千秋季信

戦国時代の熱田社大宮司

千秋 季信(せんしゅう すえのぶ)は、戦国時代熱田社大宮司

 
千秋 季信
生誕 永禄3年(1560年?)
死没 不詳
改名 喜七郎(幼名)→季信
官位 紀伊守
主君 織田信長
氏族 熱田大宮司千秋家
父母 父:千秋季忠
水野信元
季盛、季近、季俊、季長、俊応、季政、娘、娘、娘
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通称は紀伊守[1]

生涯 編集

1560年永禄3年)父千秋季忠は、織田信長に従って桶狭間の戦いに出陣し討死、信長は季忠の妻の胎内にあった季信に14年後の1574年天正2年)に引見し、刀一振りとともに野並村を領地として与えたことから、季忠の子として1560年または1561年に誕生したと考えられる。

その後、神官のみになった説と、神官と信長の馬廻を担った説がある[2]

1601年慶長6年)2月4日 - 『尾張国領主松平忠吉家老の小笠原吉次が、大宮司千秋李信通して、大宮司家領野並村一郷の指出提出を庄屋に命ず』とある[3]

2月7日 - 『徳川家康が大宮司千秋李信に大宮司領を安堵し、三河国高橋群舞木村と尾張国海東群下田村・丹羽郡赤目村三ケ村の賛地として、尾張国愛智郡野並郷一円を山ともに給料す』と伊奈忠次書状写にある[3][4]

亡くなった年月は不明だが、熱田大宮司は息子の季盛が継いでいる[1]

脚注 編集

  1. ^ a b 千秋氏”. 2023年1月17日閲覧。
  2. ^ マイナー武将列伝”. 2023年1月17日閲覧。
  3. ^ a b 千秋家文書 / 熱田神宮文書
  4. ^ 中世熱田社の構造”. 2023年1月17日閲覧。

参考文献 編集