千葉 益子(ちば ますこ、1898年明治31年〉3月19日 - 1971年昭和46年〉6月16日[1][2])は、日本美容家兵庫県出身。本名は「相原ます」[1]、出生名は「千葉ます」[3]

ちば ますこ

千葉 益子
大正末期
生誕 千葉 ます
(1898-03-19) 1898年3月19日
兵庫県
死没 (1971-06-16) 1971年6月16日(73歳没)
東京都世田谷区
国籍 日本の旗 日本
出身校 兵庫県立豊岡高等女学校
職業 美容家
時代 大正 - 昭和
影響を受けたもの マリールイズ
前任者 マリールイズ
配偶者 相原松三郎
親戚 マリールイズ(義母)
受賞 藍綬褒章1963年
勲五等宝冠章(1969年
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「近代美容の母」とされるマリールイズの養女(養子の妻)。着付けにおいては昭和期の優れた指導者であり[4]、美容界の発展と美容師の地位向上に尽力した[1]。マリールイズの養子である相原松三郎の妻だが、結婚した時には「千葉益子」の名で美容家として通用していたため、生涯を「千葉益子」の名で通した[5]

経歴 編集

兵庫県で誕生した[3]。1913年(大正2年)に[1]、兵庫県立豊岡高等女学校(後の兵庫県立豊岡高等学校)を首席で卒業した[3][6]。しかし父の事業の失敗で家が没落し、進学は叶わなかった[6]。ごく普通に結婚する生活を嫌って上京[3][6]。1916年(大正5年)に親類の知人の伝手で、マリールイズの西洋美容院「巴里院」に入店し[5]、フランス式の美容術を学んだ[6]

巴里院のすぐ近くに日比谷大神宮の結婚式場があり、上流階級の人々が多く利用しており、和洋美容の盛業と共に、益子は次第に頭角を現し[3]、店内の地位を確立した[7]。関東大震災を経て、被災した巴里院が復興した後、益子の帯結び作品が紹介され始めた。1925年(大正14年)にはマリールイズの起こしたマリールイズ化粧院が『主婦の友』などで益子の作品が紹介された後、次第にマリールイズの名が外れ、千葉益子の名のみで通用するようになった[8]

1919年(昭和4年)にマリールゥヰズ美容女学校が開校されると、益子は副院長を務め[1]、美装科を担当、花嫁の着付けなどを指導した[7][9]。1929年(昭和14年)に夫が死去した後[10]、マリールイズ化粧院の支店を管轄に持ち、多忙な日々を送るようになった[11]

終戦直後の1946年(昭和21年)、東京都婦人理容組合の主催による大規模競技会「ミス・パーマネントコンクール決勝戦」が浅草で開催され、マリールイズが審査委員長を務め、益子が審査員と実務を担当した[12]。一方で、当時の美容は未だ理容術営業取締規則の法の中にあったため、千葉は山野千枝子ら美容家と共に美容業の独立を訴え、理容組合の幹部からは「うるさい婆さん」を略して「ウルバア」と陰で仇名された[13]

1947年(昭和22年)、東京都美容師会の会長に就任[13]。1949年(昭和24年)に、株式会社マリールゥヰズの初代社長に就任した[9][14]。1962年(昭和37年)、美容師として4人目となる藍綬褒章を受章した[13]

1967年(昭和42年)に、花嫁衣裳の伝統と格式を後世に伝えることと、着付技術の研鑽や開発を主旨とした「千葉益子賞花嫁着付コンクール」が創設された[4]。この種のコンクールに個人の名前が冠されたのは、初めてのことであった[15]。1969年(昭和44年)に、勲五等宝冠章を受章した[1]

1971年6月16日、東京都世田谷区の自宅で、73歳で死去した。マリールイズを始めとするキリスト教徒の一族にあって、最期までキリスト教とは無縁の生涯であった[13]。なお夫の松三郎は再婚で、先妻との間に『美しいきもの姿をつくる』(新美容出版)などの著者であるマリールイズ昭子がおり、昭子は二代目千葉益子の名を何度も進められたが、当人は「技術は1代限りのもの」が信念であり、名を継ぐことはなかった[15]

著作 編集

  • 『花嫁』百日草、1964年。 NCID BA40288724 
  • 『花嫁のお着付と鬘』百日草、1955年10月。 NCID BB00735303 

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f 日外アソシエーツ 2004, p. 1623
  2. ^ 日本人名大辞典上田正昭他監修、講談社、2001年12月6日、1217頁。ISBN 978-4-06-210800-3https://kotobank.jp/word/千葉益子-10913942022年3月7日閲覧 
  3. ^ a b c d e 山吉 2011, p. 135
  4. ^ a b 文化事業”. 百日草 (2021年). 2022年3月7日閲覧。
  5. ^ a b 山吉 2011, p. 136
  6. ^ a b c d 並木 2015, pp. 176–177
  7. ^ a b 並木 2015, pp. 178–179
  8. ^ 山吉 2011, p. 168
  9. ^ a b 並木 2015, pp. 180–181
  10. ^ 山吉 2011, p. 15
  11. ^ 山吉 2011, p. 187
  12. ^ 並木 2015, pp. 182–183
  13. ^ a b c d 並木 2015, pp. 184–185
  14. ^ 山吉 2011, p. 252
  15. ^ a b 山吉 2011, pp. 318–319

参考文献 編集

関連項目 編集