょ。今はCDだから切れないけど、『たどり着いたらいつも雨降り』までのA面でガツンとポップスやって、B面一曲目の『高円寺』でまたブルージーフォーク調にもどる。これがまた印象的です。この『高円寺』を聴いて僕の上京は決まったようなものです。この曲聴いたから東京出てきて高円寺に住んで、今も中央線沿線に至るわけです。これが『霞が関』って曲だったら霞が関に住んでいたかもしれない(笑)。でも、高円寺なんですよね。吉祥寺でも下北沢でもない。今はある意味オシャレな街になってますが、この曲以前は高円寺には何もなかったのですから。ジャケット写真もいいですよね。この世界観も一人で放浪しているフォークシンガーなんですね。ここによしだたくろうという人のイメージが確立されたのだと思います。『僕はやっぱり元気なのです』って手書きライナーノーツのような手紙、これがまた、いいんですよ。これはたくろうさんの字なのでしょうか。この時代のたくろうさんの書体に影響され、これがフォントになって、今でも僕の字体になってしまった。この手紙、まるで歌詞のように書かれています。それがわざわざ緑色の紙に印刷されてレコードのインナーに挟まれるというやり口はそれまでになかった。これってとても個人的な内容ですからね。それまではライナーノーツって評論家の人が曲についてのデータを書くというものだったので、革命的で新鮮でした。これまでのフォークの要素をメジャーに行って全部それを歌謡曲に取り込む、というような作業がこのアルバムなのかもしれないですね」等と論じている[12]

影響 編集

  • 当時高円寺に住まいを置いた拓郎のご当地ソング「高円寺」が拓郎のブレイクにより[12][13]、多くのフォークシンガーが高円寺に居を置いていたこともあって[14]、"フォークのシンボル"的な町として語られるようになった[12][13][15]
  • 拓郎らが起こしたフォークブームで、東芝を皮切りにビクターキングコロムビアポリドールなど、メジャー系レコード会社のすべてがフォークを売り出し、フォークレコードが氾濫することとなった[16][17]
  • 柴門ふみの最初の連載『P.S. 元気です、俊平』のタイトルは、本レコードと一緒に収められた、拓郎が当時のフォークファンから「商業主義」などと叩かれていたことに対するアンサーが書かれた直筆ライナーノーツに触発されての命名という[18]。柴門は「毎号買っていた音楽雑誌『新譜ジャーナル』に紹介されていて初めて拓郎さんを知ったのですが、それまでのフォークといえば、岡林信康さんなど反戦歌や社会的なメッセージを含んだ歌が主流でしたから、拓郎さんは童顔も相まって、他のフォークシンガーとは違う存在感を放ってたんです。私はそこに惹きつけられました。『元気です。』で一番心に響いたのは『たどり着いたらいつも雨降り』です。アルバムの中では特にポップな曲調ですが、反対に歌詞がやけにやさぐれています。そのぶっきらぼうな歌いっぷりが高校生ながら心に響きました。年齢を重ねても、折に触れてあの歌を聞いていると、大人になるに連れ、サビ終わりの"それでもやっぱり考えてしまう~"のフレーズが沁みるようになってきました。仕事が思うようにいかず行き詰ってしまうとき、あのメロディが浮かびます。人生なんて思い通りにならないんだ。腐っていたって仕方ない。そう励まされる歌です」などと述べている[1]
  • 江口寿史は「『元気です。』との出会いがなければ、今の僕はありません。あのレコードは、僕の人生を決定づけてしまいました。『元気です。』を何度も何度も聞きました。吉田拓郎になりたくて、髪型も服装もすべてを真似しました。拓郎さんの歌はメロディも平易で、スッと耳に入ってくる。自分でもできる気がしたんです。それで小遣いを貯めて名もないギターを5500円で買いました。何百回、何千回と拓郎さんの歌をコピーしました。ところがいくら練習しても拓郎さんに近づけない。あの独特な節回しはどうしても再現できないんです。人は結局、自分以外の人間にはなれないんだ。そう気付いたんです。いくら真似したって、憧れの人にはなれない。それならば、僕でなければできないものを見つけて、その道を突き進もう。そう決めました。それが僕にとっての漫画だったんです」などと述べている[1]

収録曲 編集

  1. 春だったね (3分08秒)
    作詞:田口淑子
  2. せんこう花火 (2分08秒)
    作詞:吉屋信子
  3. 加川良の手紙 (3分53秒)
    作詞:加川良
    • レコーディングする曲が足りなかった拓郎から切羽詰まって「余った曲ないか?」と電話を受けた加川だったが、余っている曲はなかった。しかし加川には当時の外国の歌によくあった「手紙の文面にそのままメロディを付けて曲にするというアイデアをやってみたい」という構想があり、書き留めていたもの(加川良と「田中さん」とのやりとりの手紙[20])をレコーディングスタジオに持って行くと、拓郎がその場でメロディを付けてささっと仕上げたという[21]。『元気です。』が大ヒットしたため、作詞者としてクレジットされている加川に多額の印税が入ったと言われている。また曲のタイトルにも自身の名前が入ったため、人から「あんたがあの歌の人?」とよく言われたという[22]
  4. 親切 (4分25秒)
    作詞:吉田拓郎
  5. 夏休み (3分02秒)
    作詞:吉田拓郎
  6. (1分13秒)
    作詞:吉田拓郎
  7. たどり着いたらいつも雨降り (2分50秒)
    作詞:吉田拓郎
  8. 高円寺 (1分27秒)
    作詞:吉田拓郎
  9. こっちを向いてくれ (3分26秒)
    作詞:岡本おさみ
  10. まにあうかもしれない (2分24秒)
    作詞:岡本おさみ
  11. リンゴ (1分50秒)
    作詞:岡本おさみ
  12. また会おう (3分08秒)
    作詞:岡本おさみ
  13. 旅の宿 (2分31秒)
    作詞:岡本おさみ
  14. 祭りのあと (4分18秒)
    作詞:岡本おさみ
  15. ガラスの言葉 (3分03秒)
    作詞:及川恒平
    • 交流のあった及川に拓郎自身が作詞を頼んだ[1]。渡された歌詞を見て拓郎は「恒平の詞はわからん」と言ったという[1]。歌詞にはちゃんと"ミルキーウェイ"(天の川)と書いていたのに拓郎は"ミルクウェイ"と歌っている[1]。及川がそれを指摘したが拓郎は「いいんだよ、これで」と言ったため、それ以上の追及はしなかったという[1]。拓郎は歌詞の字面が正しいか否かより、もっと深いところにある音の響きを優先させた。結果、この歌はより自然に心の中に沁み込む曲に仕上がった。「ガラスの言葉」は、まさに吉田拓郎という音楽家の粋が凝縮された歌なのである[1]

参加ミュージシャン 編集

  • ギター、E.ギター、オルガン、ピアノ、フラット・マンドリン、ドブロ、E.ベース:石川鷹彦
  • ピアノ、オルガン、バンジョー、フラット・マンドリン:松任谷正隆
  • ドラムス:林立夫
  • E.ベース:後藤次利小原礼・井口よしのり
  • E.ベース、パーカッション、コーラス:内山修
  • バンジョー、コーラス: 常富喜雄
  • 12弦ギター、コーラス: 田口清
  • E.ギター:田辺和博
  • コーラス: 陣山俊一・前田仁
  • ギター、ハーモニカ、E.ベース、パーカッション、ヴォーカル:吉田拓郎

関連作品 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 当時はシングルは売れても、アルバムは3千〜5千枚売れたらいい方であった(ラヴ・ジェネレーション1966-1979 新版 日本ロック&フォークアルバム大全、音楽之友社、p282)。

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j 「夏休みスペシャル 日本人の心を掴んだ人たち(Ⅲ) 1972年、若者の青春が変わった。『春だったね』から『夏休み』『旅の宿』まで 吉田拓郎「最高の名盤 『元気です。』を取り憑かれたように聞いた夏」『週刊現代』2020年8月8、15日号、講談社、172–175頁。 
  2. ^ a b 関西フォーク70'sあたり、中村よお、幻堂出版、p68
  3. ^ 【1972年8月】旅の宿/よしだたくろう 幸せの絶頂期にリリースしたヒット曲
  4. ^ 吉田拓郎「元気です」p2 - ダイヤモンド・オンライン
  5. ^ アサヒ芸能、2009年7月2日号、p38-39)
  6. ^ Lapita 月刊吉田拓郎、小学館、p34
  7. ^ ニッポンのうた漂流記、河出書房新社、p134
    ビジュアル版・人間昭和史⑦ 大衆のアイドル、1986年、講談社、p233
    アサヒ芸能、2009年7月2日号、p36、37
    guts、表現技術出版、1973年1月、p31
    「伝説のメロディ 甦る!日本のフォーク フォークル、岡林信康、吉田拓郎、かぐや姫...」BS朝日、2010年4月25日
    ラガー音楽酒場 / 村上“ポンタ”秀一(ドラマー) | WEBマガジン e-days
  8. ^ 1972年8月7日、吉田拓郎の「旅の宿」がオリコン・チャート1位を獲得
  9. ^ a b 「ミュージックヴァラエティ ポピュラー歌謡曲 EPベストセラーズ20」『週刊平凡』1972年8月24日号、平凡出版、77頁。 
  10. ^ 吉田拓郎 | OTONANO powered by Sony Music Direct (Japan) Inc.
  11. ^ 喜多由浩 (2023年10月11日). “話の肖像画 精神科医・エッセイスト きたやまおさむ<10> 僕らはだんだん倦んでいった”. 産経ニュース. 2023年10月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月18日閲覧。話の肖像画 精神科医・エッセイスト きたやまおさむ<11> 「変化」を実感した拓郎の登場”. 産経ニュース (2023年10月12日). 2023年10月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月18日閲覧。
  12. ^ a b c 不定期連載 僕の髪が肩まで伸びて よしだたくろう! 第6回 『元気です。』その1(序章)
  13. ^ a b 泉麻人「あのころの熱をもう一度 フォークの季節 歌われた東京の町 空飛ぶ中央線と葛飾のバッタ」『東京人都市出版、2011年9月号、58-63頁。 
  14. ^ 「新・家の履歴書 南こうせつ」『週刊文春』2010年4月8日号、pp.94-97
  15. ^ 第155話 フォークソング - 「フォークソングと言えば《寺》です」 - ピートのふしぎなガレージ
  16. ^ 矢沢保 1980, p. 38.
  17. ^ ポピュラー音楽は誰が作るのか、生明俊雄勁草書房、p160
  18. ^ 越智俊至・飯田樹与・中山敬三 (2020年10月4日). “<考える広場>吉田拓郎が拓いた地平”. 東京新聞 TOKYO Web (中日新聞東京本社). オリジナルの2020年10月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221004034506/https://www.tokyo-np.co.jp/article/206251 2022年10月27日閲覧。 
  19. ^ グルーヴァーズ / 春だったね'97”. CDジャーナル. 2019年7月13日閲覧。
  20. ^ 「坂崎幸之助・吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」内での吉田拓郎の発言より
  21. ^ 加川良の歌「教訓 Ⅰ」の時代をこえたリアリティ | 【es】エンタメステーション
  22. ^ 吉田拓郎読本、CDジャーナルムック、音楽出版社、p44-46
  23. ^ 桑原聡 (2022年9月3日). “モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら (135) 拓郎よ、フォーエバー”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社). オリジナルの2022年9月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220903022810/https://www.sankei.com/article/20220903-5S7XI2NM4VNCBLXSHDC6WYRLMY/ 2022年9月5日閲覧。 

関連項目 編集