吉備上道 兄君(きびのかみつみち の えきみ、生年不明 - 雄略天皇23年(479年))は、日本古代の5世紀後半の吉備上道の豪族。父は吉備上道田狭(きびのかみつみち の たさ)。母親は吉備稚媛弟君の同父兄で、磐城皇子(いわきのみこ)、星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)の異父兄。

経歴 編集

吉備上道田狭の長男で、恐らく後継者であったろうと思われる。

母親については、「田狭臣、稚媛を娶りて、兄君、弟君を生めり」とあり、吉備上道臣の女(むすめ)あるいは吉備窪屋臣の娘である稚媛であると思われる。ただし、続けて「別本(ことふみ)に云はく、「田狭臣が婦(め)が名は、毛媛(けひめ)といふ。葛城襲津彦(かずらき の そつひこ)の子、玉田宿禰(たまだ の すくね)の娘なり」ともあり、どちらが本当の母親なのか、疑わしくなる。田狭に毛媛と稚媛の二人の妻が居た、ということなのかも知れない。ここでは、稚媛説に従う。

父親、田狭が妻である稚媛の美貌を褒め称えたため、雄略天皇に横恋慕され、田狭が任那国司(派遣官)である間に、天皇が稚媛を後宮に入れてしまった。結果、母親と生別する(「別本」では、この時に父親も殺されたともいう)。

西暦に換算すると、463年に天皇の命で弟の弟彦が吉備海部直赤尾(きびのあま の あたい あかお)とともに朝鮮半島へ行った。新羅征伐と百済からの「才伎」(てひと、技術者)入手が目的である。弟はそこで新羅に亡命した父親の伝言に賛意し、謀叛未遂をしたという理由で、嫁である樟媛(くすひめ)によって暗殺された[1]

兄君のところへは、田狭からの伝言が届いた、という記録は存在しない。

その後、父親である田狭は行方知れずになってしまった。

この間に、母親の稚媛は、雄略天皇との間に磐城皇子と星川稚宮皇子の二人の皇子を儲ける。

西暦478年、白髪皇子(しらか の みこ、のちの清寧天皇)が皇太子になる[2]

西暦479年、雄略天皇崩御[3]

時を経ずして、稚媛とともに星川皇子を担いだクーデターに協力し、大蔵の官(つかさ)を占拠する。ところが、雄略天皇の遺詔に従った大伴室屋連(おおとも の むろや むらじ)、東漢掬直(やまとのあや の つか の あたい)らによって大蔵を取り囲まれて放火され、稚媛、星川皇子ともども焼け死んでしまった、と伝えられている[4]

この月に、一族の吉備上道臣たちは水軍40艘で来援しようとしていた。ところが、乱が鎮圧されたので引き返してしまった。皇太子であった清寧天皇は、吉備氏の治めていた山部を没収した[4]

この時の「上道臣」は田狭か、(『書紀』の該当箇所の記述に誤りがあれば)兄君に相当し、あるいは兄君、弟君の子孫か兄弟であったことと思われる。いずれにしても吉備一族の田狭の縁者であった可能性は高い。

以上が、『日本書紀』巻第十四、巻第十五に収められている物語である。これらの記録は『古事記』には見られないところから、『帝紀』・『旧辞』にあったものではなく、大伴氏の家記が『書紀』の中に取り入れられたものだろうという坂本太郎の説がある[5]

脚注 編集

  1. ^ 『日本書紀』雄略天皇7年是歳条
  2. ^ 『日本書紀』雄略天皇22年1月1日条
  3. ^ 『日本書紀』雄略天皇23年8月7日条
  4. ^ a b 『日本書紀』清寧天皇即位前紀条
  5. ^ 「雄略朝における王権と東アジア」(『東アジア世界における日本古代史講座』(四)、学生社、1980年。『井上光貞著作集』第五巻)

参考文献 編集

  • 『コンサイス日本人名辞典 改訂新版』p421(三省堂、1998年)
  • 『日本書紀』(三)、岩波文庫、1994年
  • 『天皇と古代王権』、井上光貞:著、吉村武彦:編、岩波現代文庫、2000年
  • 『日本の歴史1 神話から歴史へ』、井上光貞:著、中央公論社、1965年
  • 『日本の古代6 王権をめぐる争い』、岸俊男:編、中公文庫、1996年
  • 『毎日グラフ別冊 古代史を歩く4吉備』、毎日新聞社、1987年

関連項目 編集