勝山城(かつやまじょう)は、広島県三次市粟屋町にあった日本の城。標高270メートル、 比高100メートル。ここでは、隣接して存在した加井妻城(かいづまじょう、かいづめじょう)についても述べる。

概要 編集

登城路はなく、麓の地蔵の裏から登ると、しばらくして大きな竪堀につきあたる。は全体に方形で、1郭は背後(北側)に土塁があり、西には3郭につながる土塁状の通路を設置している。

3郭は草木と石垣でに囲まれている。北と西に土塁が設けられており、北東隅には井戸が残る。北側の土塁は中央部が開口し、虎口となっている。少し上がったところが2郭で、神社あり、その上に主郭。ここも石垣が散乱し、奥には土塁と、勝山城の 矢竹がある。

1郭の東側にも土塁で北・東を囲んだ小郭が配置されている。北・南西・東に延びる尾根筋上に堀切を設け、城域を画している。

戦国末期の城で山頂でも石垣を大量に使用し、加工度も高く、長い居住していた跡が見える。城の麓の少し東に「市場」という地名もあり、城下町も形成もされていた。本城の比叡尾山城までは距離が12キロメートル弱ある。

歴代城主 編集

戦国時代後期~ 安土桃山時代高田郡粟屋町勝山城主。享禄4年(1531年)~ 天正19年(1591年
  • 三吉豊後守
天文元年(1532年)- 天正15年(1587年)。三吉豊高の四男(三吉致高の弟)、三吉郡原村沼城主、三吉三郎右衛門の息子。父親の三郎右衛門の討死は天文9年(1540年)。初めは新四郎または松之助。豊後守を名乗った頃に沼之城の城主となり、粟屋隆信の跡に城番を仰せられ勝山城に入城。55歳で病死[1]
  • 三吉新四郎[2]
家督相続の後しばらくして 太閤殿下の時代に下山し、志和地村の内田の土居へ移った(いつかは不明)。このときに勝山城は廃城となった。

加井妻城 編集

加井妻城(かいづまじょう、かいづめじょう)は、広島県三次市粟屋町に存在した城である。標高223m、比高58m。城主は青屋出羽守入道友梅(三吉(粟屋)久高)。別名は青屋城、粟屋城、卑城、飼地城。

概要 編集

1977年に一部発掘調査が行われ、出土遺物には輸入陶磁、国産陶器(備前・瀬戸美濃)、土師質土器(すり鉢・鍋・香炉・皿など)、土製品(土錘)、石製品(磨臼、砥石)、鉄製品(短刀・鋤先・鉄鏃・釘など)、青銅製品(笄・和鏡・鋲など)、古銭などが見られる。

輸入陶磁や国産陶器などから、15世紀後半から16世紀代に築城されたものと想定される[3]

この城は比叡尾山城に本拠を置く三吉氏が、三次郡南部の支配を固めるために構築した城で、三吉氏の勢力範囲の境の城であった[4]。上村川の上流域は 石見国出羽の 高橋氏の勢力下にあった[5]

陰徳太平記』によると、 大永3年(1523年)3月に 高橋久光が3000の軍勢で加井妻城を攻めているが、討死した、という。勝利に乗じて三吉氏は反撃に転じたが、毛利元就による高橋氏への援軍が3500の兵を率いて北上して、城主青屋出羽守入道友梅以下1800人をこの城に包囲した。 しかし、 周防国大内氏安芸国西条に侵攻したため、青屋氏の助命を条件に城を受け取って和議が成立した、とある。

実際には久光の嫡男、高橋元光が加井妻城を攻めて戦死をしている。高橋元光は 永正10年(1513年)に比叡尾城主三吉氏を攻め、永正12年(1515年)に三吉方の支城加井妻城攻めを行い、攻撃中に戦死した。彼の戦死は、高橋氏最初にして最大の躓きとなった。永正12年(1515年)4月23日、 毛利興元が田総氏に宛てた書状「閥閲禄」所収田総惣右衛門家文書によると「仍高橋方就於入君討死御味方中競致推察候」とあるので、この時入君(現在の君田の東・西入君付近)において高橋元光が討死していると考えられる[6]

後に三吉隆亮の弟がこの久高の養子になって粟屋隆信を名乗り、対面に勝山城を築いた。このときに廃城になった。

脚注 編集

  1. ^ 天正15年(1587年)に亡くなっているとすると、粟屋隆信が天正19年(1591)に亡くなった説は成立しなくなり、粟屋隆信は1587年以前に死亡となる。
  2. ^ 三吉豊後守と同一人物とする説もある。
  3. ^ 広島県教育委員会『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
  4. ^ 可愛川の4キロメートル南には 宍戸氏の祝屋城があり、もともとこの地域は宍戸氏の支配領域だった。
  5. ^ 『陰徳太平記』には「青屋の城」とあり、この城は高橋大九郎久光と「備後の三吉修理亮と数年論争の地となれば」と記している。
  6. ^ 『三次市史 古代・中世文献史料編』

関連項目 編集

外部リンク 編集