商 挺(しよう てい、1209年 - 1289年)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人官僚の一人。

概要 編集

出自 編集

商挺の父商衡は、金朝に仕えて僉陝西行省員外郎の地位を得たが、戦死した人物であった。商挺が24歳の時、モンゴル軍の攻撃によって金朝の首都開封が陥落したため、商挺は北方に逃れて冠氏県趙天錫に保護された。この頃、文人として名高い元好問楊奐らと交流して名を高め、やがて東平の大軍閥である厳実に招聘されて息子たちの教育を任せられるに至った。厳実が死去した後も、その息子厳忠済に仕え曹州判官といった役職を務めている[1]

京兆地方の経営 編集

1253年癸丑)、第4代皇帝モンケが即位すると皇弟のクビライは東アジア方面軍の司令官に任じられ、京兆地方を領地として与えられた。そこでクビライは商挺を京兆の行政官として招聘し、楊惟中とともに郎中として事務を担うこととなった。この頃、長きにわたる兵乱によってこの地方も疲弊していたが、楊惟中と商挺の尽力によって京兆一帯も安定しだした。翌1254年甲寅)には楊惟中に代わって廉希憲が赴任し、商挺は宣撫副使に昇格となっている[2]

1256年丙辰)には軍需品として布万匹・米三千石・帛三千段を平涼に輸送することになっていたが、期日までに間に合いそうにないことに郡人が恐れていたため、商挺が便宜を図ったという。ところが、軍司令官としてのクビライの方針に不満を抱いたモンケは監査官として1257年丁巳)にアラムダールらを派遣し、このために商挺は1258年戊午)に罷免され、東平に戻らざるを得なくなった。その後モンケとクビライが和解すると、モンケが四川方面に、クビライが長江中流域にそれぞれ侵攻し、協力して南宋を討つこととなった。この時、南宋討伐の方策を問われた商挺は四川に進む道は険阻であり苦戦するでしょう、とモンケの未来を暗示するように答えたと伝えられている。果たして四川の侵攻に手間取った家は熱病にかかって急死してしまい、紆余曲折を経てクビライは北還し即位を宣言することとなった[3]

帝位継承戦争 編集

一方、カラコルムに駐留していた末弟のアリク・ブケも即位を宣言したため、両者の間で内戦(帝位継承戦争)が勃発することとなり、商挺は廉希憲と協力して西方に派遣されることになった。中統元年(1260年)5月に商挺らは京兆に至ったが、この頃アリク・ブケ派のクンドゥカイが大軍を率いて六盤山に駐留していた。商挺はクンドゥカイの情勢を観察し、「クンドゥカイにとって、配下の精鋭を率いて京兆を攻撃するのが上策、六盤山で守りを固め状勢を見守るのが中作、北上してカラコルムの軍団と合流しようとするのが下策であるが、クンドゥカイは下策を取るであろう」と語ったという。また、廉希憲は商挺の意見に同意して「クンドゥカイは勢いに乗じて東進し我が軍を攻撃することはできない。何故ならば、今クンドゥカイの下にいる兵は状況に流されてアリク・ブケ派についた者が大多数で、意思が統一されていないからだ。もしクンドゥカイが敵対勢力(クビライ派)に誼を通じようとする者を捕らえるようになれば、疑心暗鬼を生じて仲間割れを始めるだろう……」と幕僚に語っている[4]

果たして、商挺らの観察通りクンドゥカイはカラコルムから南下してきていたアラムダール率いる軍勢と合流するため、六盤山を引き払って北上を始めた。甘州においてクンドゥカイ軍とアラムダール軍は合流を果たしたものの、廉希憲が予想したように諸将間の意見の一致を見ず、最終的にカラ・ブカ率いる軍勢は行動をともにせずにモンゴル高原に帰還することになった。残されたクンドゥカイとアラムダールは軍勢を再編して南下を開始し、これに対しクビライ側はオゴデイ家のカダアン・オグル、オングト部出身の汪良臣、バチン(八春,Bačin)らがこれを迎え撃つこととなった。アリク・ブケ派の軍勢とクビライ派の軍勢が対峙したのは非常に風の強い日だったため、汪良臣は軍士に命じて馬を下り刀剣を用いて攻撃させ、汪良臣手ずから敵兵を数十人斬る奮戦ぶりもあってアラムダール軍は劣勢に陥った。更にカダアン軍はアラムダール軍の逃走経路に待ち伏せてこれを大いに破り、遂に主将たるアラムダール・クンドゥカイを殺害した。戦勝の報告を受けたクビライは喜び、「商孟卿は、まさに古の良将である」讃え宣撫司の地位を授けた[5]

中統2年(1261年)には参知政事の地位に進んだ。この頃南宋の将劉整が瀘州で投降しており、軍吏は一度南宋に降りながら再び劉整とともに来帰した者数百人は誅殺すべきであると主張したが、商挺はこの意見を退けてみな釈放したと伝えられている[6]

至元2年(1265年)、河東に派遣されたがすぐ呼び戻され、至元3年(1266年)には姚枢竇黙王鶚楊果らとともに五経の要約を編纂しクビライに献上した。その後、至元6年(1269年)には同僉枢密院事、至元7年(1270年)には僉書、至元8年(1271年)には副使を、それぞれ歴任している[7]

安西王相府時代 編集

至元9年(1272年)、クビライの子マンガラが京兆を領地として与えられ、安西王に封ぜられた。そこでかつて京兆の統治に携わっていた商挺が起用され、新たに設置された安西王相府の王相に任じられることになった[8]。至元14年(1277年)、シリギの乱勃発に伴ってマンガラが北征することになると、商挺に留守の安西王相府の統括が任せられた。そこで商挺は李クランギに民兵数千を訓練させ備えとしていたところ、果たして安西王国領の六盤山トゥクルクの叛乱が起き、李クランギが叛乱鎮圧に活躍することとなった。その後、商挺は君主としての心得十策をマンガラに授けたりもしたが、マンガラはクビライに先立って至元17年(1280年)に死去してしまった。王妃の請願により安西王位は息子のアナンダが継ぐこととなったが、クビライは「アナンダは年少であり、祖宗の訓に習熟していない」ことを理由に当面の安西王相府の運営を王妃と商挺に委ねた[9][10]

この頃、郭琮・郭叔雲らが趙炳と対立し、告発によって趙炳が獄死するという事件が起こった。この一件には本来商挺に関係なかったが、王府の娘奚徹徹が郭琮・郭叔雲らを庇いたいあまり商挺に責任転嫁しようとしたため、怒ったクビライによって商挺は召喚されその息子商瓛は獄に繋がれた。董文忠が商挺を弁護したこともあり、至元16年(1279年)春になって初めて商挺は無罪とされ、同年冬に商挺と商は釈放された。至元20年(1283年)に枢密副使の地位に復したものの、病により免除となった。至元21年(1284年)には再び趙氏父子が商挺を訴えたため、商挺は再び捕縛されたが、100日余りで釈放された。至元25年(1288年)、クビライが近臣の董文用に商挺の年齢を尋ねたところ、既に80の高齢であると言われその老齢を惜しんだとされるが、同年冬12月(1289年1月)に商挺は死去した。息子には商琥商璘商瑭商瓛商琦らがいる[11]

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻159列伝第46商挺伝,「商挺字孟卿、曹州濟陰人。其先、本姓殷氏、避宋諱改焉。父衡、僉陝西行省員外郎、以戦死。挺年二十四、汴京破、北走、依冠氏趙天錫、与元好問・楊奐遊。東平厳実聘為諸子師。実卒、子忠濟嗣、辟挺為経歷、出為曹州判官。未幾、復為経歷、賛忠濟興学養士」
  2. ^ 『元史』巻159列伝第46商挺伝,「癸丑、世祖在潜邸、受京兆分地、聞挺名、遣使徵至塩州。入対称旨、字而不名。間陪宴語、因曰『挺来時、李璮城朐山、東平当餽米万石。東平至朐山、率十石致一石、且車淖于雨必後期、後期罪死。請輸沂州、使璮軍取食、便』。世祖曰『愛民如此、忍不卿従』。楊惟中宣撫関中、挺為郎中。兵火之餘、八州十二県、戸不満万、皆驚憂無聊。挺佐惟中、進賢良、黜貪暴、明尊卑、出淹滯、定規程、主簿責、印楮幣、頒俸禄、務農薄税、通其有無。期月、民乃安。誅一大猾、羣吏咸懼。且請減関中常賦之半。明年、惟中罷、廉希憲来代、陞挺為宣撫副使」
  3. ^ 『元史』巻159列伝第46商挺伝,「丙辰、徵京兆軍需布万匹・米三千石・帛三千段、械器称是、輸平涼軍。期迫甚、郡人大恐。挺曰『他易集也、運米千里、妨我蠶麥』。郿長王姓者、平涼人也、挺召与謀、対曰『不煩官運、僕家有積粟、請以代輸』。挺大悦、載價与之、他輸亦如期。復命兼治懐孟、境内大治。丁巳、憲宗命阿藍答児会計河南・陝右。戊午、罷宣撫司、挺還東平。憲宗親征蜀、世祖将趨鄂・漢、軍于小濮、召問軍事。挺対曰『蜀道險遠、万乗豈宜軽動』。世祖默然久之、曰『卿言正契吾心』。憲宗崩、世祖北還、道遣張文謙与挺計事。挺曰『軍中当厳符信、以防姦詐』。文謙急追及言之。世祖大悟、罵曰『無一人為我言此、非商孟卿幾敗大計』。速遣使至軍立約。未幾、阿里不哥之使至軍中、執而斬之。召挺北上至開平、挺与廉希憲密賛大計」
  4. ^ 『元史』巻126列伝13廉希憲伝,「希憲謂海僚佐曰『渾都海不能乗勢東来、保無他慮。今衆志未一、猶懐反側、彼軍見其将校執囚、或別生心、為害不細……』」
  5. ^ 『元史』巻159列伝第46商挺伝,「世祖既即位、挺奏曰『南師宜還扈乗輿、西師宜軍便地』。従之。以廉希憲及挺宣撫陝・蜀。中統元年夏五月、至京兆。哈剌不花者、征蜀時名将也、渾都海嘗為之副、時駐六盤山、以兵応阿里不哥。挺謂希憲曰『為六盤、有三策悉銳而東、直擣京兆、上策也。聚兵六盤、観釁而動、中策也。重装北帰、以応和林、下策也』。希憲曰『彼将何従』。挺曰『必出下策』。已而果然。於是与希憲定議、令八春・汪良臣発兵禦之、事具希憲伝。六盤之兵既北、而阿藍答児自和林引兵南来、与哈剌不花・渾都海遇於甘州。哈剌不花以語不合、引其兵北去、阿藍答児遂与渾都海合軍而南。時諸王合丹率騎兵与八春・汪良臣兵合、乃分為三道以拒之。既陣、大風吹沙、良臣令軍士下馬、以短兵突其左、繞出陣後、潰其右而出、八春直擣其前、合丹勒精騎邀其帰路、大戦于甘州東、殺阿藍答児・渾都海。事聞、帝大悦、曰『商孟卿、古之良将也』。改宣撫司為行中書省、進希憲為右丞、挺為僉行省事」
  6. ^ 『元史』巻159列伝第46商挺伝,「二年、進参知政事。宋将劉整以瀘州降、繫前降宋者数百人来帰、軍吏請誅以戒、挺尽奏而釈之。興元判官費寅有罪懼誅、以借兵完城事訟挺与希憲于朝。帝召挺便殿、問曰『卿在関中・懐孟、両著治效、而毀言日至、豈同寅有沮卿者耶。抑位高而志怠耶。比年論王文統者甚衆、卿独無一言』。挺対曰『臣素知文統之為人、嘗与趙璧論之、想陛下猶能記也。臣在秦三年、多過、其或従権以応変者有之。若功成以帰己、事敗分咎於人、臣必不敢、請就戮』。挺既出、帝顧駙馬忽剌出・枢副合答等、数挺前後大計、凡十有七、因嘆曰『挺有功如是、猶自言有罪、若此、誰復為朕戮力耶。卿等識之』。四年、賜金符、行四川行枢密院事」
  7. ^ 『元史』巻159列伝第46商挺伝,「至元元年、入拝参知政事。建議史事、附修遼・金二史、宜令王鶚・李冶・徐世隆・高鳴・胡祗遹・周砥等為之、甚合帝意。二年、分省河東、俄召還。三年、帝留意経学、挺与姚枢・竇默・王鶚・楊果纂五経要語凡二十八類以進。六年、同僉枢密院事。七年、遷僉書。八年、陞副使。数軍食、定軍官品級、給軍吏俸。使四千人屯田、開墾三万畝、收其穫以餉親軍。汰不勝軍者戸三万戸、一丁者亦汰去。丁多業寡、業多丁寡、財力相資、合出一軍」
  8. ^ 松田 1979, p. 42.
  9. ^ 松田 1979, p. 46.
  10. ^ 『元史』巻159列伝第46商挺伝,「九年、封皇子忙阿剌為安西王、立王相府、以挺為王相。十四年、詔王北征、王命挺曰『関中事有不便者、可悉更張之。』挺曰『延安民兵数千、宜使李忽蘭吉練習之、以備不虞。』未幾、禿魯叛、以延安兵応敵、果獲其力。挺進十策於王、曰睦親鄰、安人心、敬民時、備不虞、厚民生、一事権、清心源、謹自治、固本根、察下情。王為置酒嘉納。王薨、王妃使挺請命于朝、以子阿難答嗣。帝曰『年少、祖宗之訓未習、卿姑行王相府事』」
  11. ^ 『元史』巻159列伝第46商挺伝,「初、運使郭琮・郎中郭叔雲与王相趙炳搆隙。或告炳不法、妃命囚之六盤獄以死。朝廷疑擅殺之、執琮・叔雲鞫問、伏辜、事具趙炳伝。初無一毫及挺。惟王府女奚徹徹、以預二郭謀、臨刑、望以求生、始有瞹昧語連挺及其子瓛。帝怒、召挺、拘炳家、瓛下獄。帝命趙氏子曰『商孟卿、老書生、可与諸儒讞其罪』。吏部尚書青陽夢炎以議勳奏曰『臣宋儒、不知挺向来之功可補今之過否』。帝不悦曰『是同類相助之辞也』。符宝郎董文忠奏曰『夢炎不知挺何如人、臣以曩時推戴之功語之矣』。帝良久曰『其事果何如』。対曰『臣目未覩、耳固聞之、殺人之謀、挺不与也』。帝默然。十六年春、有旨『挺不可全以無罪釈之、籍其家』。是冬、始釈挺及瓛。二十年、復枢密副使、俄以疾免。二十一年、趙氏子復訟父寃、挺又被繫、百餘日乃釈。二十五年、帝問中丞董文用曰『商孟卿今年幾何』。対曰『八十』。帝甚惜其老、而嘆其康強。是歳冬十有二月卒。有詩千餘篇、尤善隸書。延祐初、贈推誠協謀佐運功臣・太師・開府儀同三司・上柱国・魯国公、諡文定。子五人琥・璘・瑭・瓛・琦」

参考文献 編集

  • 元史』巻159列伝第46商挺伝
  • 新元史』巻158列伝第55商挺伝
  • 池内功「アリク=ブカ戦争と汪氏一族」『中国史における乱の構図』雄山閣出版、1986年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会〈東洋史研究叢刊〉、2004年。ISBN 4876985227NCID BA66427768https://id.ndl.go.jp/bib/000007302776 
  • 松田孝一「元朝期の分封制 : 安西王の事例を中心として」『史學雜誌』88号、1979年
  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年