唐括 定哥(とうかつ ていか、? - 貞元元年12月22日[1]1154年1月7日))は、の廃帝海陵王の妃嬪。

経歴 編集

唐括定哥は初め、皇族の烏帯の正妻であった。定哥は好色淫奔で多くの男と密通し、迪古乃(後の海陵王)とも通じていた。一方、烏帯は熙宗を弑逆して海陵王を擁立する企てに加担した。

天徳4年(1152年)7月、海陵王は「お前が夫を殺すなら、私はお前を皇后に立てよう」と烏帯の殺害をもちかけた。定哥は驚き、ひとたびは拒んだが、海陵王は「お前がやらなければ、お前の子供たちもろとも処刑する」と脅した。定哥はやむなく、烏帯を謀殺した。

烏帯の葬儀の後、定哥は後宮に入って娘子に封ぜられ、海陵王の寵愛を受けた。貞元元年(1153年)4月、貴妃に封ぜられた。しかし海陵王はその後、漁色にふけって定哥をかえりみなかった。定哥は屋敷の屋根の上に立って、立ち寄った海陵王を罵ったが、海陵王は見向きもせずにさっさと立ち去った、という出来事もあった。その後、定哥は昔の家僕と通じた。侍女の貴哥(後の莘国夫人)は海陵王に密報した。同年12月丙子(1154年1月7日)、定哥は賜死となった。

定哥の妹の唐括石哥も海陵王に奪取され、麗妃となった。

子女 編集

  • 兀答補
  • 女子

いずれも烏帯の子女

伝記資料 編集

脚注 編集

  1. ^ 『金史』巻5, 海陵王紀 貞元元年十二月丙子条による。